キスしたら、彼の本音がうるさい。

店内に流れるBGMが、少しだけ音量を落とされた。

時計の針は、閉店まであと十五分。
夕方の喧騒はすでに過ぎていて、パンの棚も、すっかり軽くなっている。

トングを片手に、最後に残ったクリームパンを並べ直していると、
店のドアベルが、控えめに鳴った。

顔を上げる。
ガラス扉の向こう、夕暮れに照らされて立っていたのは──直央くんだった。

「今日も、おつかれさま」
「……直央くん。こんばんは。もうすぐ閉店だけど、大丈夫?」
「うん。わかってて来た」

冬用のコートを脱ぎながら、直央くんはいつものように、
控えめな笑みを浮かべて、さびしくなった棚をゆっくりと眺めた。

「残ってるかなと思ってたけど……あった。シナモンロール、ひとつだけ」
「人気あるから、今日は奇跡的かも」
「うん、運がいい日だ。……君に会えたのも含めてね」

さらっと、でも少しだけ照れたように言う。
そんな直央くんの優しさは、寒さでこわばっていた肩の力を、ふっと抜いてくれる。

直央くんは、中学の同級生だった。

当時はクラスも違って、話すことなんてほとんどなかったけど──
パン屋で偶然再会してから、自然と話すようになって、今では週に何度も顔を出してくれる。

大学がこの辺りで、実家から通ってるらしい。

私のほうは、両親の転勤でひとり暮らしを選んだ。
だからこうして、昔から知っている誰かと会えるのは、なんだかほっとする。

「いつものコーヒーも、一緒にいい?」
「もちろん。シナモンロールと、ブレンドひとつね」
「月菜ちゃんのおすすめって聞くと、ついそれ選んじゃうんだよなぁ」

そんなふうに言って笑うから、私も思わず、口元がゆるんだ。

閉店後。
制服の上にコートを羽織り帰ろうとした私に、「駅まで送るよ」と声をかけてくれる。
断る理由は、思いつかなかった。

歩道のタイルに夜の色が落ち始めて、コートの袖口が少しだけ冷たい。
並んで歩くこの距離も、何度目だろうと思う。

「今日さ、途中で笑ってたよね?」
「え?」
「レジの子が『ポイントカードはお持ちですか』って言ったとき、君、ちょっと吹き出しそうになってた」
「あ……あれは、直央くんが『このパン甘すぎない?』って言ってたのに、思いっきり砂糖がけのパン買ってたから」
「え、そっち!? マジか、めっちゃ恥ずかしいんだけど……!」

ふたりで笑う。その時間は、すごくやさしくて、心がゆるむ。
でも、その笑顔の奥で、私は別のことを考えていた。

「……月菜ちゃんってさ、前よりずっとよく笑うようになった気がする」
「そうかな?」
「うん。たぶん、前よりも人にちゃんと心を向けてる。
だから、今の笑顔、すごく好きだなって思う」

その言葉に、胸がきゅっとなる。

ちゃんと届く言葉。
ちゃんと形にしてくれる想い。

そういうの、ほんとはずっと欲しかったはずなのに。

でも──心が動かない。

あの人じゃないと、ダメなんだって、思ってしまう。

駅前の階段で足を止めたとき、直央くんが少しだけ視線をこちらに向けた。

「……ねえ、今度。どこか行かない?」
「え……?」
「気分転換でも、散歩でも、何でもいい。
月菜ちゃんのこと、もうちょっとだけ知りたいって思ってる」

優しい声だった。

すぐに返せる答えはなかった。

“ありがとう”も“ごめんね”も、どちらも喉の奥でつかえてしまって、
私はただ──微笑むしかなかった。

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