邪に、燻らせる
萌芽の候/暁に、霞晴れて
『会いたい』
その言葉を反芻するのは何度目だろう。
結局何も言えずに終わってしまった関係の後には、心の中で燻る未練だけが残った。
仕事で頭の中を埋めて、空いた時間は読書に料理、お酒と煙草も少々、最近は生涯独身の可能性を考えて資産運用や終活についても調べてみたりして。
自分で稼いだお金で綺麗な服やアクセサリーを買って、美味しいお店だって知ってて、賭け事の楽しさも知ってる。
私は恋愛以外にもたくさんのものを持っているのに、どうしてこんなにも満たされない気持ちにならなきゃいけないんだろう。
だから嫌だったのよ。
ちょうどいい距離を保っていたかったの。
散々傷ついて手に入れたと思った自分の心の制御装置すら、まともに操れない。
「そんなそそくさ帰ろうとしないでください」
大垣がそう言って苦笑した。
つい気まずさに負けて打ち合わせ後の雑談を割愛しようとした私は、持ち上げたコートを脇に置いて、大人しく謝る。
「…すみません、大人げないですよね」
「そんなことはありませんが、俺が寂しいので話ぐらいはしてください」
「はい、あの…」
「とは言っても話しにくいですよね」
前回の打ち合わせの後、大垣は改めて私を食事に誘ってくれ、ふたりでおいしい焼き鳥屋さんに行った。
その別れ際に『またお誘いしても?』と聞いてくれた大垣に、私は散々迷って、結局YESとは言えなかった。
「好きな人がいるんですね」
「…見込みのない片思いなんですけどね」
「意地悪で言いますが、忘れようと思うほどに深みに嵌まりますよ」
本当に意地悪だ。
私は思わずしゅんとしながら大垣を見つめた。
「お互いに大人なんですから、俺のこと利用しちゃえば良かったのに」
「仕事相手にそこまで甘えるわけには…」
「やっぱり真面目ですね」
そこが良かったんですけど、と大垣は呟いた。
でも私だって本当は、大垣に甘えてしまいたいと狡いことを考えていた。
「狡くっても大歓迎ですよ、俺は」
「…私がもう懲りたんです」
寂しさから他人に甘えて、今このザマだ。
当分は大人しく心の静養に努めなければ、この先きっとまた同じことを何度も繰り返してしまうだろう。
そして気づいたら、もう取り返しがつかない歳になってる。
そんな悪夢は勘弁してほしいもの。
「まあでも諦めますよ、振られた男の価値は引き際で決まりますから」
「…惜しくなること言いますね」
「そう思って欲しくて言いましたから」
大垣は茶目っ気たっぷりに笑った。
応接室の窓から差し込む日差しが随分と柔らかくなったことを感じながら、私は大垣の心遣いに感謝した。
冬爾の誕生日に、プレゼントを贈った。
今の住所を知らなかったから、冬爾の事務所の福岡支社に、顧客の振りをして郵送すれば他の社員が勝手に開けることもないだろうなんて姑息なことを考えて。
配送業者にミスがなければ、指定通りに冬爾の誕生日である2月14日に私からの誕生日プレゼントは届いているはずだ。
だけど、冬爾からは何の音沙汰もなかった。
律義なあの男のことだから、「ありがとう」とそっけない言葉が無機質な文字に変換されて届くと思っていたのに。
その五文字の言葉を見るだけでよかったのに。
それすらも、届かなかった。
もしかして、私の愚かな下心が冬爾に見透かされてしまったのかもしれない。
最後の夜の私は、きっと変だった。
