その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
時間はすっかり夕方になっていた。
指定したのは、最寄りの駅前から少し路地に入ったところの静かなカフェ。この時間なら人も少ないだろうと思ったけれど、予想通り仁科以外はいない。
小さなテラス席に座るスーツ姿の仁科は、スマホをいじっていたが、澪の姿にすぐ気づいて手を振った。
「あ、こっちこっち!」
「仁科さん。すみません急に呼び出したりして」
「いいよ、ちょうど外回りで直帰の予定だったからさ。どうしたの?妹さんの件で何かあった?」
「いえ、そうじゃないんです。あの……なんだか、どうしていいかわからなくて」
仁科はコーヒーを一口飲んでから、優しく笑った。
「そっか。まあ、話してごらんよ。弁護士じゃなくてただの年上の男ってことで」
その一言で、喉に詰まっていたものがふわりとゆるむ。
澪は病院で鷹野に言われたことを、ゆっくりと話し始めた。
「……それで、柊木先生のオペが入っていたから、母の手術が後回しにされたかもしれないって――」
澪は途中で何度か言葉に詰まりながらも、なんとか最後まで話し終えた。
仁科は遮らず、茶化さず、ただ時折うなずきながら、静かに耳を傾けてくれていた。そして話を聞き終えると、仁科はコーヒーをひと口啜ってから背もたれに体を預けるようにして息をついた。
「……いやぁ、話すの勇気いったでしょ?でも話してくれてありがとう」
「いえ、こちらこそごめんなさい。こんな話……困りますよね」
「これでも弁護士だからね。こういうドロドロ話、仕事で山ほど聞いてるし気にしないでいいよ?」
仁科はふっと肩をすくめて、いつもの調子で軽く笑う。
「仁科さん、そういう案件も扱ってるんですか?」
「うちの事務所では扱ってるよ。俺の専門じゃないけどそういう話は耳にしている」
そう言いながら、アイスコーヒーのストローをくるりと回す。
「医療系トラブルって聞くと、患者が医者や病院相手に医療訴訟のイメージが強いけど、意外と病院内部のトラブル相談とか多いんだよ。ほら、そういう医療ドラマあるじゃない?」
「あれってドラマの中だけなんじゃ…」
「いやいや、実際はドラマよりもっとエグいからねぇ」
仁科は肘をついて、わざと少しだけ声を低めた。
「……にしてもさ?どうやってその情報調べたんだろうね、鷹野先生って人は」
「え?」
澪は目を見開いた。
「カルテを見たって言ってたんだよね?通常は、他科の患者情報を勝手に閲覧するのって、情報漏洩のリスクになるからいろいろ制限があるはずなんだよ。もし本当なら、けっこうアウト寄り」
「そうなんですね……」
「その鷹野先生がどういう立場の人か分からないから、一概には言えないけどね――何より俺が気になるのは、なぜ今になって『真澄の奥さんである君』にそんな話をわざわざしてきたのかってこと」
「……!」
「別に悪く取りたくはないけどさ。ただ、もし俺が真澄のライバルだったとしたら……家庭を揺さぶるのは、けっこう効果的だなって思うかも」
仁科の言葉はあくまで穏やかだった。
けれど、その分リアルで、妙に澪の胸に引っかかった。
「もちろん、全部がそうだとは言わないよ?鷹野先生も正義感に駆られて言ったのかもしれないし。でも『揺さぶられた側』としては、いろんな可能性を知っておいていいと思う」
「……はい」
そう言ってから、仁科は少し真面目な顔に戻る。
「病院の内側って、思ってるよりずっと泥くさい。外から見たら白衣着てるだけで清潔そうに見えるけど、人事も予算も名誉も、いろんな思惑がぐっちゃぐちゃで動いてる。手術の順番ひとつで、誰かが得したり損したりする世界だから」
仁科の声には毒気はない。ただ冷静に、事実のみをあるがままに伝えるトーンだった。
「だから、鷹野先生の話もあり得るケースではある。手術の順番は、患者の重症度だけじゃ決まらない。誰が執刀医かってだけで上層部の意向で覆されることもないとは言えない」
仁科はカップをテーブルに置き、真剣な目を澪に向けた。
「俺が大事だと思うのは――澪ちゃんが、その事実をどう受け取ったかなんだよ」
(私が、どう受け取ったか……)
「ただの事実として処理できるなら、それでもいい。でも、それが心に引っかかってて、真澄とどう向き合えばいいか分からない”って思ってるなら――それはもう、言わないとダメなやつだよ」
真澄に打ち明けたときのことを想像してみる。
彼はどんな顔をするだろう。
怒るだろうか?傷つけるだろうか?
