孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
神楽坂の路地裏に佇む小料理屋「和食 鳴海」は、木の温もりを感じさせる格子戸と、控えめな暖簾が迎えてくれる落ち着いた佇まいだった。

中に入ると、カウンターと奥の小上がりがある静かな空間。紬と一条は、半個室のテーブル席に案内された。

壁には季節の短歌と掛け軸、窓際には控えめに飾られた生け花。
柔らかな照明と、静かに流れる琴のBGMがふたりの間にある空気をそっと和らげていた。

「こちら、付き出しの胡麻豆腐と季節の前菜です」

丁寧な所作の店員が器を置いて去ると、紬はふっと息をついた。

「……こういうお店、なんだか久しぶりです」

「落ち着きますね。喧騒から離れて、考えを整理できる」

と、一条が応じる。
冷酒を軽く口に含みながら、さっそく今日の面談の話題が自然と始まった。

「相手方、少し追い詰められてましたね。過失の度合いで逃げ切れるとでも思っていたような……」

「飲酒運転で人が亡くなっている以上、どれだけ弁護に入っても限度があります」

「でも……被害者のお母さまが、もしあのまま誹謗中傷だけに晒されていたらと思うと、やっぱり、正しい形で怒りを届けられる場が必要ですね」

「成瀬さんのヒアリングがなければ、あの感情までは引き出せなかったと思います」

少しの沈黙が流れ、二人とも静かに箸を進める。

やがて、紬が器を置いて、一条を見た。

「……あの、ふと思ったんですが。一条さんって、お休みの日はどうしてるんですか?」

その問いに、一条はわずかに笑みを浮かべた。

「ほとんど読書か、スポーツジムです。生活に波がないので、たまに自分でも驚きます」

「そういう律儀なところ、好きです」

紬が言って、すぐに「……あ、いえ」と少し赤くなり目をそらす。

一条は、すこし口元を緩めた。

「ありがとうございます。でも成瀬さんこそ。いつもあんなに忙しいのに、ちゃんと人の話を聞ける余裕がある。僕には、なかなかできないことです」

「人に気を遣うのは、ちょっと……癖みたいなものです。昔から、周囲を気にしてばかりで」

「それ、わかる気がします」

今夜の料理は、旬の鮮魚の煮つけと、山菜の天ぷらが並ぶ。
言葉少なめでも、互いの呼吸は自然と重なっていた。

紬は盃を手にとって、ゆっくりと顔を上げた。

「こうして……仕事以外のことで話すのも、なんだか不思議ですね」

「ええ。たしかに、変な感じです。でも……心地いいです」

ふと目が合った瞬間、どちらともなく視線をそらした。

その沈黙もまた、優しい余韻のように夜の空気に溶け込んでいた。
< 86 / 211 >

この作品をシェア

pagetop