邪に、燻らせる
霖雨の候/青梅雨に濡れる
今まで言ったことなかったけど。
実は最初に見た時、顔がタイプだと思った。
その年のクリスマスイブは、お世話になっている広告会社の社長が主催するパーティーに顔を出していた。
振舞われるワインやシャンパンで心地よく微酔しながらも、仕事の席でもあったので、節度を持って飲酒していた俺は、若干物足りなく感じながら帰路についた。
まだギリギリ電車はある時間だったが、混雑が予想されるクリスマスイブの夜に電車に乗るのも億劫で、タクシーを使った。
そうして帰ってきた、自室のあるマンションのエントランス入口付近。
オートロックの解除機械の前に、見覚えのある女がひとり、この寒空の下、気持ち良さそうに寝息を立てていた。
その時、俺は無意識に『まじか』と小さな呟きを落とした後、さすがにこの寒さの中に放置するのも夢見が悪く、女の肩を軽くゆすった。
すると意外にもすぐに目を覚ました女は、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳を、眠たげに何度か瞬かせると。
どこか覚束ない印象で、ふにゃりと笑った。
『お兄さん素敵ですね、遊びません?』
据え膳食わぬはなんとやら。
その時、俺の頭をよぎったのは、まさにそんな言葉だった。
酩酊状態で舌足らずな女の声は、特有の甘い響きを孕んでいて、それはその夜そのまま甘い嬌声へと変わった。
ゴミ捨て場やエントランスで何度か見掛けたことのあったその女、常盤寧子はその夜から、俺の中で緩やかに立ち位置を変えた。
「大分ゆっくりできるようになったな」
ビルの高層階にあるガラス張りの喫煙所で、煙草を燻らせながら同僚の矢吹大樹が呟いた。
抱えるクライアントの多くが3月決算なこともあり、年末からGWが明ける頃までは、俺たち税理士には地味な繁忙期が続いていた。
「そうですね、俺の方もかなり」
「鷹、去年の年末からずっと死にかけてたもんなあ」
「まあ経験積めるのは有難いすけどね」
年齢が3つ上の矢吹は、鷹司という俺の苗字の長さを嫌って、『鷹』と気安く呼んでいた。
面倒見の良い性格の矢吹は、入社当初からよくフォローしてくれていた気さくな先輩で、最近娘が生まれたばかりの新米パパでもある。
「娘は可愛いんだけどさあ、嫁が超怖い」
「出産後に豹変した系っすか」
「母になると女ってマジで強いのな、もう俺なにしても怒られるもん今、家庭内で針の筵」
「大変すねえ」
他人事な俺は、適当に流して煙草を吹かす。
「鷹はどうなの、結婚は?」
「ないない、もう何年も彼女いませんから」
「何言ってんだよ男前が、お前がアシスタントの牧野さんに言い寄られてんの俺は知ってんだぞ!」
「言い寄られた記憶がないっすねえ」
「はー、モテる男は余裕が違ぇな!」
悔しげに煙草を噛み締めた矢吹は、短くなったそれを乱暴に灰皿にこすりつけた。
「午後は外出んの?」
「今日は14時から1件アポが入ってます」
「ほんと梅雨だるいよなあ」
薄暗く曇った梅雨空からは、細かい雨がさらさらと降り注いでいるのが見えた。
俺は口に咥えた煙草の煙を肺まで深く吸い込んで、梅雨時の霖雨に濡れた世界を、ガラス越しに見下ろしていた。
アポを終えて訪問先の企業が入ったオフィスビルを出ると、雨脚がさっきよりも強まっていた。
軒先で傘を広げながら、憂鬱な空模様を軽く睨んで、車を停めたパーキングまでの道を足早に進む。
仕事は好きだ。
情熱を注げば注ぐ分だけ、その見返りが目に見える形で返ってくる。
それは給料だったり、昇格だったり、はたまた任される職務領域の拡大だったりするわけだけど、その明快さが好きだった。
子どもの頃から俺は、始めたゲームは絶対に全工程をクリアするまで諦めないタイプだった。
そんな俺にとっては、ある意味仕事も、その延長線上にあるもっと難解なゲームに挑んでいるような感覚に近い。
それに経営の根幹を担う金の運用に関する話には、どの経営者も一様に目の色を変える。
当然だ。
その選択に、会社の命運が掛かっている。