考えただけで息が詰まったようになって、手の中のカップごと震えた。
「あいつもびっくりするとは思う。でも逃げるタイプじゃないでしょ?たぶん、ちゃんと向き合ってくれる」
「……でも、もし……本当に、彼の手術のせいだったら、私……」
仁科は少し笑って、頬杖をついた。
「真澄を責める?それとも別れる?」
「そんな!そんなことはないです絶対…っ、」
「なら、なおさらだよ」
仁科は優しい声で続けた。
「責めたいわけじゃない、でも相手のことを思うと胸が痛いと思える相手って、そんなにいないから」
澪はその言葉で、あのボストンでの出来事が脳裏によみがえる。
輝かしい彼を見て、責めたいわけじゃないのに胸が痛かった。子どもみたいに泣きじゃくって、気持ちを吐き出して――それでも真澄は自分がいいと言ってくれた。
「それでも向き合いたいと思えるなら、もう答えは決まってるよ。ちゃんと話してみな?」
仁科はにこっと笑って、テーブルの上に置いてあった伝票をさらりと取った。
「大丈夫。真澄も、そんなにヤワじゃないし、ちゃんと受け止めてくれるからさ」
澪は胸の奥で、何かがじんと溶けていく。
疑いと不安で冷えきっていた心が、少しずつ輪郭を取り戻していくようだった。
「……ありがとうございます。仁科さんに話せてよかったです」
「そう言ってもらえると、ちょっと救われるな。じゃ、俺はそろそろオフィス戻るけど――今日の話、あんまり思いつめすぎないでね」
「はい……」
(……ちゃんと、話そう)
もう、心の中に迷いはなかった。
指定したのは、最寄りの駅前から少し路地に入ったところの静かなカフェ。この時間なら人も少ないだろうと思ったけれど、予想通り仁科以外はいない。
小さなテラス席に座るスーツ姿の仁科は、スマホをいじっていたが、澪の姿にすぐ気づいて手を振った。
「あ、こっちこっち!」
「仁科さん。すみません急に呼び出したりして」
「いいよ、ちょうど外回りで直帰の予定だったからさ。どうしたの?妹さんの件で何かあった?」
「いえ、そうじゃないんです。あの……なんだか、どうしていいかわからなくて」
仁科はコーヒーを一口飲んでから、優しく笑った。
「そっか。まあ、話してごらんよ。弁護士じゃなくてただの年上の男ってことで」
その一言で、喉に詰まっていたものがふわりとゆるむ。
澪は病院で鷹野に言われたことを、ゆっくりと話し始めた。
「……それで、柊木先生のオペが入っていたから、母の手術が後回しにされたかもしれないって――」
澪は途中で何度か言葉に詰まりながらも、なんとか最後まで話し終えた。
仁科は遮らず、茶化さず、ただ時折うなずきながら、静かに耳を傾けてくれていた。そして話を聞き終えると、仁科はコーヒーをひと口啜ってから背もたれに体を預けるようにして息をついた。
「……いやぁ、話すの勇気いったでしょ?でも話してくれてありがとう」
「いえ、こちらこそごめんなさい。こんな話……困りますよね」
「これでも弁護士だからね。こういうドロドロ話、仕事で山ほど聞いてるし気にしないでいいよ?」
仁科はふっと肩をすくめて、いつもの調子で軽く笑う。
「仁科さん、そういう案件も扱ってるんですか?」
「うちの事務所では扱ってるよ。俺の専門じゃないけどそういう話は耳にしている」
そう言いながら、アイスコーヒーのストローをくるりと回す。
「医療系トラブルって聞くと、患者が医者や病院相手に医療訴訟のイメージが強いけど、意外と病院内部のトラブル相談とか多いんだよ。ほら、そういう医療ドラマあるじゃない?」
「あれってドラマの中だけなんじゃ…」
「いやいや、実際はドラマよりもっとエグいからねぇ」
仁科は肘をついて、わざと少しだけ声を低めた。
