孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
午後2時を少し過ぎた頃、月島総合法律事務所の応接スペースに紬の姿があった。

落ち着いたトーンの木目調でまとめられた室内は、外の喧騒とは無縁の静けさを保っている。

一条は資料を手に現れ、柔らかな笑みを浮かべて「お待たせしました」と言いながら、紬の向かいの席に腰を下ろした。

「いえ、こちらこそお時間いただいてありがとうございます」

テーブルの上には、それぞれが持参した書類が整然と並べられる。

保険会社と法律事務所、立場は違えど、目的はひとつ。

被害者家族を守ること。

「まずこちらから、現時点での保険金請求に関する進捗です」
紬はファイルを開き、必要事項を簡潔にまとめた資料を渡す。

「社内でも慎重に協議を重ねていて、示談を行わない方針で正式に確定しました。事故の重大性を重く見て、慰謝料も満額支払いの方向です」

一条は資料に目を通しながら、時折頷く。

「刑事事件としても、検察側は危険運転致死罪での立件を視野に入れているようです。こちらでも情状酌量が通らないよう、加害者の供述やアルコール濃度、過去の違反履歴など、すべて証拠としてまとめて提出しています」

「ありがとうございます。一条先生がついてくださって本当に心強いです」

紬の言葉に、一条はふと表情をやわらげた。
「それは私のセリフでもありますよ。保険会社の対応が早くて丁寧なので、こちらも動きやすい」

少しだけ空気が和らいだその瞬間、紬は思い出したように言った。

「そういえば、今日病院に行ってきました。お母さま……ずいぶん落ち着かれていて。まだSNSの中傷には傷ついていますが、以前よりも表情がやわらいでいました」

「それはよかった」
一条は心からの安堵の声をもらす。
「あのお母さんは、強いけれど、決して無理をしてほしくないですね」

紬も静かに頷く。
「ほんとに。子どもの命が奪われて、心が壊れそうになって当然なのに、周囲の声って……無責任で残酷なことばかり」

「ええ。でも、私たちは正面から事実と向き合って、支えていく。それだけです」

言葉に力はあるのに、どこか穏やかで、まっすぐだった。

「……がんばりましょう、一緒に」
紬がふと笑うと、一条も「ええ」と笑って返した。

そんな小さなやり取りが、確かにこの案件を支えるもう一つの柱になっていた。
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