冬爾に行かないでと縋りそうになるのを我慢するので精一杯で、到底いつも通りになんて上手に装えていたとは思えない。
そして、冬爾はきっと、そんな私を疎ましいと思っただろう。
都合よく割り切って気軽に。
そこには面倒な感情は差し挟まないでおこう。
わざわざ言葉にして確かめ合ったわけでもないけれど、それは私たちにとって、当然の前提として最初から在った。
それを一方的に反故にした挙句、未練がましく誕生日に贈り物までしてきた女なんて、鬱陶しかったに決まってる。
触らぬ神に祟りなし。
このままフェードアウトが無難。
もしも私が冬爾の立場だったらそう考える。
そして冬爾がその決断を下した時点で、私にはもうこれ以上成す術がなかった。
まだ同じマンションに住んでいれば、玉砕覚悟でこの滑稽な感情をぶつけてしまうことくらいは出来たかもしれない。
ううん、多分それも無理だ。
この先も同じマンションに住んで不意にニアミスする可能性を残した相手に、臆病な私がそんな大それたことできるとは到底思えない。
駅からマンションまでの一本道を侘しい気持ちで歩きながら、ゆるゆると何度目かのため息を吐き出した時だった。
「…え?」
その煙草の香りを、私はよく知っている。
右手を腰を当てながら気怠げに佇んでいるその横顔を、私は離れていた期間の間に、何度反芻したんだろう。
足音に気づいたらしく振り返った冬爾は、眼鏡越しに私を見つけると、何故か酷く困ったような顔をした。
「久しぶり、寧子」
少しだけ痩せた冬爾は、驚いて固まる私に、それはありきたりな言葉を寄越した。
「…何してるの、こんなとこで」
「あー…実はちょっと大家さんに返し忘れたもんがあってさ」
「わざわざ届けに来たの?」
郵送にすればいいのに、と率直に思った。
それをそのまま声に出せば、冬爾は「まあ…」と歯切れ悪く視線を泳がせた。
「…いや、今のは嘘、ごめん」
「嘘?」
「ほんとは寧子に会いに来た」
そう言った冬爾は、照れ臭いのを通り越して、最早不機嫌そうだった。
「…私に?」
「迷惑だった?」
「そんなことは、ないよ、あの、でも突然だと驚くと言うか…」
私は困惑を隠せなかった。
だって、なんで、冬爾は私のことはもう疎ましく思ってるんだとばっかり…。
「…あのさ、いい歳して道端でとか色々恥ずかしいから家上げてもらっていい?」
恥ずかしいって何が。
私は混乱で泣きそうになりながら、冬爾に言われるがまま、オートロックを解除した。
「当たり前だけど変わってねえな」
「そんな短期間で模様替えなんかするわけないでしょう、人手もないのに」
普通に話せているだろうか。
とりあえず部屋にあがってもらった冬爾にコーヒーでも出そうと思って、なのに準備する手が震えていた。
冬爾は今さら私の部屋を見渡しながら、どこか向こうもそわそわと落ち着かない様子を窺わせる。
「あの、良かったらコーヒー飲んで」
「ああ、ありがとう」
そして沈黙の帳が降りた。
ダイニングテーブルを挟んで向かい合いながらお互いにコーヒーを啜る私と冬爾は、今さら途轍もない気まずさに駆られていた。
何だ、この状況は。
やがて冬爾のわざとらしい咳払いが聞こえた。
「誕生日の届いたよ、ありがとう」
「…えっと、ごめん職場に迷惑かなとも思ったんだけど新しい住所知らなかったから」
「全然、初めて寧子の屋号知ったわ」
「原稿料の支払いの時くらいしか私も見ない」
「だろうな、てか名前書けよ」
