キスしたら、彼の本音がうるさい。
聞こえたはずの“声”は、もうどこにもなかった。
居酒屋の喧騒に戻ると、まるで何事もなかったかのように、周囲は笑い声とグラスの音に包まれていた。
月菜は席へ戻りながら、さっきの出来事が夢だったのか、それとも妄想だったのかと、自分の頭を疑った。
──でも、はっきり聞こえた。
神谷の、あの甘すぎる本音が。
声ではなく、頭の中に直接響いたような、不思議な感覚。
まるで、心の中を覗き見してしまったような。
彼の声は、優しくて、不器用で、どこか戸惑っていて。
そして、驚くほどまっすぐだった。
思い出すだけで、鼓動が速くなる。
けれど、それと同時に──唇に残る、あの微かな感触も消えてくれなかった。
酔っていたから、記憶は曖昧だ。
けれど、あのとき確かに、唇と唇が……ほんの一瞬だけ、ぶつかった気がした。
そしてその証拠のように、神谷の唇の端には、うっすらと赤く血が滲んでいた。
──あれは、私のせい……?
それとも、ただの偶然?
考えれば考えるほど分からなくなって、胸の奥がざわざわと波立つ。
「ねえ、月菜。真っ赤だよ?大丈夫?しかも唇ちょっと切れてるよ」
玲奈が心配そうに覗き込んでくると同時に、自分の唇に触れ、更に顔が熱くなるのを感じる。
「……う、うん、大丈夫。ちょっと、酔いすぎただけ…酔ってぶつけちゃったのかも」
嘘だった。
酔っているのは、たぶん心の方だ。
知らなかったはずの気持ちに触れて、気づかないふりができなくなってしまった。
神谷は、その後も何事もなかったように席で静かに過ごしていた。
時折、周囲の会話に頷くだけで、表情もほとんど変わらない。
けれど、ふとした瞬間、視線がぶつかる。
そのたびに耳に直接流れてくる彼の声に、月菜の胸はぎゅっと縮まった。
《……ちょっと待て……無理、見てらんねえ……》
《……泣きそうな顔すんなよ……こっちまで苦しくなるだろ……》
そんな私に向けられたような声が聞こえるたびに、胸の奥がじんと熱くなる。
その声たちは、どれも彼の口からは出ていないのに、確かに“本物”だった。
まるで、誰にも言えなかった気持ちを、偶然にも拾ってしまったような。
それがたまたま自分だったというだけで、嬉しくて、でも怖かった。
「今日の飲み会、ちょっと思ってたよりしんどかったかも」
そう玲奈に漏らすと、彼女は「まーね。あんまり月菜向きじゃないかもね」と笑った。
その言葉に救われた気がして、小さく息をついた。
けれど、飲み会が終わり、店の外に出た瞬間。
月菜の胸に、ふいに強い感情が押し寄せてきた。
──このまま、何も言わずに終わっていいの?
心の声が聞こえてしまったことを、誰にも言えない。
本人にも、もちろん言えない。
でも、このまま聞こえたままに忘れるなんて、できない。
「……神谷くん」
名前を、呼んでみた。
小さくて、誰にも届かない声だった。
けれど、彼の背中が、ほんのわずかに動いた気がした。
振り返ることはなかった。
それでも、月菜の心は、確かに彼の方へ動いていた。
あの夜、私は知ってしまった。
言葉にならない気持ちが、こんなにもまっすぐで、優しくて、甘いものだということを。
そしてそれが、私の心をこんなにも掴んで離さないものだということを。
キスひとつで、世界がこんなにも変わってしまうなんて──
あの夜までの私は、夢にも思わなかった。