その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 カフェスペースは、思っていたより落ち着いていた。
 けれど気が休まることはない。

 自分はあの副院長にどんな印象を持たれたのだろうか。少なくとも好意的ではなさそうだった。そして、副院長室に一人残った真澄のことも気になってしまう。

 「小野寺澪さん、でしたよね」

 その声に、澪は驚いて振り向いた。

 そこには白衣を着た男性が立っていた。あまりにも自然に自分の名前を呼ばれて、思わず声が漏れる。

 「えっ……あの、はい……?」

 ――なぜ、旧姓を。今はもう小野寺ではないのに。

 頭の中で疑問が回る前に、彼――鷹野医師は口元をほぐして笑った。

 「すっかり有名人ですよ。あの柊木真澄の奥さんですから」

 その言葉に、胸の奥が妙に冷えた気がした。どこか芝居がかった口調。やけに距離が近いような、言葉の選び方。

 (何だろう、この人……)

 澪が口を開こうとした瞬間、その声が落ち着いたトーンで切り込んできた。

 「あなたのお母様。五年前にこの病院で亡くなられているそうですね?」
 「……え?」

 唐突に告げられた過去に、息が詰まる。まさか今この場で、そんな話題が出るとは思わなかったからだ。

 「当時のカルテを少し見させてもらいました。亡くなる少し前に、心臓の病気で手術の予定が入っていたそうですね?でも、急に手術が延期された記録が残っていました」
 「……どうしてそんなこと……」

 声がかすれる。なぜこの人が、母のことを知っているのか?なぜ、それをわざわざ――

 「その日、何があったか知っていますか?」

 鷹野は、明らかに澪の反応を楽しんでいた。
 それが恐ろしくて、どうしようもなく不安を駆り立てる。

 耳を傾けてはいけない。そう思うのに、声が出ない。

 「柊木くんのオペが入ってたんですよ。難しい症例で当時は国内初のケースでした。それがどういうことか分かりますか?」

 「そんな……そんなこと……」

 世界が歪んでいくようだった。
 頭の中に、あの日の光景がよみがえる。

 けたたましく鳴り響くモニターの電子音、そして慌ただしくなるICU内の光景。泣きながら母の名前を呼んだ自分。

 「お母さんの手術が後回しにされたのは、柊木先生のオペのせいだったかもしれない、ということです」

 
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