邪に、燻らせる

梅花の候/安寧の春遠からじ

仕事ってのは有難い。
色んなことを忘れさせてくれる。
時の流れは早いもので、気が付けば福岡に来てもう3週間が経とうとしていた。
中途半端に残してきた東京での業務を遠隔で捌きながら、福岡でも前任の河西から担当顧客から社内処理に至るまで一気に引き継いで。
それなりにこれまでも忙しく働いてきたつもりだったけど、正直それが可愛く思えるぐらいの膨大な仕事量に追われていた。
家には終電前に寝に帰るだけ。
食事は前に戻って3食カロリーメイト。
さすがにこれ俺死ぬんじゃね?なんて思い始めた頃に、東京で担当していたクライアントが後任との間で大爆発を起こした。
「鷹司さん、本当にすみませんでした…」
隣を歩く後輩の三浦が耳を垂らした犬のような顔で俺に謝ってくる。
クライアントに頭を下げてきた帰り道、見慣れた大手町のオフィス街には相変わらず忙しない空気が漂っていた。
「あの社長はたまに怒りの琴線がどこかわかんねえからちょっと気を付けて」
「はい、気を付けます…」
「まあ何事も経験だからさあ」
そう言う俺も前任から引き継いだ当初はトラブルを多発させた要注意顧客だった。
わざわざ俺を福岡から呼び戻す羽目になった負い目もあるのか、なかなか表情の戻らない三浦を励ましながら歩く。
「鷹司さん向こうで死ぬほど忙しいんすよね」
「そんな言うほどでもねえよ」
「毎日終電帰りだって矢吹さんが言ってんの聞きましたよ、身体とか壊してないですか?」
「…ああ、今のとこは全然大丈夫」
俺は矢吹を心の中で呪った。
自分の勤怠状況が事務所内で問題視されるレベルに達している自覚のある俺は、河西からも再三休めと苦言を呈されている。
この状態が代表にバレると今抱えている業務を取り上げられる可能性があったため、最近の俺は様々な策を弄して偽装工作に勤しんでいるのだが、それをこの前電話口で矢吹にぽろっと漏らしてしまったのだ。
「矢吹さん他にもなんか言ってた?」
「代表の許可取らずに休日出勤してるとか」
「…あのお喋り野郎」
悪意のない矢吹のへらへらとした笑顔が脳裏をよぎって思わず舌打ちがこぼれた。
この後は別のクライアントとのアポが入っているという三浦と別れ、俺はスマホで予定を確認しながら通りを歩いていた。
横断歩道の信号が赤になる。
脚を止めた俺はコートのポケットにスマホを仕舞って、何気なく対角線上の店先に視線を向けた。
ふわりと癖のある髪が風に舞っていた。
灰色のマフラーに口元を埋めた見覚えのある女は、軒先のディスプレイに飾られたサンプルを何やら熱心に見つめている。
その店の看板には、chocolateの文字。
そういえばもうすぐバレンタインか、と自分の誕生日と一緒になった行事の存在を思い出しながら、苦笑が漏れる。
寧子は特に会わない期間の間も変わった様子もなく、元気そうだった。
あんなに必死な顔でチョコなんか選んでるんなら、新しく都合のいい相手か、惚れた相手でも出来たのかもしれない。
最後に抱いた夜の寧子がふと頭に浮かんだ。
まるで寧子の全身が『寂しい』と訴えているようで、どうにも居たたまれなかったのを覚えている。
寧子は俺と離れるのなんて平気だと思ってた。
俺が近くにいなくなったら、多少寂しがったとしても、別に大丈夫だと思ってた。
なのに最後の夜の寧子は、まるで今にも俺に縋りそうな顔で、けれど何も言わなかった。
俺は踵を返して、来た道を戻る。
横断歩道は渡らずに、わざわざ回り道をして事務所に向かった。
別に声を掛けても良かったのに。
元気かと聞いて、誰宛のチョコなのかと揶揄えば、きっと寧子はあの屈託のない素直な笑顔を俺に向けたはずなのに。
早く福岡に戻ろう。
消化しなければいけない仕事が山積みだ。
「あ、本当に戻ってきてる」
東京の私用オフィスはもう解体された後だった俺が会議室を陣取って働いていると、ひょっこりと紗里が顔を出した。
「規則違反のサビ残三昧らしいじゃない?」
「まじで矢吹さんにぽろっと勤怠の件を漏らした自分の迂闊さを呪ってるよ今」
「そのうち代表からの是正が入るわよ」
「ならそれまでに終わらせるわ」
「何をそこまで根詰めてるわけ?」
紗里が向かいの椅子に腰掛ける。
「さすがにオーバーワーク過ぎよ」
「俺は元々こんなもんだろ」
「確かにデートより仕事優先な男だってことは私が一番よく知ってるけど、勤怠の改ざんまでしてるのは初めて見るわよ」
「異動した最初のうちだけだって」
手に持っていたコーヒーのマグを傾けながら俺を見つめる紗里は、ふんと鼻を鳴らした。
