その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
家に戻ってから、澪はすぐにエプロンをつけた。
なにかしていないと、気持ちが揺れてしまいそうだった。
冷蔵庫を開けて、残っていた野菜と鶏肉を取り出す。どこかぼんやりと包丁を動かしながら、仁科の言葉が何度もよみがえる。
あのときの仁科の顔。
いつもより少し真剣で、でも変わらず穏やかで、まっすぐだった。
(……そうだ。私は、真澄さんを信じたいんだ)
包丁の音がトントンとリズムを刻むたびに、心の中のざわめきが少しずつ整っていく。
味噌汁の鍋に火をかけた頃、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
真澄の声も、いつも通りだった。
でも澪は、その声が無性にありがたくて、思わず深く息を吐いた。
「夕飯、すぐできます。シャワー浴びてきますか?」
「そうだな、着替えてくる」
リビングへと向かう彼の背中を見送りながら、澪は胸の奥でそっと手を握った。
(今夜、ちゃんと話すんだ)
食事中は、他愛もない話ばかりだった。
真澄が今日のオペで手こずった症例のこと。
病棟の新しい看護師がうっかりミスをして、主任に叱られていたこと。
澪も相づちを打ちながら、ふと笑顔を見せることができていた。
でも、食器を下げ終わり、二人でソファに並んで座ったとき――澪は、そっと膝の上で手を重ねた。
(ちゃんと話そう。逃げないって決めたから)
そう思っていたはずなのに、
隣りに座る真澄の姿を見ると、胸がきゅっと縮こまる。
(私が今から話すことは、もしかしたら真澄さんの人生に――傷をつけてしまうかもしれない)
震える気持ちをごまかすように、深く息を吸って、向かいに腰を下ろす。
「あの、真澄さん」
「どうした?」
「……お話したいことがあります」
言った瞬間、心臓が跳ねた。けれど真澄はただ静かに頷いてくれる。
その無言の合図に、ようやく口を開くことができた。
「……今日のお昼、病院で鷹野先生に声をかけられました」
静かな部屋に、澪の声が吸い込まれていく。
「五年前、真澄さんの大きな手術が入っていた日…私の母の手術も予定されていたって。でも直前に変更されて……もしかしたら手術が遅れたのは、真澄さんのオペがあったからかもしれないって……」
真澄の表情がわずかに動いた。
「……本当かどうかは分かりません。でも、鷹野先生はそう言って……それを聞いたとき頭が真っ白になって……」
言葉が詰まりかけて、澪は深く息を吸った。
仁科の声が、また胸の奥でささやく。
――責めたいわけじゃない、でも相手のことを思うと胸が痛いと思える相手って、そんなにいないから。
「……私は、責めたいわけじゃないんです。ただ、知ってしまったから怖くなってしまって……もしかしたら”って思ったら、頭から離れなくて」
真澄は黙って澪を見ていた。
その目は静かで、何かを受け止めようとするような眼差しだった。
「私、お母さんのことを……ちゃんと送り出してあげられたって思っていました。でも今になって、誰かの都合で後回しにされたかもしれないって思ったら……自分の中で整理がつかなくて」
澪は一度、大きく深呼吸をする。
「今日、仁科さんに会って――仁科さんが言ってくれたんです。“信じたいなら、ちゃんと確かめた方がいい”って」
ここまで言ったところで、一瞬言葉が詰まった。
口の中が乾いて、唇がうまく動かない。
けれど、今さら引き返せない。
ここで言わなければ、また同じように自分の中で言葉が腐っていく気がした。
「私は……信じたいと思ったから、ちゃんと話さなきゃって思って」
真澄は表情を変えず、ただ待っていてくれた。
だからこそ、次の一言が怖かった。
「でも……私……」
視線を落とし、テーブルの端に置かれた自分の指先をじっと見つめる。
「真澄さんは本当にすごい人で、たくさんの命を救って、みんなに慕われてて。それなのに――このことを持ち出すのは名声を汚すことなんじゃないかって……」
声が震えそうになるのをどうにか堪える。
ちゃんと最後まで、自分の言葉で話さなければいけないから。
「でも隠したままにはできなかったんです…私が信じたいって思ったのは真澄さんの名前じゃなくて、真澄さんという人だから」
真澄は静かに澪の言葉に耳を傾けていた。
澪は小さく顔を上げる。
「……怒らないんですか?」
「どうしてそう思う?」
「だって、真澄さんの経歴に傷をつけたみたいで……」
真澄は目を伏せたまま、ふっと長く息を吐いた。
そして、しばらくの沈黙のあと、真澄がゆっくりと口を開いた。
「……ありがとう。話してくれて」
その声は、いつものように低く落ち着いていたけれど、ほんの少しだけ震えているようにも聞こえた。
「俺にもはっきりした記憶はない。けれど、可能性として『ない』とは言い切れない。鷹野の言葉も……完全に的外れじゃないのかもしれない」
「……」
「でも、澪は責めるためじゃなく、向き合うために言ってくれた」
澪は静かにうなずいた。
真澄は澪の手を取り、そっと自分の掌で包み込んだ。
「澪が『信じたい』と言ってくれて……本当に、救われた」
その手の温かさに、澪は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