冬爾はマグを傾けながら少し笑った。
私は眼鏡の奥の瞳を探った。
「今日はその、お礼を言いに来てくれたの?」
「まあそれもあるけど…」
「けど?」
これ以上は心臓が持ちそうにない。
私は縋るように冬爾を見つめながら、その言葉の先を無言で催促した。
そんな私に、冬爾は一瞬ぎくっと固まって。
情けない顔で、眉尻を下げた。
「ごめん、俺、寧子のこと好きになったわ」
その言葉を耳が処理して、脳に伝達して、けれどその先の処理がどうにも上手くいかなくて。
頭の中が空っぽだ。
どんな顔をすればいいんだろう。
何か言わなきゃってわかってるのに。
言葉が何も浮かばなかった。
誰かの心を訳すのが、私の仕事なのに。
自分の心はわからなくて。
そして言葉の代わりに溢れたのは。
しょっぱくてみっともない、涙だけだった。
「えっ、そんな泣くほど迷惑?」
だけど焦ったような冬爾の声が聞こえたら、急に脳が動き出した。
さすがに予想外だって、顔に書いてある。
馬鹿だコイツ。
「ふっ、あはは、馬鹿じゃないの」
「さすがに酷くねえか、俺だって色々悩んで」
「何で謝ってるの、ほんと馬鹿、バーカバーカむっつりスケベ!女心がわからない男!」
「あのなあ!」
「私の方が絶対好きだよ、馬鹿!」
ほんと笑っちゃうよ。
ごめんとか迷惑とか言ってんだもん。
今日は打ち合わせ帰りで化粧をしてたことも忘れて目を擦ると、手の甲に茶色いラメとマスカラが付いていた。
冬爾は呆気にとられたように腰を上げたままの状態で固まって、私を見つめていた。
「賭けたっていいよ、絶対に私の方が好きだもん」
冬爾の何倍も好きだよ。
大好きだよ。
泣きながら間抜け面を睨みつける私に、冬爾は呆れたように笑った。
「お前のが馬鹿じゃねえの」
「もっとスマートに告白できないわけ?」
「俺のこと買い被んじゃねえよ、これでも人生イチ勇気出したんだわ」
「しょうもない人生!」
「そんな告白で泣いてる奴よりマシですー」
私の足元に冬爾が座り込む。
そのまま両手を取って握りしめると、仕方ないなって顔で私を見上げた。
「三食カロリーメイトは辛いんだよな」
「…ずっとその生活だったでしょ」
「夜寝る時にひとりだと寒いし、仕事に殺されそうなのにストレスの捌け口もないし」
「私は性欲処理機能付きの湯たんぽじゃない」
「向こうで喋り相手もいないし」
「今時アプリ使えば出会い放題らしーよ」
きゅ、と指先がゆるく絡まる。
何故か得意げな顔で冬爾が微笑んでいる。
「でも、俺は寧子じゃなきゃ嫌だ」
勢いよく抱きついた衝撃で後ろに倒れ込んだ冬爾は、ごつんと床に頭をぶつけた。
こんな時まで恰好のつかない私たちは、床の上でどうしようもないなと笑いながら、ふと近い距離で目が合う。
刹那の逡巡があって、それから。
「好きだ」
愛おしいって全身で訴えてるみたいなキスをされる。
冷たい床の上なのに、熱が上がった。
我慢の効かない思春期みたいにそのまま抱き合って、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、冬爾の大きな背中にしがみついた。
途中で泣いている私に気づいた冬爾が申し訳なさそうな顔をしたので、本当に女心のわからない男だと思った。
馬鹿な冬爾。
今泣いてるの、心細いからじゃないよ。
幸せだからだよ。
冬爾とまたこんな風に抱き合えて、幸せだから泣いてるの。
…わかってないでしょ?
