孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
エレベーターが静かに一階へと降りていく間、2人の間には穏やかな沈黙が流れていた。
重たくない、むしろ心地よい沈黙。
肩が触れそうで触れない距離に、以前のようなぎこちなさはもうなかった。

ロビーを出て、エントランスへと歩き出す。
夜風が肌を撫でるように吹き抜け、紬はなんとなく、一条の歩幅に自分の歩みを合わせていた。

そのときだった。
前方から、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。

――あの人だ。

一条の彼女だと、以前、紬が勝手に思い込んでいた女性。名前は知らない。
けれど、スラリとしたシルエットと、きつめの目元は記憶に残っていた。

一条も気づいたようで、ほんの一瞬だけ視線をその女性に止めた。
けれど、立ち止まることはなかった。
彼は紬の隣に並んだまま、何事もなかったかのように歩き続けた。

女性の方は、すれ違いざま、真顔で2人をじっと見つめていた。
敵意とも無関心とも取れない、ただ静かな視線。
それでも何か胸の奥を掻き乱されるような感覚があった。

エントランスを抜けると、紬は自然と歩みを緩めた。少しだけ、息を吐く。
すると、一条がその気配に気づいたように、優しい声をかけてきた。

「……あの人との関係は、精算済みです。どうか、安心してください」

一条の言葉に、紬は一瞬戸惑った。
その言い方にどこか引っかかりを覚えて、モヤモヤしていた気持ちが膨らんでくる。

だから、意を決して――思い切って口を開いた。

「……あの、すみません。彼女じゃないのに、精算済みって……どういう意味ですか?」

聞いた瞬間、自分でもその質問がどれだけ初々しく、ある意味で踏み込んだものかに気づく。
でも、今さら引き返せなかった。

一条は少し立ち止まると、考えるように口を閉じた。そして、数秒後、ゆっくりと言った。

「……その、なんというか。体の関係しかなかった人、って意味です」

その瞬間、紬の顔が一気に真っ赤に染まった。

「ご、ご、ごめんなさいっ!!わ、私、なんかまずいこと聞いちゃって!ほんとにごめんなさいっ!」

思わず耳を塞ぎ、うつむいてバタバタと足元を見ながら慌てふためく。
心臓が跳ね上がり、頭の中が真っ白になり、何をどうすればいいかわからない。

そんな紬を見て――一条は、腹を抱えるほど笑い出した。

「くっ……ふははは……す、すみません……紬さん、かわいすぎます……っ!」

紬はもう顔を上げられない。

(最悪……せっかくいい感じだったのに……また空気の読めないことを……!)

心の中で自分にパンチを繰り出しながら、紬はただ、必死に顔の火照りを抑えようとしていた。
それでも、一条の笑顔がどこか楽しそうで、どこか温かくて――ほんの少しだけ、嬉しくもあった。
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