酔って寝てたら保護されましたが、これが恋の始まりだなんて聞いてません〜警察官の甘やかな独占欲に包まれて〜
その日、奈緒はこのまま会社にいても仕事にならないと悟った。
重たい荷物を抱えたまま机に戻っても、文字一つ浮かばない自信があった。

体調不良を理由に、早退を申し出た。
狩野は何も聞かなかったが、その表情から察していたのかもしれない。
「ゆっくり休んで」と、静かに送り出してくれた。

奈緒は、涙を堪えながら会社のエントランスを出た。
冷たい風が頬をなぞっていく。

新宿駅の改札へと向かう途中、街の喧騒がやけに遠く感じられた。
ぼんやりと通行人の流れに身を任せて歩いていたときだった。

――見覚えのある姿が、視界の端に映った。

人波の中、ひとりだけ時が止まったように見える。
瀬戸さん――。

届くはずもない距離で、口の中だけでそっと名前を呟いた。

瀬戸は駅の階段を降りてきていた。
その隣には、杉崎の姿もある。

一歩ずつ、確実にこちらへ近づいてくる。
なのに、奈緒の足は石のように動かなかった。

「こんにちは、水原さん。今日は早いんですね」

瀬戸の声が、胸の奥を揺らした。
久しぶりに聞くその声に、胸がギュッと掴まれるように苦しくなる。

「こんにちは。お疲れ様です」

視線を合わせられず、言葉は思った以上に早口になった。
軽く会釈をして、改札にスマホをかざす。

機械音と共にゲートが開いた瞬間、心の中で何かが決壊しそうになった。

それでも決して、振り返らない。
背中に視線を感じながら、淡々と歩く。

まぶたに揺れる涙を必死に堪えながら、改札の先の人波に紛れていった。
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