「寧子って泣くのな」
毛布の中で私の髪を撫でながら冬爾が呟いた。
さすがに途中で床は色々痛いと気づいた冬爾が私をベッドまで運んでくれて、終わったら腕枕をしてくれる。
至れり尽くせり、と私は大満足だった。
「…そりゃあ泣くでしょ」
「でも今まで俺の前で泣いたことなかったぜ」
「我慢してたもん、冬爾って女に泣かれたら絶対嫌な顔しそうだから」
「そんなもん理由によるわ」
不服そうに冬爾は私を睨んだ。
そのままヘッド―ボードから煙草を持ち上げると、箱を振ってそのまま1本くわえる。
「寂しいって泣くのは?」
「…仕事なんだから仕方ないだろって言う」
「ほらね、そんな冷たい男の前で彼女でもない私が素直に泣けるわけ」
「でも正直泣かれるより堪えた」
私から顔を背けるように冬爾が煙草を吐く。
「最後の夜、寧子ずっと震えてたよ」
「…気づかなかった、本当?」
「本当だよ、泣きそうな顔して震えてしがみついてくるくせになんも言わねえんだもん、正直めちゃくちゃ後味悪かった」
「だって散々都合よく冬爾のこと利用しておいて、今さら好きになったから終わりたくないなんて言えなかったよ…」
「都合よく利用してたのはお互い様だろ」
「…そうだけど」
それでもどうしても言えなかった。
俺たちそんな関係じゃないだろって、当たり前の正論で冬爾に返されたら、もう二度と立ち直れる気がしなかった。
だって凄く救われてたから、冬爾には。
グレーなままの自分を全部を許してもらえているような気がしてたの、変だよね?
「そういえば今日仕事は?」
「俺、福岡行ってから1日も休んでなくて、そのペナルティで強制的に今週は有給消化させられてる」
「ペナルティが有給消化って聞いたことない」
「俺も初めて聞いたわ」
この後に及んで飄々としている冬爾に呆れた。
冬爾が東京を離れてもう2か月弱が経つというのに1日も休んでないなんて、そりゃあ上司に怒られもするだろう。
「そんなに仕事忙しいの?」
「それもあるけど、仕事してると余計なこと考えずに済むから楽だったんだよ」
「え?ねえねえその余計なことって何?もしかして私のこと?」
「うるせえよ、調子乗んな」
軽く頬を抓られる。
良い気分の私は冬爾から煙草を奪って、代わりに唇を押し当てた。
「ねえ、なら1週間こっちにいるの?」
「さぞ嬉しかろう、特に予定入れてきてねえから好きなだけ俺を独り占めできるぜ」
「ごめん、私が今週仕事忙しいの、適当に実家でも帰っててもらえる?」
「もう二度と会いに来てやんねえ」
「冗談だってば」
幸い私も今週はそんなに忙しくない。
多少作業を後ろ倒しても締め切りには支障がないので、冬爾を退屈させずに済みそうだった。
「どこか出掛ける?」
「寧子の行きたいとこ付き合うよ」
「急に言われると困るなあ、もう今さら憧れのデートスポットなんかないし」
「なら家でだらだらやらしいことしとく?」
「出た、むっつりスケベ」
きも、とキスしてこようとする冬爾の顔を手で遮ってやる。
「今さら純情ぶんなよ」
「白金育ちの純情お嬢様だもーん」
「30の女がキツイわ、年相応ってもんを弁えろよ」
「まだ29!勝手に老けさすな!」
「同じようなもんだろ」
「大きいのよ、この1年に関しては!」
女としての市場価値と言う点で、港区と八王子ぐらいの差があるのだ。
「いや寧子は精々練馬とかじゃね?」
「は?港区育ち舐めんな」
「いいじゃん、俺の生まれ調布だしさ、港区とじゃ釣り合わねえもん」
「…仕方ないから下界に降りて行ってやるか」
「下界言うなバーカ」
