キスしたら、彼の本音がうるさい。
◇神谷瑛翔◇

講義が終わったのに、ずっとノートすら開く気にはなれなかった。

教室を出たあとも、スマホを手にしたまま、なんとなく指を滑らせてしまう。

玲奈のストーリーが目に止まった。
パン屋。……たぶん、月菜のバイト先。

映っていたのは、店の前で何かを選んでいるふたりの背中。
制服の月菜。隣には、明らかに男のシルエット。

──誰だ?

指が止まる。
ストーリーを閉じかけたそのとき、背後から声がした。

「おーい、瑛翔〜!ちょっと待て〜」

振り返ると、悠斗が自転車を押しながら走ってくる。
半笑いのまま、ハンドルに肘をかけて話し始めた。

「さっき月菜ちゃん見かけたよ。駅前のパン屋のとこ」
「……そう」
「でさ、男と一緒だった」

その言葉に、一瞬、呼吸が詰まった。
悠斗は気にせず、続ける。

「なんか、よく通ってるらしいよ。 パン屋の常連だとか。
……直央くん?って名前で呼ばれてた。背高くて、色素薄めの感じの男。
俺が見たときは、ふたりで何か話してて、笑ってたよ」

「……楽しそうだったか?」

口にしてから、自分の声にほんの少し力が入っていたことに気づく。

「うん? まあ、普通に。パン屋で働いてる子と常連さんって感じ。
でも距離は近かったかな。月菜ちゃん、ああいうタイプに懐く感じあるよな」
「……ふーん」
「ていうかさ」

悠斗がちらっと横目で俺を見る。

「付き合ってるんじゃないの? てっきりもうそういう感じかと思ってた」
「……付き合ってないよ」

言った瞬間、自分の声がやけに乾いて響いた気がした。
悠斗はそれ以上は突っ込まず、「そっか」とだけ言って歩を合わせる。

しばらく無言で並んで歩いたあと、彼がふと口を開く。

「俺、月菜ちゃん、いい子だと思うよ」

悠斗がふと口にする。

「たぶん、めちゃくちゃまっすぐで、傷つきやすいけど、
一回信じた人には、ちゃんと最後まで気持ち向けてくれるタイプ。
それって、簡単そうで、すごく難しいことじゃん?」
「……そうかもな」
「しかもさ」

悠斗は続ける。

「あの子、人のことよく見てる。空気とか、間とか、細かいところ。
自分のことより、相手の心配ばっかりしてるくせに、自分のことになるとめちゃくちゃ我慢するんだよな。
優しいっていうより、ほっとけない感じ? なんか、ずるいんだよな。ああいう子」

口調は軽い。でも、内容は鋭くて、やけに核心を突いてくる。

「……俺だったら、たぶん、手放したくないかな」

冗談めかした口ぶりで笑うけれど、その言葉だけがやけに鮮明に残った。

返事は、できなかった。
しようとしても、喉の奥に何かが詰まってしまう。

全部、わかってるよ。

月菜がどんな子かなんて、誰よりも俺が知ってる。
優しくて、繊細で、不器用で。
真っ直ぐで、嘘がつけなくて――
好きになったら、全部あげちゃうようなやつなんだって。

それなのに、俺は。

あのとき、たった一言すら返せなかった。

目の前で“好き”って言ってくれたのに。

全部、わかってたのに。

月菜が誰かと笑っていた──

ただそれだけのことなのに、
胸の奥が、軋むように痛かった。

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