そんな高い視座に立ちながら、百戦錬磨で勝ち上がってきた経営者たちと対等に渡り合うだけの、知識と機転が常に求められる。
仕事相手は企業の上層部。
油断すれば即座に俺程度の人間を切り捨てることくらい、造作もない人間たち。
最初はまだ若く経験も浅い税理士だと舐めて掛かってくる奴らからの信頼を得て、自分の提案に首を縦に振らせた瞬間。
まるで相手を打ち負かしたような勝利の余韻と優越感があって、俺は中毒みたいなその感覚に単純にハマっている。
「小島物産の担当任されたって本当?」
大手町のオフィスビルに居を構える税理士法人の事務所内は、税理士1人につき1つの個室が与えられている。
全面ガラス張りになった個室のドアを2度叩いてから入室してきたのは、同期で入社した七森紗里だった。
「任されたけど、なんで?」
「あそこって代表がずっと贔屓にされてて、他の部下に引き継ごうとする度に社長が駄々こねてたとこじゃない?」
「たまたま他の税理士とソリが合わなかっただけじゃないか?普通にいい社長さんだったよ」
「相変わらず嫌味な男ね」
見せつけるようにため息をついて、紗里はデスクの手前にある応接用のソファーに腰を降ろした。
艶のある真っ黒なロングヘアをさらりと後ろへ払うと、猫目を生意気そうに眇めて、俺を見上げる。
「懐柔するのにどんな手段を使ったの?」
「真心こめたおもてなしだよ、それ以上は企業秘密だから悪いな」
紗里は昔から負けず嫌いだった。
気が強くて好戦的で、何でもすぐに俺と張り合おうとしてきた。
だけどいつもはそんな調子で可愛げのない紗里は、本当は人一倍繊細で、周りからの評価を気にする泣き虫な女だった。
「相変わらず冬爾は可愛げがない」
「紗里にだけは言われたくねえよ」
「あーほんと別れて正解だった!」
単に俺に文句を言いたかっただけらしい紗里はそんな捨て台詞を残して、足取り荒く部屋を出て行った。
紗里と俺は、昔付き合っていた。
入社してから1年で税理士資格をほぼ同時に取得した俺たちは、事務所から程近い行きつけの居酒屋でそのお祝いをした帰り道、付き合うことになった。
元々お互いを特別な存在として意識している雰囲気はあったし、タイミング的にもベストだと思った。
まだ冷たい風が吹く、春先の夜。
人もまばらなオフィス街の道端で、付き合おうと言った俺の言葉に、紗里は泣きながら頷いていた。
そこから、結局3年付き合った。
ちょうど今と同じような、長い梅雨が明け切らない陰鬱な季節に別れるまで。
理由はありふれていて、単純だった。
そろそろ結婚したいと言う紗里と、まだ結婚なんて考えられなかった俺。
そのうち仕事が落ち着いたら考えるという何度目かの常套句を俺が口にした時、紗里の方から別れを告げられた。
『今はダメって言うけど、逆にいつになったら考えられるの?』
紗里に何度も詰問された言葉だった。
その度に俺の発する答えは、馬鹿のひとつ覚えみたいな『わからない』だった。
「おかえり」
部屋の扉の隙間から寧子が顔を出した。
化粧っ気のない顔に、ざっくりとまとめただけの髪と、くたびれたジャージ姿。
最初に抱いた夜の寧子は、控えめなメイクと巻いて結わえた髪に、綺麗な藤色のドレスを身に纏っていた。
年相応に美人で色っぽくて、イブの夜に家の前でこんな拾い物をするなんてラッキーと安直に浮かれたあの夜の俺は、今の寧子の姿をどう思うだろうか。
「今日は手抜きなの、親子丼だけでごめんね」
「充分だよ、仕事忙しいの?」
「その逆、なんか調子良く筆が乗っちゃって、夕飯のために中断するのが惜しくて」
お金貰ってるのにごめんね。
そう言って、寧子は律儀にまた謝った。
寧子に食費を支払う代わりに夕飯を作ってもらうようになって、ひと月ほどが過ぎた。
接待や飲みの予定がない日以外は基本的にこうして寧子の部屋に来て、寧子の作ってくれた夕飯を一緒に食べている。
寧子と過ごす時間が、俺は好きだった。
寧子の話は翻訳家ならではの文学的な発想と着眼に富んでいて面白かったし、彼女のあっけらかんとした性格も一緒にいて気楽だった。
ある程度俺に無関心な寧子は、一定の距離感を保ったまま接してくれて、付かず離れず居心地が良かった。
