孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
店を出た後も、ふたりはしばらく並んで歩いた。
駅まではほんの数分の距離だったが、どちらからともなく速度を緩めていた。

夜風が頬を撫で、紬の髪がふわりと揺れる。

「……今日は、誘っていただいて嬉しかったです」と一条が言った。

紬は一瞬、少し驚いたように一条を見上げて、それから微笑んだ。

「私こそ。いつも助けてもらってばかりで、せめて少しでも……お礼になるかなって」

「充分ですよ。あなたと、こんなふうに落ち着いて食事ができる日が来るとは、正直思っていなかったので」

「えっ?」

「最初の頃は……いつも私のことを避けているように見えてましたから」

紬は気まずそうに苦笑し、小さく「すみません……」と呟いた。

「でも、今は違う。あなたが心を開いてくれたって、そう思えるようになった」

「……はい。たしかに、そうかもしれません。私も、今は一条さんと話すのが……なんだか、自然で」

風が少し強く吹き、紬が手で前髪を押さえた。一条がふと手を伸ばし、紬の肩にそっと触れた。

「風、冷たくないですか?」

その一瞬のぬくもりに、紬の心臓が跳ねる。

「……大丈夫です」

そう言った紬の声は、少しだけ掠れていた。

一条の手はすぐに離れたが、その感触は確かに残っていた。
ふたりの間に、明確な“距離”が消えかけていた。

駅の前に着いたとき、一条がふと立ち止まった。

「成瀬さん」

「……はい」

「また近いうちに、食事、ご一緒してもいいですか?」

「……はい。喜んで」

素直なその返事に、一条の表情が柔らかく緩んだ。

夜の街に、まだ名もない想いが静かに芽吹いていた。
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