邪に、燻らせる

盛夏の候/風薫る夏の宵に

突然ですが、私は同窓会が苦手だ。
曲がりになりにもお嬢様育ちの私は、高校までは淑女たちの通う高貴な女子校に通っていた。
卒業とともにその花園を出た彼女たちは、それなりに名の通った大学へ進学し、その後も蝶よ花よともてはやされる。
そしてある程度の年齢になると、そうすることが当然とでも言うように結婚してゆき、行き遅れ真っ盛りの私は、正直居場所がないのだ。
「…もう勘弁してほしいわ」
私と同様に青い顔をした友人の大庭薫が、疲労の滲む声で呟いた。
「結婚してないだけで扱いがほぼ犯罪者」
「なんで結婚しないの?って無邪気に聞かれるのが一番堪える…」
「お嬢様たち特有の悪気のない澄んだ目でね」
「悪意がないのわかってるから怒れもしない」
「ほんとタチ悪いわよね」
同窓会ですっかり打ちのめされた私と薫は、その後ふたりで二次会だと、カジュアルなイタリアンに入った。
席に着くなりバックから煙草を取り出して咥える薫は、こう見えても大手家具メーカーのご令嬢で、筋金入りのお嬢様だった。
けれど大学時代に親に内緒でサークルの先輩たちと起業して以降、彼女は仕事に奔走し、実家とは未だに膠着状態が続いているらしい。
「でも薫は彼氏と長いじゃない?」
「私の彼氏知ってるでしょ?ほぼ無職のバンドマンなんか連れて帰ろうもんなら両親卒倒するわ」
「彼氏さんはいつまで夢追うの」
「馬鹿だから死ぬまで追うんじゃない?」
薫は気だるげに煙を吐いた。
「寧子は前の彼氏といつ別れたっけ?」
「もう2年かな、仕事に追われてるうちに気づいたら随分経ってますね」
「新しい男作んないの?」
「もう最近恋愛とか必要?ってなってて、ひとりでも生活成り立つし、仕事も楽しいし」
「私も3日に1回思うわそれ、別にコイツもう要らないんだけどなあって彼氏見ながら思うんだけど、別れ話するのもだるくて惰性で続いてる感じ」
「別れ話、ほんと労力使うよね…」
遠い昔の記憶を思い出して同調する。
直近の彼氏と別れた時、私は結構な精神的ダメージを背負ったので、正直もう2度とあんなものを経験しないためにも新しい恋愛をしたくない節がある。
「元カレとは連絡取ってないの?」
「今でもたまーに酔って気が向いた時に連絡してくるよ、そして返信したら何故か既読無視されてるよ」
「あんたの元カレはそういう男」
「重々承知してるから気にしてない」
私の元カレは、実に自分勝手な男だった。
雑誌の表紙なんかを撮っちゃうような売れっ子のカメラマンだった彼は、自由で尊大で、最悪なことに女癖まで悪かった。
付き合ってる間に浮気された回数なんか数えるのも面倒なくらいで、なのに憎めなくて、どうしようもなく好きだった。
そんな男が、ある日言ったのだ。
『寧子、俺ら結婚しようぜ』
空でも飛べるんじゃないかって思うくらいに嬉しくて、馬鹿みたいに泣いて、薬指に嵌めた指輪を抱きしめて眠った。
あの時、彼がめずらしく照れ臭そうに笑った顔を、私はきっと一生忘れないと思った。
――だけど、結局上手くいかなかった。
自由な人は結局どんな時も自由で、縛られるのが嫌いで、我慢なんて言葉は、彼の辞書には載っていなかった。
初めて私の両親と会った彼が、『俺ああいう価値観無理だわ』って似合わないスーツの背広を放り投げた時。
自分と彼の生きている世界は、どこまでも平行線で、交わることはないんだと思い知った。
あんな恋は、きっともう出来ない。
一生忘れないと思った彼のあの笑顔を、私はもう上手く思い出せもしなかった。
「あれ、寧子?」
薫と別れた帰りの夜道。
ふと後ろから聞こえた冬爾の声に振り返った。
「一瞬誰かわかんなかったわ」
「たまにはこういうのも似合うでしょ?」
「相変わらず化粧と髪型で化けるよなあ、毎日そんな風にしてりゃいいのに」
「嫌よ誰とも会わないのに面倒臭い、ていうかそっちは仕事?また休日出勤?」