「あれ、また来たの?」
夕飯を食べ終えて、風呂に入りに一度自分の部屋に戻った俺は、寝る支度を一通り済ませてから改めて寧子の部屋を訪ねた。
開けたドアの隙間から、寧子の丸く大きな瞳が不思議そうに俺を見上げている。
「繁忙期終わったからな」
「あ、そうなの?おつかれさま」
「ありがとう」
寧子が髪をタオルで拭きながら笑った。
どうやら向こうも風呂に入って寝る支度を済ませる最中だったらしい。
無遠慮にベッドに転がりながら寧子の身支度が整うのを待った。
だが基本的にマイペースな寧子は、俺のことは気にした様子もなく、垂れ流しているテレビに手を止めたり、思い出したように携帯を触ったりしている。
「今日こっち泊まるの?」
「迷惑?」
「全然いいけど、珍しいね、冬爾が平日に私の部屋に泊まりに来るの」
パジャマ姿の寧子がベッドに来た。
寝転がる俺の髪に細い指先を通しながら、小さく微笑んだ寧子は耳元にそっとキスを落としてくる。
今日は水曜日だった。
普段なら平日は、飯の後に流れで軽く抱き合うことはあっても、寧子の部屋に泊まることはほとんどなかった。
一緒に寝るのは苦にならないんだけど、会社勤めでない彼女は毎朝早くに起きる必要もないのに、俺と一緒だと結局寧子まで早起きさせてしまうのが申し訳なかったからだ。
そんなことを言えば、きっと寧子は気にしすぎだと言って、いつもの屈託のない表情で笑うだろうけど。
「今年の梅雨はもうちょっと長引くって」
「外回りの時に革靴とスーツの裾が濡れんのがなあ、ほぼ車移動だからあれだけど」
「雨って嫌い、物語の中ならロマンチックで良いけど実際は髪決まらないし服濡れるし傘で手が塞がって不便だもん」
「でも抒情的で綺麗な言葉に訳すんだろ?」
「それが作者の意図ならもちろん」
ふふん、と寧子は得意げに鼻を鳴らした。
横に転がっている寧子の長い髪は、まだほんの少しだけ湿っている。
柔らかい印象の茶色の髪は、背中の真ん中辺りまで伸びていて、下に方になる連れてゆるゆると緩めの癖がついていた。
「寧子の髪ってパーマ?」
「ううん、ただの癖毛なの、でもストレートにするほど酷い癖でもないから」
「ふうん」
「興味ないなら何で聞いたの」
感じ悪い、と言って寧子が俺の両頬を抓った。
飾り気のない寧子の手が俺は結構好きだった。
「ネイルとかしないの、寧子」
「だって料理するのに邪魔だもの、でも何かでお洒落に決めたい日はマニキュアくらいなら塗るよ」
「ふうん」
「だから興味ないなら聞くなっての」
何なのさっきから、と寧子は笑った。
健康的なピンク色をした細長い寧子の爪を眺めながら、俺は紗里のきらきらと綺麗に彩られた爪を思い出していた。
「する?」
不意に寧子がテレビを消した。
部屋の電気も消して、ヘッドボードの上に置かれたオレンジ色のランプの灯りだけが部屋の中を照らしている。
目の前の華奢な身体を抱き寄せると、お風呂上がりの甘い匂いが鼻先をくすぐって、しっとり潤った肌に手が伸びていた。
「今日はお喋りしたいって言わないの」
「冬爾は明日も朝早いんでしょ?寂しい私に付き合わせるのは忍びないわ」
窓の外にはまだ雨が降っている。
けれど閉め切られた部屋の中にはその雨音は届かず、聞こえるのは寧子の息遣いだけ。
「別に話してもいいよ、まだ眠くない」
「なによそれ?まあならお言葉に甘えて、嵐が丘って知ってる?」
「なんか有名な小説だろ?読んだことはないけど題名だけ聞いたことある」
「そうなの、で、その翻訳依頼が来てね」
「それって凄いんじゃないの?」
まあそうだけど、と何故か寧子はくたびれたようにため息をついた。
「何でそんな顔してんの?」
「だってこんな誰もが知る名作の新訳なんてプレッシャーで死にそうだよ、他の人が今まで訳してきた作品も読んだけど、どれも名訳で、この後に出す私の気持ちよ…」
「訳す人によってやっぱり雰囲気って相当変わるもんなの?」
「全然違うよ、別の作品かと思うくらい」
普段文学作品なんてほとんど読むことのない俺にとっては、寧子の話はいつも新鮮だった。
