孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
都心の一角にある月島総合法律事務所の会議室。
大きなガラス窓から陽が差し込むが、室内の空気は冷たい緊張に包まれていた。

成瀬紬は、スーツの袖を整えながら資料を整え、隣に座る新人の西田遼太郎に小声で確認する。

「加害者の弁護士先生、おそらく一部示談の意向を探ってくるはず。でも、被害者側の意思は明確。絶対に流されないように」

「はい。……緊張しますけど、しっかりメモとります」

西田は緊張した面持ちで頷いた。

数分後、黒いブリーフケースを抱えた弁護士が入室してきた。
スーツ姿の中年男性──弁護士・石井重信。
刑事事件を数多く扱うベテランで、顔を合わせた瞬間から、どこか計算された笑みを浮かべていた。

「お時間いただきありがとうございます。被疑者・村岡の代理人を務めております、石井と申します」

「月島法律事務所の一条です。こちらは保険会社の成瀬さん、そしてご同席の西田さんです」

互いに名刺交換を済ませると、石井は静かに口を開いた。

「本日は、ご遺族──特に母親の心情を踏まえ、少しでも和解への道を模索できればと考えております。被疑者の村岡も、深く反省しており──」

「和解の意思は、被害者側にはありません」

一条の低く、冷静な声が、石井の言葉を遮った。

石井は眉を動かしもせず、口角だけで笑った。

「とはいえ、刑事裁判の場においても、示談は量刑判断において重要な要素となります。社会復帰の道を考慮する中で、一定の誠意をお示しできれば──」

「誠意という言葉は便利ですが、その裏にある“軽減”を被害者側が望む理由はありません」

その言葉のあと、一条が資料をめくり、事故の詳細が記された一枚を前に出す。

「飲酒量、時間帯、制限速度の3倍以上での走行、歩道への突入、そして死亡。
過失というにはあまりにも重い。量刑を左右する余地は、加害者の意図が明確であることのみによって判断されるべきです」

「……本当に、徹底抗戦の構えなんですね」

石井がため息まじりにそう言った瞬間、紬が静かに口を開いた。

「ご遺族は、金銭で解決されることを最も恐れていらっしゃいます。特に、SNSで心無い言葉を受けている今だからこそ、“子どもを金で売った”などという言葉が投げられることが、一番の恐怖なんです」

西田が、その言葉を必死に記録しながら、一度だけ顔を上げ、石井の表情をうかがった。

沈黙。

石井は、目の前の書類に視線を落としたあと、小さく息を吐いた。

「……裁判での争点整理の前に、少しでも双方の落としどころを探れるかと思いましたが、今回は見送りましょう。ただし、必要があれば接触の機会を再度いただきたく」

「連絡は文書でお願いします」

一条が短く返すと、石井は椅子から立ち上がった。

「では、また」

去っていく石井の背に、誰も声をかけることはなかった。

会議室に残された三人。
紬は小さく深呼吸し、机の上のファイルを閉じる。

「……一歩も譲る気はなかったですね、一条さん」

「ええ。でも、ああいう人間ほど、事実の重さが裁判で突きつけられたときに脆くなる。焦らず、丁寧に準備を進めましょう」

紬と西田は同時に頷いた。
この戦いに「心で折れないこと」が、何よりも重要だった。
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