「…何だよ」
「私の目を誤魔化せるとお思い?冬爾は何か向き合いたくないことがある時、絶対仕事に逃げるのよ」
相変わらず嫌な女だと思った。
椅子を回して遊びながら紗里はくすくすと楽しげに笑っている。
「私が結婚迫った時より酷いわよ、今」
それきり満足そうに会議室を出て行った紗里の背中を睨みつけながら、俺は書類を書いていたボールペンを放り捨てた。
見透かしたようなことばっか言いやがって。
うぜえ、と思わず吐き捨てた。
仕事で必死に頭の中を埋めていないと、最後の夜の寧子の顔が頭から離れなかった。
寂寥が零れだしそうだったのは、もしかしたら寧子じゃなくて俺の方だったのかもしれない。
だって、何を言えばよかったんだ。
寧子にとって俺は都合のいい相手で、アイツは今もずっと別の男の面影を追いかけてるのに。
人生で1番好きだった男の後なんて、どう考えたって俺には荷が重かった。
大体元カレがカメラマンって何だよ。
恰好良すぎんだろ。
どうせ俺は毎日姑息に抜け道探して節税対策してるような地味な男で、世界一周なんかする豪快さはねえよ。
「あー…、だから嫌なんだよ…」
吐き出した言葉が会議室に浮かんでいた。
みっともなくて情けない自分に向き合う気力も体力も、あと数日で三十になる男には残っていないのだ。
それにもう、終わったことだ。
今さら何言ったって変わるもんでもない。
それなら終わったことを馬鹿みたいに引きずるよりは、色々誤魔化してでも、働いていた方が幾分有意義だった。
ため息をついた俺は一度投げ出したボールペンを握り直して、書きかけの書類を引き寄せた。
「あれ、鷹まだこっちいたの?」
夜の8時を過ぎたあたりでその日の終電を諦めた俺は、開き直って煙草を吸っていた。
ひとりきりだった喫煙所の扉を開けて顔を出した矢吹は、不思議そうに目を瞬いて、懐から煙草の箱を取り出した。
「仕事終わらなかったっすわ」
「新幹線の中でやれば良かったじゃん」
「今日の8時納期でクライアントから頼まれてる資料があって、それ仕上げてるうちにもう明日の朝帰ればいいかって諦めました」
「寝床どうすんの」
「近くでビジホ予約できました」
火貸してという矢吹にライターを渡す。
「てか俺の勤怠の件喋ったでしょ」
「だって俺が喋んねえとお前向こうでずっと働くだろ、まじ体壊すぜ」
「まあ確かにそれは危機感ありますけど」
「糖分取ってるか?」
「栄養補助食品は主食になりませんよね」
「当たり前だろ」
福岡に行ってからというもの、俺はまともな食事を摂る生活からまた遠ざかっていた。
こんな俺の生活を知れば、寧子はまた不摂生だと怒りながらも、きっと何か食べる物を作ってくれるだろう。
ふと、昼間に見た寧子の顔が頭に浮かんだ。
どうにも未練がましくて良くない。
「矢吹さんて、奥さんのどこが良くて結婚したんすか」
「はっ?!急になんだよ!」
「タイミング以外にも決め手あったでしょ」
「ええ、そんなこと言われても…」
急に何だよ、と気まずそうにしている。
俺は口端に咥えた煙草を手に持ち直して、確かに急だわなと思った。
「鷹どうしたの最近、結婚迷ってんの?」
「迷うも何も相手いませんけど、まあ今後の参考に是非」
「恥ずかしい話させんなよー…」
「良いじゃないですか人生の先輩として」
「決め手なあ」
照れ臭そうに首裏を手でさすりながら、思案するように矢吹が宙を見つめる。
俺は煙草の灰を落としながら続きを待った。
「なんつぅか楽しい時に一緒にいる相手って割りと誰でもいいと思うんだわ、楽しいことは誰と共有しても楽しいから」
「言ってることはわかります」
「でもしんどい時に誰に傍にいてもらいたいか考えた時に、生命力強そうな嫁の顔が浮かんだよな。もうコイツに一生ついてけば生きてけるわと思って」
「はは、それ普通逆じゃないんすか」
「夫婦の形は人それぞれなんだよ!」
恥ずかしい話させやがって!と照れ隠しのように矢吹が俺の脚を蹴ってくる。
しんどい時にか、と呟きながら煙草を咥えた。
「お前、惚れた女でも出来たんじゃねえの」
「惚れた腫れたの歳ですか」
「馬鹿だなあ、鷹はまだそこまで守りに入る歳じゃねえよ、クールなふりして逃げてる方が格好悪いぜ」
「…刺さること言いますね」
「これが既婚者の余裕ってやつだ、敬えよ」
妙に得意げな矢吹にわざと煙草の煙を吹きかけて憤慨させながら、俺は短くなったそれを灰皿で揉み消した。
「鷹司さんも、どうぞ」
赤い包装紙に包まれたチョコが配られる。
毎年のことながら大変だなと思いつつ事務の女性社員からそれを受け取った。