嵐が丘の原題『Wuthering Heights』を斎藤勇という人が『嵐が丘』と訳したのは、歴史的名訳とされていることなんかを寧子は楽しげに話している。
「でもチャンスなんだろ?頑張れよ」
「…冬爾って顔に似合わず実はポジティブだよね、羨ましい」
「褒めるか貶すかはっきりしてくれ」
「褒めてるよ」
恨めし気に寧子は俺を睨んでいた。
そんな顔をされるとあまり褒められてる気がしないが、まあ見逃してやろう。
「俺は難しい案件ほど燃えるタイプだから」
「仕事好きな男の人ってほんとそういう時の目の色変わるよね、ギラギラしてる」
「でも寧子だってどうせ受けるんだろ?その仕事、だったらもう腹括れよ」
「あのね、女はこう言う時、優しく話を聞いて大丈夫だよって甘えさせてほしいだけなの、叱咤激励要らないの」
「はいはい、寧子は頑張ってて偉いねえ」
言われた通り優しく抱きしめて頭を撫でてやれば、腕の中で「そういうことじゃない…」と拗ねた声が聞こえる。
言われた通りにしても結局納得しないなら、最初から俺なんかに頼むなよと思った。
「…もういい、甘える相手間違えた」
「次はもっと優しい男にするんだな」
「だって冬爾ぐらいしか私のことなんか構ってくれる物好きいないもん」
寧子はそう言って、俺の胸に顔を埋めた。
俺は最低なことに、昔から自分は残念な貞操観念と道徳性で生きているくせに、相手に別の男の影がチラつくのは許せなかった。
そういう影が相手に見えると何故か途端に興味が失せ、消えた熱が再燃することはなく、静かにフェードアウトを決め込んだ。
その点、寧子には他の男の影なんてものはまるで見えず、いつも孤独だ寂しいと言って俺に甘えてくるのが、シンプルに可愛かった。
「寧子の訳した本が出たら、読むよ」
「…本当?」
「他の人のじゃなくて寧子の訳でちゃんと読むから、それでいいだろ?」
俺の言葉に、寧子は嬉しそうに笑った。
そしてまるで少女みたいな無邪気さで、俺にキスをしてくるから、そのまま抱き寄せて服の中に手を入れる。
若い頃から、俺はどちらかと言うと刹那的な関係を築くことが多かった。
真面目に付き合うと大抵恋人の方から淡白さを指摘され、しかし俺自身に改善する気概がないので結局上手くいかなくて。
だから付き合った女の数と刹那的に身体を重ねただけの女の数を比べたら、恐らくダブルスコアどころの話じゃないだろう。
そして今の俺は、誰に何を求められても返せる感情の持ち合わせがなかった。
自分の中の第一優先は完全に仕事で、最初はそれでもいいと言った女が、数か月でそれでは飽き足らなくなる生き物だということも経験から知っていた。
だから、常盤寧子と言う女は、俺の人生における異端児だった。
「…ッ、冬爾、お願い、だから」
いつも飄々として自分の脚で立つことに何の躊躇いもない彼女が、俺にしがみついて、男の加虐心を煽る甘い声で啼く。
大きな瞳は熱と涙に濡れていた。
寧子の細い身体が俺の腕の中で快楽に震える。
その瞬間が、俺は堪らなく好きだった。
だけど何度身体を重ねようと、寧子の中には俺への熱を帯びた感情なんかは見えなくて。
むしろ身体を重ねている時以外の俺たちの間にあるのは、恋愛どころか友情に近いような感覚に思えた。
それが俺には、単純に楽だった。
寧子は自分の差し出したものと、同等の対価を俺に求めるだけだ。
俺の持っていないものを、無理に捻出させようとはしてこない。
あるがままを、ただ甘受するだけ。
そこに彼女が秘めた切ない感情なんてものは片鱗すら見えないから、俺たちは男と女ではなく人間同士でいられる。
「冬爾、くっついて寝てもいい?」
「どうぞお好きに」
裸のままの寧子は、もう眠そうだ。
俺の腕の中に潜り込んできて、下着も着けないまま満足そうに目を閉じる。
「明日、何時に起きるの?」
「6時ぐらいかな」
「なら朝ごはん作ってあげるよ、私の嵐が丘読むよって言ってくれたお礼」
「何だよそれ、別にいいよそんなの」
「私が作りたいの」
舌足らずな声で囁く寧子は、そのまま俺の肩に頬をすり寄せて、目を閉じたままふにゃりと覚束ない雰囲気で笑う。
どこか既視感のあるその笑顔に、なんだったかなと少し考えたけど。
