キスしたら、彼の本音がうるさい。
◇ ◇ ◇

今年の秋は、やけに静かだった。

風が枝を揺らし、銀杏の葉が空に舞い上がっても、
その音さえもどこか遠くて、世界が少しだけ息を潜めているような、そんな気配が漂っていた。

浅見 月菜(あさみ つきな)は、文学部棟の掲示板の前に立っていた。
くたびれたマスキングテープで貼りつけられたピンク色のチラシ。手書きの黒文字が視界をかすめる。

──経済学部×文学部 合同ゼミ飲み会
──今週水曜・18時〜/居酒屋ひだまり(自由参加)

ただのイベント告知なのに、なぜだか、その紙の前から動けなかった。

“行かない理由”は山ほどある。
けれど、“行かないと決めつけたくない理由”の方が、胸の内側でじわりと膨らんでいた。

「月菜、行かないつもりじゃないよね?」

背後からかけられた声に肩がびくっと跳ねる。
三好 玲奈(みよし れいな)だった。鋭い目でジロリと月菜を睨む。

「そ、そんなんじゃ……ただ、ちょっと迷ってただけで」
「迷ってる時点で、行きたいってことだよ」
「え、いや、私は別に……」
「ダメ。月菜は最近、人と関わる機会なさすぎ。読書と図書館だけで大学生活終わるよ?」

月菜は思わず笑ってしまった。玲奈はいつもこうだ。
真っ直ぐで、ちょっと強引で、だけど一番近くにいてくれる。

「……じゃあ、ちょっとだけ」
「よろしい」

そう言って笑う玲奈の後ろ姿を見ながら、月菜は一歩踏み出す。

怖いけど、何かを変えてみたかった。
小説の中の主人公のように、物語が動き出す瞬間を信じたかった。
月菜は、いつも心の奥で、恋に憧れていたのだ。

けれど、誰かに好意を伝える勇気なんてないし、自分から関係を築こうとするほど社交的でもなかった。
だから、片想いさえも“知らないまま”通り過ぎることが多かった。
でも──一人だけ、ずっと目で追ってしまう人がいた。

神谷 瑛翔(かみや えいと)

経済学部の同級生。
誰もが一目置く存在で、“王子”とまで呼ばれるほどの容姿と頭脳を持っていた。
けれど、本人はそんな周囲の視線を気にする素振りもなく、むしろ誰にも興味がないような雰囲気すらあった。

彼を初めて見かけたのは、大学二年の春。

講義の合間、階段を駆け上がる姿が、光の中で一瞬滲んで見えた。
何が理由というわけじゃない。けれど、気づいたときには、目が離せなくなっていた。
それ以来、すれ違うたびに胸がざわめいた。

声をかけたこともない。
目が合ったことすらないかもしれない。
でも、その“距離のある存在”でいてくれることが、安心でもあった。
手の届かない人だからこそ、傷つかなくて済む。

そう思っていた
──はずだった。

「神谷くんも、飲み会に来るかもって聞いたよ」

玲奈の言葉が、何気なく耳をくすぐった。
胸の奥が、一瞬だけ跳ねた。
けれどすぐに、「関係ないし」と自分に言い聞かせる。

見てるだけでいい。それ以上を望んだら、傷つくだけだ。

だけど、その夜。
私は彼と出会ってしまう。

ただ見てるだけじゃいられないくらいに、心の全部をかき乱されるほどに。

そして、彼の“本音”が、私の世界を変えていく。

あのチラシが、風に揺れた。
月菜は、掲示板の前でそっと息を吸う。
その呼吸が、確かに“何かの始まり”を告げていた。
< 2 / 69 >

この作品をシェア

pagetop