邪に、燻らせる

薫風の侯/茅花流しに吹かれ

関係が変わる前のことなんて。
正直特筆すべき点は何もない。
同じマンションの住民で、ゴミ捨て場やエントランスで何度かすれ違って挨拶をしたことがある程度で、印象という印象もなかった。
顔を見ればその人だと認識は出来るけど、何もない状態で顔を思い出せと言われたら、おそらく無理だっただろう。
本当に、人生とは不思議なものだ。
永遠に交わることはないだろうと思われた符号が、ほんの些細なきっかけで、稀に交錯したりするのだから。
「何これ、すごい量の野菜」
段ボールの中には色とりどりの野菜。
菜の花に筍、キャベツにアスパラガスと春の野菜が勢ぞろいしている。
「昨日まで実家帰ってて、押し付けられた」
今はGW休暇中だ。
私は特に暦とは関係がない仕事だけど、冬爾の方は基本的に暦通りのお休みなので、帰省していたらしい。
そして実家から持って帰ってきた野菜を捨てるわけにもいかず持て余して、私の部屋を訪ねてきたのだ。
「実家ってどこなの?」
「両親はもうこっちに住んでて今は調布の方にいるんだけど、田舎が山梨にあって、そっちで農家やってて」
「冬爾、まったく自炊しないのに?」
「何回言ってもその度にそれなら自炊するようになればいいって言われて、その相手すんのが怠くて最近もう大人しく持って帰ってる」
げんなりしたように冬爾が話す。
私はそれを横目に、段ボールの中の野菜を取り出して、傷みやすいものから順に、冷蔵庫に片づけた。
冬爾は自炊をしない。
と言うかそもそも、あまり食事を摂らない。
必要な栄養さえ補給出来ればそれでいいという考え方なので、基本的に食に対して無関心で、平気で3食カロリーメイトで済ませたりするからさすがに心配だ。
「本当に全部もらっていいの?」
「うちに置いてても腐らすだけだし」
「なら私が作るから一緒に食べようよ、早く帰れそうな時だけでいいから連絡くれたら2人分作っておくから」
「俺は助かるけどいいの?作る量倍になったら手間増えて大変なんじゃねえの?」
「そんな変わんないよ」
それにこんな立派な野菜、さすがに冬爾を差し置いて独り占めするのは気が引ける。
だけどさすがに毎日夕飯のたびに私と顔を合わせるのも鬱陶しいだろうから、気が向いた日だけ連絡をくれたら、お互いに気が楽だろう。
そう思って、提案したら。
意外なことに、それから連日、冬爾は私の部屋に夜ご飯を食べに来るようになった。
「なんか、毎日来るね?」
「え、もしかして迷惑だった?」
ダイニングテーブルを囲みながら、小松菜の煮びたしを箸で持ち上げている途中だった冬爾が焦ったように顔を上げた。
「ごめん、なんも考えてなくて」
「違う違う、そういう意味じゃなくて、私から言い出したし全然いいんだけど、毎日食べに来るの面倒じゃない?」
「面倒って、降りる階変えるだけだし」
「でも冬爾、そもそも食事好きじゃないのにこんな量食べるの嫌じゃないのかなって」
強要するつもりはないよって。
一応伝えておこうとした私に、冬爾はきょとんとして、それから笑った。
「何それ、飯は好きじゃないんじゃなくて関心がないんだよ。俺にだって味覚はあるからどうせならうまいもん食いたいけど、関心がないものに労力割きたくないだろ?でもコンビニの飯も飽きたし、っていう感じで行き着いたのがカロリーメイトなだけ」
「…もう少しマシな答えはなかったの?」
呆れた。
関心がないとは言ったって、もう少し自分を大事にしないと本気で体を壊す。
「だから正直今、俺はすげえ助かってる」
「それならいいよ、くれた野菜はもう少しでなくなるけど、これからも来たい時は食べに来たら?」