結局どうでもよくなって、俺も目を閉じた。
実は最初に見た時、顔がタイプだと思った。
その年のクリスマスイブは、お世話になっている広告会社の社長が主催するパーティーに顔を出していた。
振舞われるワインやシャンパンで心地よく微酔しながらも、仕事の席でもあったので、節度を持って飲酒していた俺は、若干物足りなく感じながら帰路についた。
まだギリギリ電車はある時間だったが、混雑が予想されるクリスマスイブの夜に電車に乗るのも億劫で、タクシーを使った。
そうして帰ってきた、自室のあるマンションのエントランス入口付近。
オートロックの解除機械の前に、見覚えのある女がひとり、この寒空の下、気持ち良さそうに寝息を立てていた。
その時、俺は無意識に『まじか』と小さな呟きを落とした後、さすがにこの寒さの中に放置するのも夢見が悪く、女の肩を軽くゆすった。
すると意外にもすぐに目を覚ました女は、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳を、眠たげに何度か瞬かせると。
どこか覚束ない印象で、ふにゃりと笑った。
『お兄さん素敵ですね、遊びません?』
据え膳食わぬはなんとやら。
その時、俺の頭をよぎったのは、まさにそんな言葉だった。
酩酊状態で舌足らずな女の声は、特有の甘い響きを孕んでいて、それはその夜そのまま甘い嬌声へと変わった。
ゴミ捨て場やエントランスで何度か見掛けたことのあったその女、常盤寧子はその夜から、俺の中で緩やかに立ち位置を変えた。
「大分ゆっくりできるようになったな」
ビルの高層階にあるガラス張りの喫煙所で、煙草を燻らせながら同僚の矢吹大樹が呟いた。
抱えるクライアントの多くが3月決算なこともあり、年末からGWが明ける頃までは、俺たち税理士には地味な繁忙期が続いていた。
「そうですね、俺の方もかなり」
「鷹、去年の年末からずっと死にかけてたもんなあ」
「まあ経験積めるのは有難いすけどね」
年齢が3つ上の矢吹は、鷹司という俺の苗字の長さを嫌って、『鷹』と気安く呼んでいた。
面倒見の良い性格の矢吹は、入社当初からよくフォローしてくれていた気さくな先輩で、最近娘が生まれたばかりの新米パパでもある。
「娘は可愛いんだけどさあ、嫁が超怖い」
「出産後に豹変した系っすか」
「母になると女ってマジで強いのな、もう俺なにしても怒られるもん今、家庭内で針の筵」
「大変すねえ」
他人事な俺は、適当に流して煙草を吹かす。
「鷹はどうなの、結婚は?」
「ないない、もう何年も彼女いませんから」
「何言ってんだよ男前が、お前がアシスタントの牧野さんに言い寄られてんの俺は知ってんだぞ!」
「言い寄られた記憶がないっすねえ」
「はー、モテる男は余裕が違ぇな!」
悔しげに煙草を噛み締めた矢吹は、短くなったそれを乱暴に灰皿にこすりつけた。
「午後は外出んの?」
「今日は14時から1件アポが入ってます」
「ほんと梅雨だるいよなあ」
薄暗く曇った梅雨空からは、細かい雨がさらさらと降り注いでいるのが見えた。
俺は口に咥えた煙草の煙を肺まで深く吸い込んで、梅雨時の霖雨に濡れた世界を、ガラス越しに見下ろしていた。
アポを終えて訪問先の企業が入ったオフィスビルを出ると、雨脚がさっきよりも強まっていた。
軒先で傘を広げながら、憂鬱な空模様を軽く睨んで、車を停めたパーキングまでの道を足早に進む。
仕事は好きだ。
情熱を注げば注ぐ分だけ、その見返りが目に見える形で返ってくる。
それは給料だったり、昇格だったり、はたまた任される職務領域の拡大だったりするわけだけど、その明快さが好きだった。
子どもの頃から俺は、始めたゲームは絶対に全工程をクリアするまで諦めないタイプだった。
そんな俺にとっては、ある意味仕事も、その延長線上にあるもっと難解なゲームに挑んでいるような感覚に近い。
それに経営の根幹を担う金の運用に関する話には、どの経営者も一様に目の色を変える。
当然だ。
その選択に、会社の命運が掛かっている。
そんな高い視座に立ちながら、百戦錬磨で勝ち上がってきた経営者たちと対等に渡り合うだけの、知識と機転が常に求められる。