くしゃくしゃと頭を撫でてくる冬爾の首に腕を回せば、望み通りに唇を合わせてくれる。
大きな身体はとても安心感があって、まるでそれは疲れた鳥が羽を休める止まり木のように、温かく優しかった。
「ねえ、冬爾」
すぐ傍にある冬爾の顔を見上げた。
奥二重の涼しげな目元と、ちょっと鷲鼻。
ゆったりと柔らかな弧を描く口元から綺麗な歯並びが見えた。
「何?」
「ううん、相変わらず好きな顔だなと思って」
何だそれ、と冬爾が笑った。
私はその唇にキスをしながら、このまま時が止まればいいのになんて、随分と乙女チックなことを考えた。
その言葉を反芻するのは何度目だろう。
結局何も言えずに終わってしまった関係の後には、心の中で燻る未練だけが残った。
仕事で頭の中を埋めて、空いた時間は読書に料理、お酒と煙草も少々、最近は生涯独身の可能性を考えて資産運用や終活についても調べてみたりして。
自分で稼いだお金で綺麗な服やアクセサリーを買って、美味しいお店だって知ってて、賭け事の楽しさも知ってる。
私は恋愛以外にもたくさんのものを持っているのに、どうしてこんなにも満たされない気持ちにならなきゃいけないんだろう。
だから嫌だったのよ。
ちょうどいい距離を保っていたかったの。
散々傷ついて手に入れたと思った自分の心の制御装置すら、まともに操れない。
「そんなそそくさ帰ろうとしないでください」
大垣がそう言って苦笑した。
つい気まずさに負けて打ち合わせ後の雑談を割愛しようとした私は、持ち上げたコートを脇に置いて、大人しく謝る。
「…すみません、大人げないですよね」
「そんなことはありませんが、俺が寂しいので話ぐらいはしてください」
「はい、あの…」
「とは言っても話しにくいですよね」
前回の打ち合わせの後、大垣は改めて私を食事に誘ってくれ、ふたりでおいしい焼き鳥屋さんに行った。
その別れ際に『またお誘いしても?』と聞いてくれた大垣に、私は散々迷って、結局YESとは言えなかった。
「好きな人がいるんですね」
「…見込みのない片思いなんですけどね」
「意地悪で言いますが、忘れようと思うほどに深みに嵌まりますよ」
本当に意地悪だ。
私は思わずしゅんとしながら大垣を見つめた。
「お互いに大人なんですから、俺のこと利用しちゃえば良かったのに」
「仕事相手にそこまで甘えるわけには…」
「やっぱり真面目ですね」
そこが良かったんですけど、と大垣は呟いた。
でも私だって本当は、大垣に甘えてしまいたいと狡いことを考えていた。
「狡くっても大歓迎ですよ、俺は」
「…私がもう懲りたんです」
寂しさから他人に甘えて、今このザマだ。
当分は大人しく心の静養に努めなければ、この先きっとまた同じことを何度も繰り返してしまうだろう。
そして気づいたら、もう取り返しがつかない歳になってる。
そんな悪夢は勘弁してほしいもの。
「まあでも諦めますよ、振られた男の価値は引き際で決まりますから」
「…惜しくなること言いますね」
「そう思って欲しくて言いましたから」
大垣は茶目っ気たっぷりに笑った。
応接室の窓から差し込む日差しが随分と柔らかくなったことを感じながら、私は大垣の心遣いに感謝した。
冬爾の誕生日に、プレゼントを贈った。
今の住所を知らなかったから、冬爾の事務所の福岡支社に、顧客の振りをして郵送すれば他の社員が勝手に開けることもないだろうなんて姑息なことを考えて。
配送業者にミスがなければ、指定通りに冬爾の誕生日である2月14日に私からの誕生日プレゼントは届いているはずだ。
だけど、冬爾からは何の音沙汰もなかった。