「まあな、最近ちょっと面倒なクライアント任されてその処理とか諸々あって」
「相変わらず好きねえ、仕事」
ジャケットを肩に掛けて腕まくりをしている冬爾は、湿気の多い夏の夜にうんざりしたように汗を拭った。
風に運ばれて、微かに煙草の匂いがする。
今年もまた酷い猛暑になるとテレビのニュースで今朝言っていたのを思い出した。
「お前はそんな格好してどこ行ってきたの?」
「今日は同窓会だったの、あれ?冬爾に言ってなかったっけ?」
「予定あるから飯作れないってことしか聞いてねえよ、でも同窓会ね、そら見た目にも気合い入るわけだ」
「言っとくけど私の高校は女子校だからね?」
「あ、そっかお嬢様学校か」
冬爾と一緒にマンションに帰った。
エレベーターの中で、私が下げていたコンビニの袋を突っついた冬爾が「一緒に飲んでやろうか?」と言うからお言葉に甘えた。
「で、同窓会はどうだったの?」
また適当なものしか食べていないという冬爾に簡単な夜食を作っていると、急に後ろから抱き着いてくる。
「ちょっと重いな、針の筵だったよ」
「針の筵?なんで?」
「お嬢様は令和の世でもお嫁に行くのが早いのよ、行き遅れは辛いわけ」
「行き遅れって歳でもまだねえのになあ」
「味付けこのくらいでいい?」
手早く作った焼きうどんのキャベツを冬爾の方に持っていくと、パクリと食いつく。
「うまいよ、ありがとう」
「私の分もビール向こう置いといて」
「了解」
お皿に盛った焼うどんを冬爾の前のテーブルに置いた私は、自分はベッドの方にビールを持って行って寝転がる。
なんとなく静かなのが逆に耳に障って、テレビの電源を入れると、昔のドラマの再放送が流れていた。
「うわ、これもう何年前だっけ?」
「俺そのドラマ知んねーわ」
「素敵なのよ、まあストーリーはありきたりだけどイケメン社長と平凡な女子大生が恋に落ちる話でね」
「なんだその茶番劇」
「黙って焼きうどん食ってなさい」
ドラマの中では今もよりもまだ若い俳優と女優が、恋のクライマックスを迎えていた。
空港のロビーで人目も憚らず抱き合う二人は最高に幸せなキスをして、そして一点の曇りもなく明るい未来を約束している。
確かに、茶番劇かもしれない。
だけど物語はこれで良いのだ。
だって現実の恋愛は、ハッピーエンドのその先に地獄が待っていたりして、こんな風に美しくは終わらない。
だからフィクションと言うものは、救いのない現実をその場しのぎでもいいから緩和させるための抗生物質みたいなものだ。
「女って好きよなあ、こういうの」
「憧れがあるのよ、自分には手に入らないものだって知ってるから余計に」
「ハイスペックを求めすぎなんだよ」
「そうじゃないよ」
結局恋をしたら、スペックなんて関係ない。
長髪にダメージジーンズの軽薄な男なんて全然タイプじゃなかったのに、世界がひっくり返るくらいに好きだった。
なのに、繋いだ指先は離れてゆく。
忘れたくないものまで、忙殺される日々の狭間に消えてゆく。
だからもう、そんなのは欲しくないんだ。
傷を抱える場所なんて、もうこれ以上は心の中のどこにもないもの。
「今日はね、元担任の先生が定年退職するからってことで集まってたの」
「へえ、人望あったんだなその先生」
焼きうどんを食べ終えた冬爾が、早速煙草に火を点けていた。
「その先生は男の人なんだけど、独身貴族で今もおひとりなのね。それはまあいいんだけど、私も独身じゃない?しかも私は一人っ子なの。この先もずっと独身だった場合、私のお葬式の喪主って一体誰がするの?」
「知らねえよ」
呆れたように冬爾が煙を吐き出した。
そんな顔しないでよ。
「そんなこと言ったら俺だってこの先もし独身だったら喪主いねえかもしれねえよ」
「でも冬爾は弟さんいるんでしょ?」
「2個しか変わんねえのにどっちが先逝くかわかんねえだろそんなもん」