仕事相手は企業の上層部。
油断すれば即座に俺程度の人間を切り捨てることくらい、造作もない人間たち。
最初はまだ若く経験も浅い税理士だと舐めて掛かってくる奴らからの信頼を得て、自分の提案に首を縦に振らせた瞬間。
まるで相手を打ち負かしたような勝利の余韻と優越感があって、俺は中毒みたいなその感覚に単純にハマっている。
「小島物産の担当任されたって本当?」
大手町のオフィスビルに居を構える税理士法人の事務所内は、税理士1人につき1つの個室が与えられている。
全面ガラス張りになった個室のドアを2度叩いてから入室してきたのは、同期で入社した七森紗里だった。
「任されたけど、なんで?」
「あそこって代表がずっと贔屓にされてて、他の部下に引き継ごうとする度に社長が駄々こねてたとこじゃない?」
「たまたま他の税理士とソリが合わなかっただけじゃないか?普通にいい社長さんだったよ」
「相変わらず嫌味な男ね」
見せつけるようにため息をついて、紗里はデスクの手前にある応接用のソファーに腰を降ろした。
艶のある真っ黒なロングヘアをさらりと後ろへ払うと、猫目を生意気そうに眇めて、俺を見上げる。
「懐柔するのにどんな手段を使ったの?」
「真心こめたおもてなしだよ、それ以上は企業秘密だから悪いな」
紗里は昔から負けず嫌いだった。
気が強くて好戦的で、何でもすぐに俺と張り合おうとしてきた。
だけどいつもはそんな調子で可愛げのない紗里は、本当は人一倍繊細で、周りからの評価を気にする泣き虫な女だった。
「相変わらず冬爾は可愛げがない」
「紗里にだけは言われたくねえよ」
「あーほんと別れて正解だった!」
単に俺に文句を言いたかっただけらしい紗里はそんな捨て台詞を残して、足取り荒く部屋を出て行った。
紗里と俺は、昔付き合っていた。
入社してから1年で税理士資格をほぼ同時に取得した俺たちは、事務所から程近い行きつけの居酒屋でそのお祝いをした帰り道、付き合うことになった。
元々お互いを特別な存在として意識している雰囲気はあったし、タイミング的にもベストだと思った。
まだ冷たい風が吹く、春先の夜。
人もまばらなオフィス街の道端で、付き合おうと言った俺の言葉に、紗里は泣きながら頷いていた。
そこから、結局3年付き合った。
ちょうど今と同じような、長い梅雨が明け切らない陰鬱な季節に別れるまで。
理由はありふれていて、単純だった。
そろそろ結婚したいと言う紗里と、まだ結婚なんて考えられなかった俺。
そのうち仕事が落ち着いたら考えるという何度目かの常套句を俺が口にした時、紗里の方から別れを告げられた。
『今はダメって言うけど、逆にいつになったら考えられるの?』
紗里に何度も詰問された言葉だった。
その度に俺の発する答えは、馬鹿のひとつ覚えみたいな『わからない』だった。
「おかえり」
部屋の扉の隙間から寧子が顔を出した。
化粧っ気のない顔に、ざっくりとまとめただけの髪と、くたびれたジャージ姿。
最初に抱いた夜の寧子は、控えめなメイクと巻いて結わえた髪に、綺麗な藤色のドレスを身に纏っていた。
年相応に美人で色っぽくて、イブの夜に家の前でこんな拾い物をするなんてラッキーと安直に浮かれたあの夜の俺は、今の寧子の姿をどう思うだろうか。
「今日は手抜きなの、親子丼だけでごめんね」
「充分だよ、仕事忙しいの?」
「その逆、なんか調子良く筆が乗っちゃって、夕飯のために中断するのが惜しくて」
お金貰ってるのにごめんね。
そう言って、寧子は律儀にまた謝った。
寧子に食費を支払う代わりに夕飯を作ってもらうようになって、ひと月ほどが過ぎた。
接待や飲みの予定がない日以外は基本的にこうして寧子の部屋に来て、寧子の作ってくれた夕飯を一緒に食べている。
寧子と過ごす時間が、俺は好きだった。
寧子の話は翻訳家ならではの文学的な発想と着眼に富んでいて面白かったし、彼女のあっけらかんとした性格も一緒にいて気楽だった。
ある程度俺に無関心な寧子は、一定の距離感を保ったまま接してくれて、付かず離れず居心地が良かった。
「あれ、また来たの?」
