キスしたら、彼の本音がうるさい。
言葉でくれるぬくもり
パンの焼ける香ばしい匂いが、ほんの少し冷たい風に乗って店先まで流れていく。
私は駅ビルの中にあるパン屋で、制服のエプロン姿のままトングを片手に立っていた。
窓の外では、白いマフラーを巻いた親子が温かそうな紙袋を抱えて歩いていく。
そんな何気ない光景を眺めていたら、ふと胸がしんと静まり返る。
あの声が、聞こえなくなってから、どれくらい経つんだろう。
──瑛翔の心の声。
あんなに甘くて、あったかくて、でもどこか臆病で──
まるで、真冬の陽だまりにそっと背中を預けたときのような。
不器用な彼の“本当”が、私の中にだけ流れ込んでくる感覚だった。
今は、もう何も聞こえない。
まるで、あれは全部夢だったみたいに。
そんな時だった。
扉に取りつけられた鈴が、小さく鳴った。
いらっしゃいませ、といつものように声を出して顔を上げた瞬間──
胸の奥が、きゅっと音を立てた。
「……えっ」
やわらかい茶色の髪。整った横顔と、ゆるい雰囲気のセーター。
だけど、どこか懐かしい空気をまとっている。
目が合ったとき、向こうも「あ」と声をもらした。
「月菜ちゃん……だよね? 久しぶり」
その名前の呼び方も、笑った顔も、忘れていなかった。
「……直央、くん?」
口に出した瞬間、自分の声がちょっとだけ震えた。
榊 直央。中学の頃、同じクラスだった男の子。
風の噂で聞いたことがある。
当時、少しだけ、私のことを好きだったって。
でも私は、それに気づかないふりをしていた。
なんとなく、目を合わせるのが恥ずかしくて。
「まさか、こんなとこで会うなんてな。パン屋、似合うね。びっくりした」
「……うん、私も。びっくりしてる……」
懐かしさと、どこかくすぐったい気持ちが胸をくるくる回る。
「今日はね、たまたま時間があってさ。たしかこの辺に美味しいパン屋があるってSNSで見て来たんだけど……そしたら君がいて、なおのこと嬉しい」
彼は、あっさりと照れずにそんなことを言う。
そのまっすぐさに、心の中がほんのり温まるのを感じた。
瑛翔とは、まるで違う。
あの人は、黙っていても優しくて、近くにいるだけで何かをくれる人。
でも、直央は――ちゃんと、言葉でぬくもりをくれる。
「おすすめある? せっかくだし、月菜ちゃんが選んでくれたの買いたいな」
「え、あ……えっと……このクロワッサン、焼きたてで……」
言葉がもたつく自分が恥ずかしくなる。
でも直央は、変わらずに穏やかに笑った。
「じゃあ、それと……月菜ちゃんの笑顔がちょっと見えたから、もう一個、シナモンロールも追加で」
「……ちょ、ちょっと、なにそれ……」
思わず笑ってしまう。
ほんの数分なのに、なぜだろう。
この数週間の、冷たい寂しさが、少しだけほどけていく気がした。