「冬爾は多分大丈夫だよ、なんか結婚しそうだもん、取引先との縁談とかで仕事の役に立つと思ったら結婚してそう」
「クソ失礼なこと言ってる自覚あるか?」
眼鏡の奥の冬爾の瞳がやや不機嫌そうに眇められた。
だけど私は気にせず続ける。
「もう誰かに喪主だけしてほしい」
「このまま未婚率が上昇すれば将来的にそういう制度もできるんじゃねえの」
「だと良いけど、無邪気になんで結婚しないのって聞かれすぎると自分がものすごいダメ人間に思えてくるんだよね」
「今時結婚が正義なんて貧相な価値観の奴らが言うことなんか気にすんなよ、昭和か」
「…冬爾」
どうしよう、冬爾に後光が見える。
嬉しくなって冬爾の傍までにじり寄って抱きつきに行けば、くわえ煙草で鬱陶しそうな顔をされた。
「それにまだ諦めるには早い歳だろ?」
「結婚?」
「ときめくのも面倒だなんて寂しいこと言ってないで、ちょっと試しに誰か男でも作ってみたらどうだ?」
「そんなお気軽に作れたら苦労してないわよ」
「その見た目ならいけるぜ」
普段はどうかと思うけど、と揶揄ってくる冬爾に、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだと不貞腐れた。
悪かったわね、いつも手抜きで。
「まあそれはそうとして、貯金とか諸々見直したいと思ったってのが本題でね」
「今まで前置き?長えよ」
「冬爾お金周り得意でしょ?プロだし」
テーブルの上に置いてあった自分の煙草を取り出して、ライターで火を点ける。
「見直しって、資産運用でもしてえの?」
「この歳で恥ずかしい話なんだけどお金周りのこと全然わかってないのよね、ある分だけ使う生活が馴染んでるって言うか…」
「ある分だけって、でも寧子は自炊したり節約してる風なこと言ってんじゃん」
「節約したらした分だけ支出に回すと言うか」
「お前収支管理表見せてみろ」
一応自分で管理している会計ソフトとネットバンキングの履歴を見せると、ざっと中身を確認した冬爾が「まじかよ…」と呟いた。
「なんだこのずさんな管理表、しかも出た利益ほぼ生活費で引き出してんじゃねえか」
「…だって翻訳するのに掛かる経費なんて参考資料の購入費ぐらいだもん、それも最近は出版社の担当さんが用意してくれるし」
「だとしても家賃とか光熱費とか経費として清算しとけば節税になんだろ、年間いくら損してんのこれ?」
「え、そんなに損してる?そんなに酷い?」
「思ってた十倍酷い」
生まれてこの方お金に苦労するような生活をしたことがなかった私は、大学卒業後に初めて貧乏というものの辛さを知った。
当時は毎月の暮らしにその月稼いだお金がすべて消えていたので、もちろん贅沢なんてする余裕もなくて。
だけど名が売れてある程度稼げるようになってくると、日々の暮らしに掛かるお金を差し引いても、口座にまだお金があることに気づいた。
そして元々子どもの頃から高級志向が身に付いていた私は、お金さえ持てば、その使い道には困らないのだ。
「…寧子、ちなみに聞くけど今日着てたあのドレスいくらだ?」
「あれは偶然VALENTINOだから…」
「値段は?」
「…40万ぐらい?」
冬爾の顔に明らかな侮蔑の色が浮かんだ。
そして唐突に立ち上がった冬爾は、何を思ったか私のクローゼットを開け放つ。
「うわ、プライバシーの侵害!」
「通帳残高まで見せといて何言ってんだ、それに下着も裸も見慣れてるから安心しろ」
「本当にデリカシーないわね!ちょっと乱暴にしないでよ高いんだから」
「これ全部ブランド品ばっかじゃねえか」
クローゼットに掛けてあった服や鞄のタグを見て、信じられないと言いたげに冬爾がため息を漏らしている。
「そんで、この歳で貯金ほぼなし?」
「…稼いだ分ちゃんと使うとまた仕事入ってくるみたいなジンクスあるじゃない?」
「そこに直れ、浪費女」
ベッドの上で冬爾と向かい合って座った。
