その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 そうして午後は、なるべく仕事に集中して過ごした。
 けれど、心のどこかにはずっとあのことが引っかかったまま、気づけば時計の針は午後七時に差しかかろうとしていた。

 定時はとっくに過ぎて、オフィスの明かりもまばらになっている。昨日ようやく営業所のシステム切替対応が無事完了したこともあり、周囲を見渡せば残っているのは数人だけだった。

 澪のデスクには未処理の案件が数件。でもどれも急ぎではなかった。それなのに帰らずに残業をしているのは、他でもないあの一枚の名刺のせいだ。

 澪はそっとジャケットに入れたままの名刺入れを開けて、視線を落とす。

 《今日の夜八時 病院の駐車場で》

 ペンで書かれたそれは走り書きなのに読みやすく整っていて、どこかあの人らしいと感じさせる端正さがあった。

 (……これ、本気で受け取っていいのかな)

 試されているだけなのかもしれない。
 それか、軽い冗談か気まぐれ――ただ反応を見たいだけとか?

 そんな不安が胸をよぎって名刺を持つ指先に力が入る。

 冷静に考えれば現実味がない。
 蒼林大学病院の天才外科医が、会ったばかりの自分を私的に誘うなんてありえないこと。
 
 (でも……)

 今日、病院で接した真澄の姿が、記憶の奥から浮かび上がる。

 『そういう当然のことをできない人間は多い。君のような対応は貴重だ』

 あの言葉は、純粋に嬉しかった。

 この仕事は正確であることが当たり前に求められる。発注したものが納品されるのは当然のことで、そのことについて感謝されることは少ない。その一方で、少しでもミスがあると即クレームにつながってしまう。

 だからこそ、自分の仕事をちゃんと見てくれたこと、それが現場の医師だったことが何よりも嬉しかった。

 名刺の角にそっと指を滑らせる。

 (……行くだけ、行ってみようかな)

 もし冗談なら笑ってそのまま帰ってきてしまえばいい。
 でも行かなければ、何も分からないままだから。

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