その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 「確かに手術は一度予定が組まれていました。でも、ご本人の強い希望で延期されたんですよ」
 「母の希望?どうして、」
 「『長女の誕生日を一緒に迎えるまでは家で過ごしたい』そうおっしゃっていたんです」
 「……え?」

 (私の、誕生日…?)

 当初の手術予定は七月二十二日。澪の誕生日は八月三日だ。

 「成功率の問題もありましたけど、それ以上に覚悟が決めていらしたように思います。十時間以上に及ぶ手術に、体が耐えられないかもしれないと」

 このままでは助からないかもしれないなら、せめて八月の長女の誕生日を祝ってからでも遅くない――黒木や主治医にそう告げた時の母の声が聞こえるようで、澪の手のひらが、じんと熱くなった。

 「……そんなことを、……」

 何も知らなかった。
 誕生日の前の週、退院できることになったと言って、母は数ヶ月ぶりに家に帰ってきた。そして八月の誕生日は、母と祖母とひよりと、家族に祝ってもらった。

 その裏で、母が一人でそんな決断をしていたなんて。

 「病院としてもご本人の強い希望でしたし、主治医も『気持ちの整理がついてからのほうがいい』と判断されて。その後体調が崩れて緊急搬送になったと聞きましたが……」
 「……お母さん……」

 呼吸が苦しい。
 けれど、それは悲しみだけじゃなかった。

 (私のために……あの人は……)

 ポロリと、涙が頬をつたう。
 堪えようとしても、次々とあふれてくる。

 「ずっと、私……真澄さんを傷つけたかもしれないって……母の命が……もし……って……」

 言葉にならない思いが、声になって漏れ出す。

 横に座っていた真澄が、そっと手を伸ばした。
 震える手に重ねられたその温もりに、ようやく世界がゆっくりと戻ってくる。

 それを見て、黒木は優しく微笑んで言った。

 「お母様はあの日、自分の命を生きるために家族と過ごす時間を選ばれたのだと思います。娘たちには明るい未来を生きてほしいって、いつもそう笑ってたの……あの笑顔、今でも覚えてます」

 教えてくれた黒木の声は、当時の懐かしい記憶を慈しむように穏やかで温かかった。


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