律義なあの男のことだから、「ありがとう」とそっけない言葉が無機質な文字に変換されて届くと思っていたのに。
その五文字の言葉を見るだけでよかったのに。
それすらも、届かなかった。
もしかして、私の愚かな下心が冬爾に見透かされてしまったのかもしれない。
最後の夜の私は、きっと変だった。
冬爾に行かないでと縋りそうになるのを我慢するので精一杯で、到底いつも通りになんて上手に装えていたとは思えない。
そして、冬爾はきっと、そんな私を疎ましいと思っただろう。
都合よく割り切って気軽に。
そこには面倒な感情は差し挟まないでおこう。
わざわざ言葉にして確かめ合ったわけでもないけれど、それは私たちにとって、当然の前提として最初から在った。
それを一方的に反故にした挙句、未練がましく誕生日に贈り物までしてきた女なんて、鬱陶しかったに決まってる。
触らぬ神に祟りなし。
このままフェードアウトが無難。
もしも私が冬爾の立場だったらそう考える。
そして冬爾がその決断を下した時点で、私にはもうこれ以上成す術がなかった。
まだ同じマンションに住んでいれば、玉砕覚悟でこの滑稽な感情をぶつけてしまうことくらいは出来たかもしれない。
ううん、多分それも無理だ。
この先も同じマンションに住んで不意にニアミスする可能性を残した相手に、臆病な私がそんな大それたことできるとは到底思えない。
駅からマンションまでの一本道を侘しい気持ちで歩きながら、ゆるゆると何度目かのため息を吐き出した時だった。
「…え?」
その煙草の香りを、私はよく知っている。
右手を腰を当てながら気怠げに佇んでいるその横顔を、私は離れていた期間の間に、何度反芻したんだろう。
足音に気づいたらしく振り返った冬爾は、眼鏡越しに私を見つけると、何故か酷く困ったような顔をした。
「久しぶり、寧子」
少しだけ痩せた冬爾は、驚いて固まる私に、それはありきたりな言葉を寄越した。
「…何してるの、こんなとこで」
「あー…実はちょっと大家さんに返し忘れたもんがあってさ」
「わざわざ届けに来たの?」
郵送にすればいいのに、と率直に思った。
それをそのまま声に出せば、冬爾は「まあ…」と歯切れ悪く視線を泳がせた。
「…いや、今のは嘘、ごめん」
「嘘?」
「ほんとは寧子に会いに来た」
そう言った冬爾は、照れ臭いのを通り越して、最早不機嫌そうだった。
「…私に?」
「迷惑だった?」
「そんなことは、ないよ、あの、でも突然だと驚くと言うか…」
私は困惑を隠せなかった。
だって、なんで、冬爾は私のことはもう疎ましく思ってるんだとばっかり…。
「…あのさ、いい歳して道端でとか色々恥ずかしいから家上げてもらっていい?」
恥ずかしいって何が。
私は混乱で泣きそうになりながら、冬爾に言われるがまま、オートロックを解除した。
「当たり前だけど変わってねえな」
「そんな短期間で模様替えなんかするわけないでしょう、人手もないのに」
普通に話せているだろうか。
とりあえず部屋にあがってもらった冬爾にコーヒーでも出そうと思って、なのに準備する手が震えていた。
冬爾は今さら私の部屋を見渡しながら、どこか向こうもそわそわと落ち着かない様子を窺わせる。
「あの、良かったらコーヒー飲んで」
「ああ、ありがとう」
そして沈黙の帳が降りた。
ダイニングテーブルを挟んで向かい合いながらお互いにコーヒーを啜る私と冬爾は、今さら途轍もない気まずさに駆られていた。
何だ、この状況は。
やがて冬爾のわざとらしい咳払いが聞こえた。
「誕生日の届いたよ、ありがとう」
「…えっと、ごめん職場に迷惑かなとも思ったんだけど新しい住所知らなかったから」