「良いの?俺、予定ない日以外毎日来るよ?」
「…そんなに来るなら食費払って」
「払う払う」
どうせ乗りかかった船だ。
こんな不摂生、見捨てておくのも夢見が悪い。
月にいくら払えばいい?と本気で毎日ご飯を食べに来る気ならしい冬爾に苦笑しつつ、適当に5万でと言えば、言い値で即決したからまじかと思った。
「嘘でしょ、貰いすぎだよ、冗談だから」
「食費ってそんなもんじゃねえの?1日2千円としてひと月で6万だから、来ない日差し引いての5万かと思ったんだけど」
さすが税理士、計算が速い。
だけどその計算だとふたりで1日4千円分もスーパーで使うことになる。
どこの富豪だ。
「その半分で十分だから」
「てか5万払うよ、作る労力も考えたら多少割増しで貰うべきだろ?」
「労力って言うけど、どうせ毎日自分の分作るんだから1人分も2人分も変わんないよ」
「でも貰ってもらわないと俺が気が引けて食べに来づらい」
「…わかったよ、細かい男ね」
「仕事柄、金のことはきっちりしたい」
冬爾の唇の端が持ち上がるのが見えた。
仕事から帰ったまま私の部屋に来る冬爾はまだスーツ姿で、だけど普段隙なく締められているネクタイはだらしなく緩んで、袖も雑にまくられている。
これはこれで悪くないな、と思った。
なんとなく気を許した相手にしか見せないような特別感があって、私は割りと好きだ。
「そういえば、お前は実家帰んなかったの?」
「今担当してる仕事の締め切りが近かったからずらしたの、来週帰る予定」
「実家どこ?」
「白金」
冬爾はあからさまに驚いた顔をした。
「ほんとにお嬢様だったの?」
「まあね、父は製薬会社の役員で、元々祖父は資産家の生まれだったから、結構な良家のお嬢様なのよこう見えて」
「翻訳家になるの反対されなかった?」
「もちろん最初は猛反対されて、大学卒業してすぐ半分家出みたいにひとり暮らしを始めたらさすがに両親が折れて、5年で芽が出なかったら父の会社に就職するって条件付きで許されたの」
「それでちゃんと結果出したわけだ」
「偉いでしょ?」
おかげさまで一時は最悪だった両親との仲も今は元通り円満で、むしろ応援してくれている。
両親にしても大事な娘がフリーランスの翻訳家なんて不安定な職に就くのが心配だったからという理由で反対していたので、ある程度の仕事量が確保されて、きちんと人間らしく暮らせるなら不満はないらしい。
「いや、本当に偉いよ」
「褒めてくれるの?珍しいね」
「俺も仕事柄フリーランスで働く人の大変さは知ってるし、軌道に乗るまでは苦労したろ?」
「でも私の場合ね、実家って後ろ盾があったから無鉄砲になれた部分もあるの。もし失敗しても父の会社で拾ってもらえるって保証があったから、正直卒業してすぐ就職しないことに不安はなかった」
「自分の持ってる武器を最大限使って夢を手に入れたんだから、それは寧子の勝ちだよ」
「…そうかな?」
そんなに褒められたら調子に乗ってしまう。
妙に恥ずかしくなりながら、誤魔化すように夕飯の肉じゃがに手を付けた。
目の前で冬爾も、少し照れ臭そうに笑った。
「冬爾の家は?どんな家族?」
「寧子んとこに比べたら普通の一般家庭で面白いことなんかなんもねえよ」
「お父様も税理士だったりするの?」
「全然、親父はメーカーの研究職でお袋がそこの生産管理。社内結婚で生まれたのが俺と弟」
「男兄弟なんだ、なんかわかるかも」
「どうせ女心わかってねえよ」
ふん、と冬爾が不満げに鼻を鳴らした。
そんなつもりで言ったわけではなかったのだけど、否定するのも億劫だったのでそのまま見ないふりをした。
「今日、仕事残ってる?」
「ん?別にもうないよ、どうして?」
