その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 電車に揺られながら、澪はずっと、視線を落としたままだった。
 スマートフォンの画面も、車窓の景色も何も目に入らない。ただ握りしめたバッグの持ち手が、指に食い込んでいる感覚だけが妙に鮮明だった。

 ――あなたのお母さんの手術が後回しにされたのは、柊木先生のオペのせいだったかもしれない、ということです。

 鷹野の声が、耳の奥で何度も再生される。

 (もし、その手術がなければお母さんは……?)

 頭では否定していた。そんなのは後付けの理屈だと。
 でも何度そう言い聞かせても、頭の奥で可能性が首をもたげてくる。

 でも、心がついてこなかった。
 信じたくないと思うほど、現実味を帯びて迫ってくる。

 (……絶対に、そんなはずはない…)

 それに、もしも仮に事実だったとしても――それは真澄のせいじゃない。

 頭では分かっている。
 考えても、今さらどうにもならないことも。

 ――あの手術は今でも伝説よ。余命数ヶ月を宣告されていた患者は失語や麻痺もなく社会復帰。まさにミラクルとしか言いようがないわ。

 (真澄さんの名声の裏で…お母さんは息を引き取っていたの?)

 そう考えると、感情がぐちゃぐちゃになっておかしくなりそうだった。


 そのとき、不意に一人の名前が脳裏に浮かんだ。


 (……仁科さん)


 妹の親権の件で間に入ってくれた弁護士。真澄さんの幼馴染で、陽気で仕事は丁寧で誠実だった人。あのときも、怖くて潰れそうだった自分に「まかせて」と言ってくれた。

 (……相談、してみてもいいのかな)

 悩んだままスマートフォンを取り出して、以前やり取りしていたメッセージアプリを開く。画面の中の『仁科創』のアイコンが、今はやけに頼もしく見えた。

 一呼吸おいてから、指を動かす。

 《突然すみません。今日、少しお時間いただくことはできますか?》

 送信を押した直後、ドキドキと心臓が跳ねた。でもその数十秒後、すぐに返事が返ってきた。

 《おっ、どうした澪ちゃん? 珍しいじゃん!OK!時間と場所だけ教えて〜!》

 その明るさに、思わず笑ってしまう。
 張り詰めていた心の中に、すうっと温かい風が差し込んだ気がした。
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