「全然、初めて寧子の屋号知ったわ」
「原稿料の支払いの時くらいしか私も見ない」
「だろうな、てか名前書けよ」
冬爾はマグを傾けながら少し笑った。
私は眼鏡の奥の瞳を探った。
「今日はその、お礼を言いに来てくれたの?」
「まあそれもあるけど…」
「けど?」
これ以上は心臓が持ちそうにない。
私は縋るように冬爾を見つめながら、その言葉の先を無言で催促した。
そんな私に、冬爾は一瞬ぎくっと固まって。
情けない顔で、眉尻を下げた。
「ごめん、俺、寧子のこと好きになったわ」
その言葉を耳が処理して、脳に伝達して、けれどその先の処理がどうにも上手くいかなくて。
頭の中が空っぽだ。
どんな顔をすればいいんだろう。
何か言わなきゃってわかってるのに。
言葉が何も浮かばなかった。
誰かの心を訳すのが、私の仕事なのに。
自分の心はわからなくて。
そして言葉の代わりに溢れたのは。
しょっぱくてみっともない、涙だけだった。
「えっ、そんな泣くほど迷惑?」
だけど焦ったような冬爾の声が聞こえたら、急に脳が動き出した。
さすがに予想外だって、顔に書いてある。
馬鹿だコイツ。
「ふっ、あはは、馬鹿じゃないの」
「さすがに酷くねえか、俺だって色々悩んで」
「何で謝ってるの、ほんと馬鹿、バーカバーカむっつりスケベ!女心がわからない男!」
「あのなあ!」
「私の方が絶対好きだよ、馬鹿!」
ほんと笑っちゃうよ。
ごめんとか迷惑とか言ってんだもん。
今日は打ち合わせ帰りで化粧をしてたことも忘れて目を擦ると、手の甲に茶色いラメとマスカラが付いていた。
冬爾は呆気にとられたように腰を上げたままの状態で固まって、私を見つめていた。
「賭けたっていいよ、絶対に私の方が好きだもん」
冬爾の何倍も好きだよ。
大好きだよ。
泣きながら間抜け面を睨みつける私に、冬爾は呆れたように笑った。
「お前のが馬鹿じゃねえの」
「もっとスマートに告白できないわけ?」
「俺のこと買い被んじゃねえよ、これでも人生イチ勇気出したんだわ」
「しょうもない人生!」
「そんな告白で泣いてる奴よりマシですー」
私の足元に冬爾が座り込む。
そのまま両手を取って握りしめると、仕方ないなって顔で私を見上げた。
「三食カロリーメイトは辛いんだよな」
「…ずっとその生活だったでしょ」
「夜寝る時にひとりだと寒いし、仕事に殺されそうなのにストレスの捌け口もないし」
「私は性欲処理機能付きの湯たんぽじゃない」
「向こうで喋り相手もいないし」
「今時アプリ使えば出会い放題らしーよ」
きゅ、と指先がゆるく絡まる。
何故か得意げな顔で冬爾が微笑んでいる。
「でも、俺は寧子じゃなきゃ嫌だ」
勢いよく抱きついた衝撃で後ろに倒れ込んだ冬爾は、ごつんと床に頭をぶつけた。
こんな時まで恰好のつかない私たちは、床の上でどうしようもないなと笑いながら、ふと近い距離で目が合う。
刹那の逡巡があって、それから。
「好きだ」
愛おしいって全身で訴えてるみたいなキスをされる。
冷たい床の上なのに、熱が上がった。
我慢の効かない思春期みたいにそのまま抱き合って、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、冬爾の大きな背中にしがみついた。
途中で泣いている私に気づいた冬爾が申し訳なさそうな顔をしたので、本当に女心のわからない男だと思った。
馬鹿な冬爾。
今泣いてるの、心細いからじゃないよ。
幸せだからだよ。
冬爾とまたこんな風に抱き合えて、幸せだから泣いてるの。
…わかってないでしょ?
