その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 澪はコーヒーをほとんど口にしないまま、紙カップを両手で抱えていた。空調は整っているはずなのに、指先がひどく冷えている気がする。

 (はっきりと言われた。お母さんの手術が遅れたのは、真澄さんのオペのせいだったかもしれないって)

 そもそも、手術が延期になったことすら知らなかった。

 何の根拠があるわけでもない。それでも鷹野医師の落ち着いた口調と、知る権利があるという一言が胸の奥に冷たい棘のように残っていた。

 気づけば視界に、見慣れた姿が入ってきた。

 カフェに入ってきた真澄は、すぐに澪を見つけてまっすぐ歩いてくる。いつものように無駄な言葉はなく規則正しい歩調。

 「悪い待たせた」
 「いえ。そんなに……」

 真澄が向かいの席に腰を下ろす。

 「副院長とは、どんなお話だったんですか?」

 問いかけると、真澄は一瞬だけ眉を動かして少しだけ首を振った。

 「海外の病院から、招聘の打診が来てるらしい」
 「……海外?」
 「カリフォルニアの病院だそうだ。蒼林から派遣すると」

 澪の心臓が、ほんの少しだけ跳ねる。
 やっぱりこの人は、ずっと上の世界の人なんだ。

 「……すごいですね」
 「いや、向こうに行く気はない」
 「どうしてですか?評価されているのに」

 澪は笑おうとしたけれど、それはたぶん、きれいな笑顔ではなかった。

 コーヒーに目を落としながら、澪はひとつ息をついた。
 そして聞こえてきた、真澄の低い声。

 「待ってる間に何か変わったことは?」

 その瞬間、澪の脳裏に鷹野の顔と言葉が浮かぶ。

 「……いえ。特には」

 真澄の目が、一瞬だけ鋭くなる。
 でもその瞬間白衣のポケットの中のPHSが鳴った。呼び出しだ。

 「出てください。私は一人で帰れますから」

 (ちゃんと話さなきゃいけない……でも今は、まだ)

 澪は真澄からの視線から逃れるように、走って病院を飛びだした。

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