冷ややかな瞳が私を蔑視している。
「まあ過去のことを今さらとやかく言っても仕方ないから言わねえけど、寧子は一応フリーランスで、言い方は悪いけど普通の企業勤めに比べれば不安定な仕事だろ?」
「…はい」
「この先もし病気にでもなって働けなくなったらどうすんの?貯金がなきゃ暮らせもしねえんだぜ?この歳で親に頼るの恥ずかしいだろ?」
「…はい」
「だから金の管理はちゃんとしろ、三十路目前にして子どもの頃の生活引き合いに出して言い訳すんのもなし、俺が色々相談には乗ってやるから、わかった?」
「…はい」
恥ずかしいほどぐうの音も出なかった。
清々しいまでの正論で怒られて、さすがに落ち込む私をの頭を、冬爾がわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「拗ねんなよ、俺がフォローするから」
「…拗ねてないよ、自分のダメさに今さら気づいてちょっと落ち込んでるの」
「俺も飯の件ではいつも寧子の世話になってるしさ、まあお互い様だよ」
「見捨てないでくれる?」
「見捨てない見捨てない」
冬爾に抱きつく私は、子どもが親に見捨てられまいと必死になっているみたいで、本当に滑稽だった。
だけど冬爾はそんな私を笑うこともせず、よしよしと言って抱きしめて、簡単なアドバイスから始めてくれる。
「ブランド品買うなとは言わないけど、月に固定費以外で使っていい金額を設定して、これからはその範囲内で買い物すること」
「それ以外の分を貯金に回すのね」
「てか寧子ってやっぱ結構稼いでんだな」
「まあ翻訳家にしてはそこそこ?」
最近は翻訳会社から振られる仕事を捌くのではなく、出版社から海外の作家の翻訳を直接依頼してもらえるようになったので、単純に原稿料が全く違うのだ。
とはいえ翻訳家は他の仕事と兼業で働く人も多い仕事だから、年収ベースだと一概には言えないけど。
「でも冬爾さん程では」
「いや冬爾さんはこう見えて資格持ってるだけのただの会社員なんで」
「社会保険に入ってるだけで勝ち組だよ」
「勝ち組のレベル低いな」
バイトでも入れんだろ、と笑いながら、冬爾は私の頬や首筋にキスをしてくる。
「今日泊まる?」
「俺んちに来たらシャンパンがあるけど」
冬爾は定期的にいいお酒やおつまみを取引先から貰って来ては、私にも施しを与えてくれるので、甘んじて享受している。
「私がそっちに泊まります」
「なら風呂入ったらまた来いよ、待ってる」
「御意」
先に部屋を出て行ったワイシャツ姿の背中を見送って、私も寝支度を済ませる。
伸びた癖毛の髪にドライヤーの温風を当てながら、髪を乾かすのが煩わしい季節になったなあなんて考えた。
部屋を出ると、お風呂上がりの清潔な汗に湿った肌を夜風が撫でて去ってゆく。
夏が深まると書く名前だった。
乱暴で身勝手で、最低なのに憎めなかった。
私はきっと、一生夏が来るたびにあの男を思い出すのだろう。
笑顔を忘れても、体温を忘れても。
彼に恋をした事実だけは、きっと忘れない。
「うお、どした?」
部屋の扉を開けてくれた冬爾の身体に抱き着くと、驚いたような声がした。
「甘えてみただけ、可愛い?」
「あと5年若かったら可愛かったかもな」
「すぐ年で脱落させる!」
面倒臭そうにしながらも、冬爾は私を引き剥がしたりはしなかった。
そんな冬爾に、私は救われていると思った。
恋人なんて関係性があっただけの昔の恋人なんかよりも、ずっと救いがある。
不透明な私たちは、傷つけ合うことがない。
どこまでも曖昧で、都合が良い。
例えばこの先、何年経っても。
冬爾の名前に冬の字があることを、いつかの冬に思い出しても。
こんなどうしようもない気持ちになることは。
きっと、ないだろう。
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