「寧子って泣くのな」
毛布の中で私の髪を撫でながら冬爾が呟いた。
さすがに途中で床は色々痛いと気づいた冬爾が私をベッドまで運んでくれて、終わったら腕枕をしてくれる。
至れり尽くせり、と私は大満足だった。
「…そりゃあ泣くでしょ」
「でも今まで俺の前で泣いたことなかったぜ」
「我慢してたもん、冬爾って女に泣かれたら絶対嫌な顔しそうだから」
「そんなもん理由によるわ」
不服そうに冬爾は私を睨んだ。
そのままヘッド―ボードから煙草を持ち上げると、箱を振ってそのまま1本くわえる。
「寂しいって泣くのは?」
「…仕事なんだから仕方ないだろって言う」
「ほらね、そんな冷たい男の前で彼女でもない私が素直に泣けるわけ」
「でも正直泣かれるより堪えた」
私から顔を背けるように冬爾が煙草を吐く。
「最後の夜、寧子ずっと震えてたよ」
「…気づかなかった、本当?」
「本当だよ、泣きそうな顔して震えてしがみついてくるくせになんも言わねえんだもん、正直めちゃくちゃ後味悪かった」
「だって散々都合よく冬爾のこと利用しておいて、今さら好きになったから終わりたくないなんて言えなかったよ…」
「都合よく利用してたのはお互い様だろ」
「…そうだけど」
それでもどうしても言えなかった。
俺たちそんな関係じゃないだろって、当たり前の正論で冬爾に返されたら、もう二度と立ち直れる気がしなかった。
だって凄く救われてたから、冬爾には。
グレーなままの自分を全部を許してもらえているような気がしてたの、変だよね?
「そういえば今日仕事は?」
「俺、福岡行ってから1日も休んでなくて、そのペナルティで強制的に今週は有給消化させられてる」
「ペナルティが有給消化って聞いたことない」
「俺も初めて聞いたわ」
この後に及んで飄々としている冬爾に呆れた。
冬爾が東京を離れてもう2か月弱が経つというのに1日も休んでないなんて、そりゃあ上司に怒られもするだろう。
「そんなに仕事忙しいの?」
「それもあるけど、仕事してると余計なこと考えずに済むから楽だったんだよ」
「え?ねえねえその余計なことって何?もしかして私のこと?」
「うるせえよ、調子乗んな」
軽く頬を抓られる。
良い気分の私は冬爾から煙草を奪って、代わりに唇を押し当てた。
「ねえ、なら1週間こっちにいるの?」
「さぞ嬉しかろう、特に予定入れてきてねえから好きなだけ俺を独り占めできるぜ」
「ごめん、私が今週仕事忙しいの、適当に実家でも帰っててもらえる?」
「もう二度と会いに来てやんねえ」
「冗談だってば」
幸い私も今週はそんなに忙しくない。
多少作業を後ろ倒しても締め切りには支障がないので、冬爾を退屈させずに済みそうだった。
「どこか出掛ける?」
「寧子の行きたいとこ付き合うよ」
「急に言われると困るなあ、もう今さら憧れのデートスポットなんかないし」
「なら家でだらだらやらしいことしとく?」
「出た、むっつりスケベ」
きも、とキスしてこようとする冬爾の顔を手で遮ってやる。
「今さら純情ぶんなよ」
「白金育ちの純情お嬢様だもーん」
「30の女がキツイわ、年相応ってもんを弁えろよ」
「まだ29!勝手に老けさすな!」
「同じようなもんだろ」
「大きいのよ、この1年に関しては!」
女としての市場価値と言う点で、港区と八王子ぐらいの差があるのだ。
「いや寧子は精々練馬とかじゃね?」
「は?港区育ち舐めんな」
「いいじゃん、俺の生まれ調布だしさ、港区とじゃ釣り合わねえもん」
「…仕方ないから下界に降りて行ってやるか」
「下界言うなバーカ」
くしゃくしゃと頭を撫でてくる冬爾の首に腕を回せば、望み通りに唇を合わせてくれる。
大きな身体はとても安心感があって、まるでそれは疲れた鳥が羽を休める止まり木のように、温かく優しかった。
「ねえ、冬爾」
すぐ傍にある冬爾の顔を見上げた。
奥二重の涼しげな目元と、ちょっと鷲鼻。
ゆったりと柔らかな弧を描く口元から綺麗な歯並びが見えた。
「何?」
「ううん、相変わらず好きな顔だなと思って」
何だそれ、と冬爾が笑った。
私はその唇にキスをしながら、このまま時が止まればいいのになんて、随分と乙女チックなことを考えた。