「ならこっち泊ってもいい?俺明日から休み」
「あ、そっかもう金曜なのか」
洗い物をしながら冬爾と話していた私は、失念していた事実に気づいて驚いた。
今年はGWが空けたのが水曜だったから、木金と2日出社すればまた土日が来るスケジュールなのだ。
でも私の方はあまり曜日に関係ない仕事をしているので、普通にまだ火曜日のつもりでいた。
「全然いいよ、お風呂入ってまた来る?」
「そうだな、着替えたいし」
「なら鍵開けとくから勝手に出入りして」
「お前な、ちゃんと戸締りしろって散々言ってるだろ?女のひとり暮らしのくせになんでそう不用心なんだ」
「わかったってば、小姑みたい」
冬爾はこの手のことはきちんとしてる。
私が知りえる限りではあるけど、基本的に冬爾は真面目で、とてもしっかりとした自分の軸を持って生きているように見えた。
淡々としていて、でもストイックで。
なのに食事に関しては無頓着だったり、変な男だと思った。
「お嬢様育ちのくせに料理出来るんだな?」
「家出して2年くらい貧乏生活だったのよ」
お風呂上りにだらしないスウェット姿に戻った冬爾は、髪も乾かさないまま眼鏡だけかけて、ビール片手にキッチンから戻ってきた。
確かに元々お嬢様育ちで専業主婦のお母さんに身の回りの世話は何でもしてもらっていた私にとって、料理なんてバレンタインデーのチョコ作りぐらいしかしたことがなかった。
半分家出みたいに実家を出てからは、翻訳の仕事だけでは生活できなかったので、朝から夕方までは週4日でカフェでバイトをして。
部屋だって北千住の駅から徒歩で20分も掛かる家賃6万円の小さなワンルームで、築年数なんて聞くのも恐ろしい場所だった。
「その時、自炊は節約になると学んだの」
「実践に勝る訓練はなし、だな、偉い偉い」
「でしょ?もっと褒めたたえていいよ」
「調子に乗んな」
すぐに調子に乗る私をいなして、ベッドの上に腰を降ろす。
仕事用のデスクの椅子に腰掛けていた私は、それを見計らってベッドに移動し、冬爾の後ろに寝転がった。
「髪乾かしてあげよっか?」
「寧子って俺の世話焼くの好きだよな、まあ有難いけど」
「気にしないで、弟とか年下の彼氏とかいるとこんな感じなのかなって妄想に利用してるだけだから」
「年下と付き合ったことないの?」
「そうなの、同い年か年上しかなくてね」
一度起き上がって洗面所からドライヤーを持って来た私は、さらさらとした冬爾の髪に温風を当てる。
「この年になると可愛いよねえ、年下」
「そういうもん?」
「可愛いよ、若い子見てるだけで癒される」
「視姦するのやめて差し上げろ」
「してないわよ!」
失礼な、と目の前の形の良い後頭部を軽く叩いてやれば、冬爾の笑っている気配がする。
堅物に見えて、冬爾は意外と冗談好きだった。
冬爾の髪は癖のない綺麗な黒髪だ。
短髪と言うには少し長めで、でも社会人らしい清潔感のある、控えめなツーブロック。
「はい終わり、大体乾いたと思うよ」
「ありがとう」
コンセントから抜いたコードを本体にぐるぐると巻き付けて、洗面所に片づける。
そのついでに冷蔵庫から取り出してきたビールの栓を開けると、ぷしゅっと小気味の良い独特の開封音が響いた。
「寧子、おいで」
部屋に戻ると冬爾がベッドの上に胡坐をかきながら軽く右腕を伸ばして、私を懐に招き入れてくれる。
「くっついてると暑い季節になってきたね」
「もう夏間近って感じだよな」
「私は基本部屋から出ないからいいけど、冬爾は外回りも多いから夏は大変でしょ?」
「社長相手にクールビズって訳にもいかねえからなあ、スーツなんて概念考えた奴殴りたい」
「でもスーツ似合ってるよ、格好良い」
