キスしたら、彼の本音がうるさい。
水曜の夜。

居酒屋「ひだまり」は、学生たちのざわめきと笑い声で満ちていた。

照明は少し暗く、オレンジ色の明かりがテーブルの上をぼんやり照らしている。
その光に浮かび上がるジョッキの泡や、熱々の唐揚げ、串焼きの匂い。

月菜は、にぎやかすぎる空間に少し肩をすぼめて座っていた。

「緊張しすぎ。肩ガチガチ」

玲奈がそう言ってグラスを月菜の前に差し出す。
中身は薄めのカシスオレンジ。月菜にとって“人生初アルコール”だった。

「……ちょっとだけ、なら」

恐る恐る口をつけると、思っていたよりも甘くて飲みやすかった。
けれど、喉を通る感覚はどこか不思議で、体の奥からじわじわ熱が広がる。

「あ、そういえば今日、来てるらしいよ。神谷くん。」

玲奈の声に、手がぴたりと止まる。

「えっ」
「さっき経済学部の子が話してた。奥のテーブルに座ってるって」

その言葉を聞いて、月菜はそっと店内を見渡す。
仕切りの奥、半個室のテーブル席。
そこで、見覚えのある黒髪が、うつむき加減にグラスを傾けていた。

──神谷瑛翔。

本当に、そこにいる。

会話には加わっていない。誰とも目を合わせていない。
けれど、ただ静かに座っているだけで、その存在は不思議と目を引いた。

視線を逸らそうとした、そのとき。
ふいに、彼の目と合った気がした。
気のせいかもしれない。

でも、ほんの一瞬だけ、その瞳が月菜を見た気がした。
その瞬間、心臓が跳ねた。

「大丈夫? ちょっと顔赤いよ」

玲奈の声がどこか遠くに感じる。

「う、うん……ちょっと酔ったかも」
「水飲んできなよ。空気変えると楽になるよ。トイレ、あっち」

月菜は頷いて立ち上がった。
けれど、足元がふらりと揺れる。
グラス一杯のアルコールは、思っていたよりもずっと効いていた。
照明の薄暗さもあって、足元がはっきり見えない。

出口へ向かおうとして、階段の前でバランスを崩しかけた、そのとき──

「……危ねえって」

低く、少しぶっきらぼうな声が頭上から降ってきた。

腕を掴まれた感触。ぐっと強く引き寄せられる。
重力に引かれそうになった体を、誰かの体温が止めてくれた。

その瞬間──
唇に、何かが当たった。
…というよりはぶつかったという表現の方が近い。
突然の衝撃。
けれどその痛みよりも、今は目の前の状況に頭が追いつかなくなっている。

「……っ、え……?」

近すぎる距離。息がかかるほどの距離。
目の前には、神谷瑛翔がいた。
真っ直ぐに立ち、無言のまま月菜を支えていた。

「……すみません、ありがとう、ございます……」

そう口に出した瞬間、耳の奥で確かに何かが響いた。

《やべ、近すぎるだろ……ってか、こんな可愛かったっけ……? 頬、赤……めっちゃ酔ってんじゃん……》

──え?
誰の声? 今の、なに?

《……あ、ダメだ、これ以上見てたら絶対顔に出る。やば、視線そらさないと》

月菜は顔を上げた。
けれど、神谷は無表情のまま、目を逸らしていた。
口も動いていない。何も話していない。

なのに、さっきの言葉は──たしかに、聞こえた。

《……なんでこいつ、固まって……ってか、俺、顔に出てないよな……? やべ、近すぎた? ……あれ? もしかして……やっぱりさっき…触れた……? でも、そんなんでビビるな俺……いや、今の近さはやばかったって……》

そのとき、月菜はふと、神谷の唇の端が赤く滲んでいるのに気づいた。

──まさか、ぶつかったときに……キス、した?
あれは、唇だったの? それとも……

混乱したまま、月菜はその場に立ち尽くした。
身体の奥がじんわり熱くなる。
さっきの衝撃と声が、胸の奥で混ざり合う。

《こいつ……たぶん、俺のどストライクなんだよな……》

最後の一言だけ、妙に優しくて、甘くて、深く染み込んだ。

「…………っ」

胸が、ぎゅっと締めつけられるように苦しくなった。
神谷はもう手を離していて、すでに背を向けていた。

けれど、耳の奥には、まださっきの“声”が残っていた。
心の中。誰にも見せない、本当の言葉。
その“本音”が、私にだけ──聞こえていた。

そして、あの一瞬の感触が、記憶の奥に、そっと刻み込まれていた。
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