夕飯を食べ終えて、風呂に入りに一度自分の部屋に戻った俺は、寝る支度を一通り済ませてから改めて寧子の部屋を訪ねた。
開けたドアの隙間から、寧子の丸く大きな瞳が不思議そうに俺を見上げている。
「繁忙期終わったからな」
「あ、そうなの?おつかれさま」
「ありがとう」
寧子が髪をタオルで拭きながら笑った。
どうやら向こうも風呂に入って寝る支度を済ませる最中だったらしい。
無遠慮にベッドに転がりながら寧子の身支度が整うのを待った。
だが基本的にマイペースな寧子は、俺のことは気にした様子もなく、垂れ流しているテレビに手を止めたり、思い出したように携帯を触ったりしている。
「今日こっち泊まるの?」
「迷惑?」
「全然いいけど、珍しいね、冬爾が平日に私の部屋に泊まりに来るの」
パジャマ姿の寧子がベッドに来た。
寝転がる俺の髪に細い指先を通しながら、小さく微笑んだ寧子は耳元にそっとキスを落としてくる。
今日は水曜日だった。
普段なら平日は、飯の後に流れで軽く抱き合うことはあっても、寧子の部屋に泊まることはほとんどなかった。
一緒に寝るのは苦にならないんだけど、会社勤めでない彼女は毎朝早くに起きる必要もないのに、俺と一緒だと結局寧子まで早起きさせてしまうのが申し訳なかったからだ。
そんなことを言えば、きっと寧子は気にしすぎだと言って、いつもの屈託のない表情で笑うだろうけど。
「今年の梅雨はもうちょっと長引くって」
「外回りの時に革靴とスーツの裾が濡れんのがなあ、ほぼ車移動だからあれだけど」
「雨って嫌い、物語の中ならロマンチックで良いけど実際は髪決まらないし服濡れるし傘で手が塞がって不便だもん」
「でも抒情的で綺麗な言葉に訳すんだろ?」
「それが作者の意図ならもちろん」
ふふん、と寧子は得意げに鼻を鳴らした。
横に転がっている寧子の長い髪は、まだほんの少しだけ湿っている。
柔らかい印象の茶色の髪は、背中の真ん中辺りまで伸びていて、下に方になる連れてゆるゆると緩めの癖がついていた。
「寧子の髪ってパーマ?」
「ううん、ただの癖毛なの、でもストレートにするほど酷い癖でもないから」
「ふうん」
「興味ないなら何で聞いたの」
感じ悪い、と言って寧子が俺の両頬を抓った。
飾り気のない寧子の手が俺は結構好きだった。
「ネイルとかしないの、寧子」
「だって料理するのに邪魔だもの、でも何かでお洒落に決めたい日はマニキュアくらいなら塗るよ」
「ふうん」
「だから興味ないなら聞くなっての」
何なのさっきから、と寧子は笑った。
健康的なピンク色をした細長い寧子の爪を眺めながら、俺は紗里のきらきらと綺麗に彩られた爪を思い出していた。
「する?」
不意に寧子がテレビを消した。
部屋の電気も消して、ヘッドボードの上に置かれたオレンジ色のランプの灯りだけが部屋の中を照らしている。
目の前の華奢な身体を抱き寄せると、お風呂上がりの甘い匂いが鼻先をくすぐって、しっとり潤った肌に手が伸びていた。
「今日はお喋りしたいって言わないの」
「冬爾は明日も朝早いんでしょ?寂しい私に付き合わせるのは忍びないわ」
窓の外にはまだ雨が降っている。
けれど閉め切られた部屋の中にはその雨音は届かず、聞こえるのは寧子の息遣いだけ。
「別に話してもいいよ、まだ眠くない」
「なによそれ?まあならお言葉に甘えて、嵐が丘って知ってる?」
「なんか有名な小説だろ?読んだことはないけど題名だけ聞いたことある」
「そうなの、で、その翻訳依頼が来てね」
「それって凄いんじゃないの?」
まあそうだけど、と何故か寧子はくたびれたようにため息をついた。
「何でそんな顔してんの?」
「だってこんな誰もが知る名作の新訳なんてプレッシャーで死にそうだよ、他の人が今まで訳してきた作品も読んだけど、どれも名訳で、この後に出す私の気持ちよ…」
「訳す人によってやっぱり雰囲気って相当変わるもんなの?」
「全然違うよ、別の作品かと思うくらい」
普段文学作品なんてほとんど読むことのない俺にとっては、寧子の話はいつも新鮮だった。
嵐が丘の原題『Wuthering Heights』を斎藤勇という人が『嵐が丘』と訳したのは、歴史的名訳とされていることなんかを寧子は楽しげに話している。