「寧子って結構俺の見た目タイプなんだろ?」
悪戯っぽく首筋を噛まれる。
ビールに湿った歯が肌に柔く食い込むのを感じながら、反論のない私は笑って頷いた。
「バレてた?」
「典型的な『出来る男』みたいな恰好してる男が好きなんだろ?スーツとか眼鏡とか、安直だよなあ」
「何よ、自分だってそこ路線狙ってるくせに」
「俺はクライアントの信頼獲得に有利な第一印象を常に心掛けた結果、この見た目に行き着いたってだけ」
「とか言って、その辺で女の子引っ掛けるのにも使うくせに。やーいむっつりスケベ」
「まあ稀にマンションの前で酔った女が勝手に網に掛かったりはするけど?」
「誰のことかしら?」
「忘れたなら思い出させてやろうか?」
濡れた唇は、ひんやりとしている。
啄ばむように何度か弾んで、ゆっくりと口の中に入り込んできた舌先が、私のそれを絡めて遊んでいるようだ。
まだちっとも生々しくなくて、どこか潔癖なくらい抑制が効いた、握手みたいな感覚に近いキス。
冬爾のキスは丁寧で優しい。
だけど、セックスの最中だけは別だった。
まるで別人みたいに乱暴でぞんざいなキスをされて、その倒錯的な変化に翻弄されるのが、私は好きだった。
「くすぐったいよ、冬爾」
「寧子って引きこもりのくせして全然肉付かねえよなあ、体質?」
私の腰を触りながら冬爾が首を傾げる。
「そう?これでも昔より太ったんだけど」
「俺もうちょいふにゃっとした体型のが好きなんだけど、抱き心地良くって」
「なら抱き枕変えたら?」
「俺いなくなったら寧子が寂しがるから」
「それは正直寂しい」
冬爾がいなくなったら、私はすごく寂しい。
残念ながら私には今、こんな風に構ってくれる男の人は冬爾しかいないし、なんなら普通の話し相手すらいない。
翻訳の仕事は在宅で働くから打ち合わせの時以外は外に出掛けないし、誰とも話さないから、まず人と喋る機会が極端に少ないのだ。
それに冬爾とはこんな風に抱き合ったり、恋人の真似事みたいなこともするけど、普通に話をしている時はただの友人みたいな感覚で。
判然としたものは何もない曖昧で不確かな今のこの関係に、私は自分でも驚くくらいになんの不満もなかった。
「友達いないもんな、寧子」
「だから疎遠なだけでいるんだってば、女の友情は難しいの、男のそれと一緒にしないでくれる?」
「寧子は結婚願望ないの」
「昔はあったんだけどねえ、最近ときめくのも面倒臭いんだよね」
「うわあ、今のすげえ枯れた発言」
そんな悲しいこと言うなよ、と冬爾が渋い顔をする。
「一人でも特に不便がないしねえ」
「普通に生活成り立つもんな、今の時代」
「まあ冬爾に彼女が出来たら考えるよ、多分そしたら寂しさに突き動かされる気がする」
「寧子の原動力ってそこなの?」
「寂しいって人間が一番苦手な感情だもの」
悲しいとか苦しいとかって感情は、時間を掛けて気持ちの整理さえつけることができれば、終わりが来る。
だけど、寂しさには際限がない。
寂しさは自分の中で整理をつけられる感情の類ではないから、それを埋めるものを見つけられるまでは永遠に続く地獄だ。
その地獄に入り込んだら。
さすがに私も、何か探し始めるだろう。
「寧子の考察って面白いから好き」
「ほんと?そう言ってもらえると翻訳家冥利に尽きます、ありがとう」
「確かに寂しいって感情は自分じゃどうしようもねえもんな、ところで寧子、そろそろお喋りは終わりにしませんか」
「私はもう少し喋りたいなあ、孤独だから」
「俺はセックスがしたい」
随分と大胆な台詞をさらりと言って、冬爾はパジャマの襟元から順にボタンを外してゆく。
どうせこうなるとわかっていたので、お風呂上りに下着をつけなかった私は、パジャマを脱がされたら何も身を守るものがない。