「……にしてもさ?どうやってその情報調べたんだろうね、鷹野先生って人は」
「え?」
澪は目を見開いた。
「カルテを見たって言ってたんだよね?通常は、他科の患者情報を勝手に閲覧するのって、情報漏洩のリスクになるからいろいろ制限があるはずなんだよ。もし本当なら、けっこうアウト寄り」
「そうなんですね……」
「その鷹野先生がどういう立場の人か分からないから、一概には言えないけどね――何より俺が気になるのは、なぜ今になって『真澄の奥さんである君』にそんな話をわざわざしてきたのかってこと」
「……!」
「別に悪く取りたくはないけどさ。ただ、もし俺が真澄のライバルだったとしたら……家庭を揺さぶるのは、けっこう効果的だなって思うかも」
仁科の言葉はあくまで穏やかだった。
けれど、その分リアルで、妙に澪の胸に引っかかった。
「もちろん、全部がそうだとは言わないよ?鷹野先生も正義感に駆られて言ったのかもしれないし。でも『揺さぶられた側』としては、いろんな可能性を知っておいていいと思う」
「……はい」
そう言ってから、仁科は少し真面目な顔に戻る。
「病院の内側って、思ってるよりずっと泥くさい。外から見たら白衣着てるだけで清潔そうに見えるけど、人事も予算も名誉も、いろんな思惑がぐっちゃぐちゃで動いてる。手術の順番ひとつで、誰かが得したり損したりする世界だから」
仁科の声には毒気はない。ただ冷静に、事実のみをあるがままに伝えるトーンだった。
「だから、鷹野先生の話もあり得るケースではある。手術の順番は、患者の重症度だけじゃ決まらない。誰が執刀医かってだけで上層部の意向で覆されることもないとは言えない」
仁科はカップをテーブルに置き、真剣な目を澪に向けた。
「俺が大事だと思うのは――澪ちゃんが、その事実をどう受け取ったかなんだよ」
(私が、どう受け取ったか……)
「ただの事実として処理できるなら、それでもいい。でも、それが心に引っかかってて、真澄とどう向き合えばいいか分からない”って思ってるなら――それはもう、言わないとダメなやつだよ」
真澄に打ち明けたときのことを想像してみる。
彼はどんな顔をするだろう。
怒るだろうか?傷つけるだろうか?
考えただけで息が詰まったようになって、手の中のカップごと震えた。
「あいつもびっくりするとは思う。でも逃げるタイプじゃないでしょ?たぶん、ちゃんと向き合ってくれる」
「……でも、もし……本当に、彼の手術のせいだったら、私……」
仁科は少し笑って、頬杖をついた。
「真澄を責める?それとも別れる?」
「そんな!そんなことはないです絶対…っ、」
「なら、なおさらだよ」
仁科は優しい声で続けた。
「責めたいわけじゃない、でも相手のことを思うと胸が痛いと思える相手って、そんなにいないから」
澪はその言葉で、あのボストンでの出来事が脳裏によみがえる。
輝かしい彼を見て、責めたいわけじゃないのに胸が痛かった。子どもみたいに泣きじゃくって、気持ちを吐き出して――それでも真澄は自分がいいと言ってくれた。
「それでも向き合いたいと思えるなら、もう答えは決まってるよ。ちゃんと話してみな?」
仁科はにこっと笑って、テーブルの上に置いてあった伝票をさらりと取った。
「大丈夫。真澄も、そんなにヤワじゃないし、ちゃんと受け止めてくれるからさ」
澪は胸の奥で、何かがじんと溶けていく。
疑いと不安で冷えきっていた心が、少しずつ輪郭を取り戻していくようだった。
「……ありがとうございます。仁科さんに話せてよかったです」
「そう言ってもらえると、ちょっと救われるな。じゃ、俺はそろそろオフィス戻るけど――今日の話、あんまり思いつめすぎないでね」
「はい……」
(……ちゃんと、話そう)
もう、心の中に迷いはなかった。