「でもチャンスなんだろ?頑張れよ」
「…冬爾って顔に似合わず実はポジティブだよね、羨ましい」
「褒めるか貶すかはっきりしてくれ」
「褒めてるよ」
恨めし気に寧子は俺を睨んでいた。
そんな顔をされるとあまり褒められてる気がしないが、まあ見逃してやろう。
「俺は難しい案件ほど燃えるタイプだから」
「仕事好きな男の人ってほんとそういう時の目の色変わるよね、ギラギラしてる」
「でも寧子だってどうせ受けるんだろ?その仕事、だったらもう腹括れよ」
「あのね、女はこう言う時、優しく話を聞いて大丈夫だよって甘えさせてほしいだけなの、叱咤激励要らないの」
「はいはい、寧子は頑張ってて偉いねえ」
言われた通り優しく抱きしめて頭を撫でてやれば、腕の中で「そういうことじゃない…」と拗ねた声が聞こえる。
言われた通りにしても結局納得しないなら、最初から俺なんかに頼むなよと思った。
「…もういい、甘える相手間違えた」
「次はもっと優しい男にするんだな」
「だって冬爾ぐらいしか私のことなんか構ってくれる物好きいないもん」
寧子はそう言って、俺の胸に顔を埋めた。
俺は最低なことに、昔から自分は残念な貞操観念と道徳性で生きているくせに、相手に別の男の影がチラつくのは許せなかった。
そういう影が相手に見えると何故か途端に興味が失せ、消えた熱が再燃することはなく、静かにフェードアウトを決め込んだ。
その点、寧子には他の男の影なんてものはまるで見えず、いつも孤独だ寂しいと言って俺に甘えてくるのが、シンプルに可愛かった。
「寧子の訳した本が出たら、読むよ」
「…本当?」
「他の人のじゃなくて寧子の訳でちゃんと読むから、それでいいだろ?」
俺の言葉に、寧子は嬉しそうに笑った。
そしてまるで少女みたいな無邪気さで、俺にキスをしてくるから、そのまま抱き寄せて服の中に手を入れる。
若い頃から、俺はどちらかと言うと刹那的な関係を築くことが多かった。
真面目に付き合うと大抵恋人の方から淡白さを指摘され、しかし俺自身に改善する気概がないので結局上手くいかなくて。
だから付き合った女の数と刹那的に身体を重ねただけの女の数を比べたら、恐らくダブルスコアどころの話じゃないだろう。
そして今の俺は、誰に何を求められても返せる感情の持ち合わせがなかった。
自分の中の第一優先は完全に仕事で、最初はそれでもいいと言った女が、数か月でそれでは飽き足らなくなる生き物だということも経験から知っていた。
だから、常盤寧子と言う女は、俺の人生における異端児だった。
「…ッ、冬爾、お願い、だから」
いつも飄々として自分の脚で立つことに何の躊躇いもない彼女が、俺にしがみついて、男の加虐心を煽る甘い声で啼く。
大きな瞳は熱と涙に濡れていた。
寧子の細い身体が俺の腕の中で快楽に震える。
その瞬間が、俺は堪らなく好きだった。
だけど何度身体を重ねようと、寧子の中には俺への熱を帯びた感情なんかは見えなくて。
むしろ身体を重ねている時以外の俺たちの間にあるのは、恋愛どころか友情に近いような感覚に思えた。
それが俺には、単純に楽だった。
寧子は自分の差し出したものと、同等の対価を俺に求めるだけだ。
俺の持っていないものを、無理に捻出させようとはしてこない。
あるがままを、ただ甘受するだけ。
そこに彼女が秘めた切ない感情なんてものは片鱗すら見えないから、俺たちは男と女ではなく人間同士でいられる。
「冬爾、くっついて寝てもいい?」
「どうぞお好きに」
裸のままの寧子は、もう眠そうだ。
俺の腕の中に潜り込んできて、下着も着けないまま満足そうに目を閉じる。
「明日、何時に起きるの?」
「6時ぐらいかな」
「なら朝ごはん作ってあげるよ、私の嵐が丘読むよって言ってくれたお礼」
「何だよそれ、別にいいよそんなの」
「私が作りたいの」
舌足らずな声で囁く寧子は、そのまま俺の肩に頬をすり寄せて、目を閉じたままふにゃりと覚束ない雰囲気で笑う。
どこか既視感のあるその笑顔に、なんだったかなと少し考えたけど。
結局どうでもよくなって、俺も目を閉じた。