「私の身体が目当てなんだ」
「そんなのお互い様だろーが、しかもそういう青臭い台詞は若い女の専売特許だぜ」
「どうせ若くないわよ」
「大丈夫だ、見た目は童顔だから」
私の容姿を冬爾はいつも色気がないと揶揄う。
丸顔の童顔である自覚はあるけど、そこに関しては私もコンプレックスに思っているのだから指摘しないでほしい。
冬爾は裸になった私の上半身にそっと唇を滑らせながら、ベッドの上にうつ伏せになるように転がして、髪留めを取り払う。
ヘッドボードにそれと一緒に眼鏡をぞんざいに放り投げたのが見えて、普段と違う乱暴さに心臓が鳴った。
普段の冬爾は、言葉遣いこそあまりお上品とは言えないけど、基本的には私を大事に扱ってくれていることがわかる。
それは私が冬爾にとって大切な存在だからとかではなく、単純に人が関わる上での最低限の礼節をきちんと弁えているだけ。
だけど、抱き合う時だけは違う。
普段の抑圧された理性的でお堅い冬爾が、この時だけは本能に従って、劣情の赴くままに私を貪る。
異論も反論も認めず、ただ独善に徹し、なのに私を屈服させるために広い視野と冴えた思考を保つ冬爾は、正直憎たらしいほど私の嗜好に刺さった。
単純に、相性が良い。
何度抱かれても飽きが来なくて、まるでセックスを覚えたてのティーンエイジャーみたいだと思った。
「――ッ、ぁ、っ…冬爾、もう…」
「うん、挿れような」
冬爾の綺麗な歯が、避妊具のパッケージを雑に破る。
「俺、結構仕事でストレス溜まってて、ぶつけちゃっていい?」
「…締め切りはもう少し先だから」
「なら安心して責めれる」
私は行為をしている間は、頭がおかしくなるくらい身勝手に扱われるのが好きだ。
めちゃくちゃに焦らされて責められて、泣きながら相手に縋って、それでもまだすげなくされるくらいでちょうどいい。
人間のこういう嗜好は、先天的に持って生まれてくるものなのだろうか?
それとも後天的に備わるのだろうか?
「考え事?随分余裕だな」
「え、あっ、待―――…っ…!」
背中を向かされて、いきなり奥まで腰を打ち付けられる。
元々慣らされて濡れていたそこは、いとも容易く冬爾の昂ぶりを受け入れて、途端に甘い毒に蝕まれてゆく。
自分の意志とは関係なく唇から漏れ出す猫なで声は、男に媚びるために生み出されたかのような扇情を孕んでいる。
ゆっくりと揺らすように奥を刺激されると、官能的な震えが体の奥底から広がり、私はシーツを握りしめた。
相変わらず、腹立つくらい上手いな、この男。
今まで何人抱いてきたんだか。
私だって、それなりに経験はある。
激しいことが正義だと思ってる男も、優しさゆえに物足りない男も、それなりに相性が良いと思っていた男もいたけど。
全部上書いて、かき消されるくらいに、良い。
女の身体がどうすれば溶けるのかを熟知しているような冬爾の手練手管に、私はあっさりと転がされている。
多分これは、経験値の差なんだと思う。
結局男の夜の技術なんて、実践以外で身に付くわけもなく、所詮は抱いてきた女の数と、その時々の質が物を言うのだろう。
「寧子、まだ音を上げるのは早いって」
「…この遅漏」
「言っとくけどまだそんな時間経ってないからな?お前がイキ過ぎなんだって」
誰のせいだ、と思った。
でもそれを声にするよりも先に、私の身体を横に向かせて、片足を自分の肩に掛けた冬爾が、一度抜いたそれをまた挿入する。
とんとん、と奥を先で軽くノックするみたいなそれは激しいわけじゃないのに、目の前に星が散るみたいに感じた。
こめかみを流れる涙は生理的な現象か、それとも本能的な警鐘だろうか?