(言えて、よかった)
怖くて苦しかったけど、無駄じゃなかったんだと、そう思えた。
なにかしていないと、気持ちが揺れてしまいそうだった。
冷蔵庫を開けて、残っていた野菜と鶏肉を取り出す。どこかぼんやりと包丁を動かしながら、仁科の言葉が何度もよみがえる。
あのときの仁科の顔。
いつもより少し真剣で、でも変わらず穏やかで、まっすぐだった。
(……そうだ。私は、真澄さんを信じたいんだ)
包丁の音がトントンとリズムを刻むたびに、心の中のざわめきが少しずつ整っていく。
味噌汁の鍋に火をかけた頃、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
真澄の声も、いつも通りだった。
でも澪は、その声が無性にありがたくて、思わず深く息を吐いた。
「夕飯、すぐできます。シャワー浴びてきますか?」
「そうだな、着替えてくる」
リビングへと向かう彼の背中を見送りながら、澪は胸の奥でそっと手を握った。
(今夜、ちゃんと話すんだ)
食事中は、他愛もない話ばかりだった。
真澄が今日のオペで手こずった症例のこと。
病棟の新しい看護師がうっかりミスをして、主任に叱られていたこと。
澪も相づちを打ちながら、ふと笑顔を見せることができていた。
でも、食器を下げ終わり、二人でソファに並んで座ったとき――澪は、そっと膝の上で手を重ねた。
(ちゃんと話そう。逃げないって決めたから)
そう思っていたはずなのに、
隣りに座る真澄の姿を見ると、胸がきゅっと縮こまる。
(私が今から話すことは、もしかしたら真澄さんの人生に――傷をつけてしまうかもしれない)
震える気持ちをごまかすように、深く息を吸って、向かいに腰を下ろす。
「あの、真澄さん」
「どうした?」
「……お話したいことがあります」
言った瞬間、心臓が跳ねた。けれど真澄はただ静かに頷いてくれる。
その無言の合図に、ようやく口を開くことができた。
「……今日のお昼、病院で鷹野先生に声をかけられました」
静かな部屋に、澪の声が吸い込まれていく。
「五年前、真澄さんの大きな手術が入っていた日…私の母の手術も予定されていたって。でも直前に変更されて……もしかしたら手術が遅れたのは、真澄さんのオペがあったからかもしれないって……」
真澄の表情がわずかに動いた。
「……本当かどうかは分かりません。でも、鷹野先生はそう言って……それを聞いたとき頭が真っ白になって……」
言葉が詰まりかけて、澪は深く息を吸った。
仁科の声が、また胸の奥でささやく。
――責めたいわけじゃない、でも相手のことを思うと胸が痛いと思える相手って、そんなにいないから。
「……私は、責めたいわけじゃないんです。ただ、知ってしまったから怖くなってしまって……もしかしたら”って思ったら、頭から離れなくて」
真澄は黙って澪を見ていた。
その目は静かで、何かを受け止めようとするような眼差しだった。
「私、お母さんのことを……ちゃんと送り出してあげられたって思っていました。でも今になって、誰かの都合で後回しにされたかもしれないって思ったら……自分の中で整理がつかなくて」
澪は一度、大きく深呼吸をする。
「今日、仁科さんに会って――仁科さんが言ってくれたんです。“信じたいなら、ちゃんと確かめた方がいい”って」
ここまで言ったところで、一瞬言葉が詰まった。
口の中が乾いて、唇がうまく動かない。
けれど、今さら引き返せない。
ここで言わなければ、また同じように自分の中で言葉が腐っていく気がした。
「私は……信じたいと思ったから、ちゃんと話さなきゃって思って」
真澄は表情を変えず、ただ待っていてくれた。
だからこそ、次の一言が怖かった。
「でも……私……」
視線を落とし、テーブルの端に置かれた自分の指先をじっと見つめる。
「真澄さんは本当にすごい人で、たくさんの命を救って、みんなに慕われてて。それなのに――このことを持ち出すのは名声を汚すことなんじゃないかって……」
声が震えそうになるのをどうにか堪える。
ちゃんと最後まで、自分の言葉で話さなければいけないから。
「でも隠したままにはできなかったんです…私が信じたいって思ったのは真澄さんの名前じゃなくて、真澄さんという人だから」
真澄は静かに澪の言葉に耳を傾けていた。
澪は小さく顔を上げる。
「……怒らないんですか?」
「どうしてそう思う?」
「だって、真澄さんの経歴に傷をつけたみたいで……」
真澄は目を伏せたまま、ふっと長く息を吐いた。
そして、しばらくの沈黙のあと、真澄がゆっくりと口を開いた。
「……ありがとう。話してくれて」
その声は、いつものように低く落ち着いていたけれど、ほんの少しだけ震えているようにも聞こえた。
「俺にもはっきりした記憶はない。けれど、可能性として『ない』とは言い切れない。鷹野の言葉も……完全に的外れじゃないのかもしれない」
「……」
「でも、澪は責めるためじゃなく、向き合うために言ってくれた」
澪は静かにうなずいた。
真澄は澪の手を取り、そっと自分の掌で包み込んだ。
「澪が『信じたい』と言ってくれて……本当に、救われた」
その手の温かさに、澪は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
(言えて、よかった)
怖くて苦しかったけど、無駄じゃなかったんだと、そう思えた。