「こっちってどんな風習なの?」
「お返しですか?みんな担当してる税理士さんとか近しい人に個別に渡すだけだから特に決まりはなくって」
「なるほどね、ならお返し何がいい?」
「考えておきますね!」
若々しい率直な笑顔で頷かれて、元気だなあと老けたことを思った。
「鷹司さーん、私からもどうぞです」
「はいはい慎んで頂きます」
「それとこちら鷹司さん宛に東京から荷物届いてましたよ、お客さんですか?」
「…Cat.W?」
見覚えのない屋号だった。
とはいえ個人事業主が業態変更で屋号を変えるなんてことは珍しくないので、特に何も考えずにチョコと一緒に受け取った。
「お返しはぜひTHREEのハンドソープで」
「何それどこで買うの?」
「あとでショップの住所メールしときますね」
「ちゃっかりしてんなあ」
了解、と承って自分のオフィスに戻った。
女性社員たちから貰ったチョコをデスクの上に置いて、渡された荷物を開封する。
中には四角い箱と深緑色の袋が入っていた。
そして小さなメッセージカード。
『お誕生日おめでとう
 どうか健やかにお過ごしください』
たったそれだけのメッセージと一緒に贈られてきたのは、チョコと手袋だった。
丸っこい柔らかな筆跡。
初めて見るのに、何故か誰の書いたものかすぐにわかった。
『来年の誕生日は期待して待ってていいよ』
尻尾を振って喜ぶ犬みたいに無邪気に笑った寧子の顔を思い出して、力の抜けた俺はデスクに座り込んだ。
狡い女、と口からは悪態がついて出た。
よく見てみれば、送り先の住所は東京で住んでいたマンションのものになっている。
不意を突かれた俺は思わず失笑がこぼれるのを自覚しながら、「名前ぐらい書けよ」とカードを指で弾いた。
その日は、残業をしなかった。
仕事は山のように残っていたけど、なんとなく働く気力すら削がれて、周りが驚くのを尻目に定時で退勤を切った。
家に帰ると、机の抽斗から文庫本を取り出す。
著者名の下に寧子の名前がある。
仕事が忙しいからと読むのを避け続けていた本を開いて、綴られた文字を目でなぞった。
それは悲しい恋の物語だった。
だけど物語を紡ぐ綺麗な言葉たちは、寧子らしい純粋なひたむきさを纏っているようで、堪らなかった。
あの夜、本当は言ってしまいたかった。
震える寧子を離したくなかった。
俺の傍にいてくれないかって格好よく言えるような男だったら、何かが変わっていたかもしれないのに。
だけど結局どうしたって俺はこすくて果敢ない男で、そのくせ綺麗さっぱり諦めるだけの潔さもなくて。
もう遅いかもしれない。
そもそも最初から俺は数に入ってなかったのかもしれない。
だとしても、と思った。
損得より感情で動いてみてもいいんじゃないかって、柄にもないことを考えるくらいには、引き返せない場所に立っていた。
「随分無茶な働き方をしてると聞いたよ」
定例訪問で福岡支社を訪れた代表がにこりと微笑みながら、俺を詰った。
「…申し訳ありません」
「今後鷹司くんの休日出勤、深夜残業は申告制とするので、必ず報告をあげなさい」
「承知しました、以後徹底します」
「それと君の有給が3月末で消えるんだよね」
「有給ですか」
正直、入社してからほぼ消化したことがない。
今までも2年ごとに勝手に消滅していただろうその休暇を今さら指摘され、思わず空返事がこぼれた。
「支社責任者の肩書きを与えたんだ、君が休まずにいることで君の下に就く社員が休みにくいと思ったらどうする?」
「…わかりました、取得します」
「そのほかの勤怠もだよ、わかってるね?」
念を押すような視線を送られる。
現場からの主張を除けば代表の言うことはご尤もな正論だったので、色々と反論したい気持ちを抑えて自分の非を謝罪した。
結局3月に入ってすぐ強制的に1週間の休暇を取らされることになった俺は自分のオフィスに戻り、カレンダーを睨んだ。
どうせ休んだ分だけ溜まった仕事が後ろ倒しになって、後の業務を圧迫することは目に見えているのに、まったくサラリーマンってやつは不合理だ。
だが並ぶ日付を見ながら、ふと思い立った。
東京にでも行こうか。
生憎仕事も全部放り出して新幹線に飛び乗れるような恰好いい男ではない俺は、どうせこんな口実でもなけりゃ動かない。
でも、会いに行く口実としては悪くない。
この期に及んでも情けない自分に辟易しながらも、俺はなんとなく吹っ切れた気分で、有給申請書に名前を書いた。
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