ただ不確かな中で唯一確かなことは、その涙を指で掬う男の表情が、どこまでも嗜虐に満ちていたことだけだ。
「昨日、私っていつ寝た?」
目覚めると隣で冬爾が煙草を吸っていた。
カーテンの隙間からちらちらと差し込む陽光が眩しくて、枕に顔を埋めながら唸る。
「最後一緒にイったあと意識飛ばしてた」
「そこまでしていいって言ってない」
「泣いて善がってたくせに」
「冬爾の馬鹿、変態、ヤリチン、すけこまし」
「はいはい」
俺が悪うございました、と悪びれる様子もなく煙を吐く。
その目は窓の外をぼんやりと眺めていた。
眼鏡を掛けた横顔からは、もう昨日の夜の加虐性は消えて、いつも通りの涼しげな男前だ。
まぬけな寝癖が後頭部にはついていて、鼻の下と顎の一部にだけ、薄っすらと無精髭が生えてきているのが見えた。
「喉乾いた、心なしか腰も重い」
「お水をどうぞ、腰もさすりましょうか?」
「そうして下さる?」
床に置かれていたペットボトルを取り上げて渡してくる冬爾の手からそれを抜き取って、喉を潤す。
伏せて寝る私の腰を冬爾は適当にさすった。
「心がこもってない」
「真心しかこめてないって、ちゃんと感じて」
何それ、全然感じない。
枕の上に頬杖を突きながら、ふと何気なく冬爾の口から煙草を抜き取って、吸ってみた。
「うえ、おっも」
「普段メンソールなんか吸ってっからだろ?あんなの煙草じゃない」
「赤マルなんか今時大学生しか吸ってるの見たことないわ、なんかマルボロって他の銘柄より不健康そうなイメージあるのよね」
「めちゃくちゃ偏見じゃねえか、煙草なんか全部身体に悪いわ」
まあそうだけど、と煙草を返す。
床に落ちたままにしていた下着を拾って身に付けながら、部屋着用のタオル地のワンピースを頭から被った。
「いい天気ね、どこか出掛けないの?」
「夜は出掛けるよ、まあただの接待だけど」
「休日まで仕事してるわけ?」
「人脈は作っといて損ねえからな、そんなこと言うお前は出掛けねえの?」
「私は今日は仕事しなくちゃ」
そもそも、私の場合は休日という概念がない。
締め切りさえ無事にクリアできれば、毎日何時間、週に何日働こうと私の自由だ。
「個人事業主の良い部分であり悪い部分だな」
「まあ自分次第でホワイト企業にもブラック企業にもなるわね」
「あ、だから今日は晩飯大丈夫だわ」
「了解」
換気のために開けた窓から、柔らかな薫風が吹き込んでくる。
気持ちのいい朝だった。
昨日の夜、あんな風にどろどろの甘い毒で溶かされた体の細胞から、するんと毒素が抜けてゆくみたいだ。
「洗濯日和だわ」
「だろ、そう思って昨日汚しといた」
「下品な奴」
灰皿に煙草をこすりつけている冬爾を睨んだ。
皐月の風は、もう随分と温かい。
怠惰に起き上がってきた冬爾が自分の部屋に帰ると言うのを見送ってから。
私は汚れたベッドシーツを、綺麗なものと取り換えた。
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