邪に、燻らせる
初雁の候/葉は紅に染まり
昔から得意な方なんだ。
割り切る、って作業は。
子どもの頃から損得勘定で物事を判断するのが癖づいていて、なんでって言われると明確な理由は見当たらないけど。
仕事における判断基準も結局はメリットとデメリットを比較して、自分にとってよりメリットの大きい方を常に選択してきた。
但しそこに感情を差し挟むと、途端に判断力が鈍る。
だから割り切りが大事なんだ。
「俺さあ、結婚するわ」
騒がしい土曜日の居酒屋。
テーブルに向かい合って座った弟の怜爾が、唐突にそんな報告をしてきたので、ビールを飲む手が止まった。
「え、結婚?あの付き合ってた彼女と?」
「出来ちゃいまして」
「迂闊かよ」
まじか、と一旦ジョッキをテーブルに置く。
「親父とお袋に言った?」
「実はまだなんだよなあ、お袋は結構デキ婚とか気にするタイプじゃん?」
「それで俺に調整役頼みたいわけだな」
「さっすが兄貴わかってるう!」
昔から考えなしで調子が良い弟は、その分誰からでも可愛がられる性質の持ち主だった。
とはいえ恋愛周りの話には意外と生真面目な価値観を持っている弟だったので、いずれこういう日も来るだろうとは思っていたけれど。
「俺、そのうちおじさんとか呼ばれんのか」
「なになに、感慨深い?」
「なんか一気に老けた感じするわ」
結構衝撃あるもんだな、なんて考えた。
俺はビールを煽ってから、突き出しで出てきたきんぴらを口に運ぶ。
「そんで兄貴の方はどうなの?」
「怜爾がするからって俺も、ってわけにはいかねえだろそんなもん」
「でも俺が結婚したらさあ、絶対お袋が次は兄貴もって目ぇキラキラさせて期待するぜ」
「怜爾、結婚すんのやめとけよ」
「最低の兄貴だな」
祝福しろや!と怜爾が枝豆を投げつけてくる。
俺は仕方なく適当な祝福を述べた。
「兄貴は昔っからモテるくせにいっつも彼女と続かねえんだよなあ、なんで?」
「んなもん俺が聞きたい」
「でもちょっと前に長い彼女いたじゃん」
「あー…あれなあ」
怜爾が不思議そうに俺を見た。
俺はそれに苦笑しながら、あのパーティーの後の職場での会話まで、記憶を巻き戻した。
『週末はデートだったの?』
昼休みにわざわざ俺のオフィスを訪ねてきた紗里が、どこか皮肉ぶって微笑んだ。
『だから単なる付き合いだって』
『でも一緒にいたあの人、ふわっと柔らかい感じの美人で冬爾のタイプど真ん中でしょ?』
『顔も中身もタイプだよ、紗里と違って素直で可愛いし話も面白いし』
『何よ、ちゃっかり狙ってるんじゃない』
『でもそういうんじゃない』
寧子との関係はお互いにとっての都合の良さやストレスを溜めないことが最優先で、だから明確な関係性を示す言葉なんて持ち合わせていなかった。
俗に言えばセフレとかそういう呼称になるのかもしれないけど、なんとなくそれもしっくりと来ない。
そして今さら関係性の曖昧さに傷つくような歳でもない俺たちにとって、そこに名前がないことなんて、とても些末なことだった。
『紗里には関係ねえだろ、そんなこと聞きにわざわざ来たのかよ?』
『違うわよ』
『だったら何の用?』
紗里が心外そうに眉を顰めた。
午後からのアポイントに必要な資料を整理しながら、俺はその片手間で、紗里の言葉の続きを待っていた。
『私ね、プロポーズされたの』
だから少し、反応が遅れた。
『…え、もしかしてこの前一緒にいた人?』
『そうよ、あの後すぐにね』
『はぁー…、そっか、それは良かったな』
おめでとう、と当たり障りのない祝福を贈る。
昔の彼女から婚約報告を受けたのは人生で初めてのことだったが、こういう時はシンプルに祝福するのが妥当なんだろうか。
『付き合ってる男いたんだな』
『もう1年よ、本当に冬爾って私のことに興味持たないわよね昔から』
『そんなことはないだろ、それに未だに昔の男から興味持たれても紗里だって迷惑だろ』
『冬爾って、相変わらず的外れ』
『は?』
紗里の猫目が俺を見つめた。
それは付き合っていたあの頃、何か爆弾を落とす前にしていたそれと、同じくらいに向こう見ずな熱量の瞳。
『私は冬爾に、「他の男のところになんて行くな」って言ってほしいのよ』
紗里は素直じゃない女だった。
そのくせ自分の押し通したい主張に関してはストレートに曝け出すから、いつも俺は逃げ道を塞がれた。
勘弁してくれ、と思った。
この期に及んでまだ、紗里は俺を責めるのか。
『…何言ってんだよ、彼氏泣くぞ』
『泣かれてもいいわよ、それで冬爾が手に入るなら彼には土下座でもなんでもする』
『そもそも、あの時お前が』
『あの時も冬爾に「別れたくない」って言って欲しくて、でもその賭けに負けて、なのにまだこんなこと言ってるの』
馬鹿でしょ?と紗里は俯いた。
その肩が震えているのが見えて、俺はオフィスを囲む仕切りガラスを、咄嗟に曇りガラスに変えた。
相変わらず紗里は泣き虫だった。
そして紗里を泣かせる張本人は、いつだって俺だった。
思えばあの頃から俺は、いつだって仕事優先で紗里に寂しい思いばかりさせていた。
同じ仕事なんだからわかるだろって物分かりの良い紗里に甘えて、紗里が俺と向き合おうとする度に仕事を言い訳にして逃げた。
俺は多分、とても狡いんだ。
相手には最大限のものを差し出させようとするくせして、自分は何も返さない。
強欲で利己的で、感情より先に損得勘定が働くような狡獪な人間で、誰かを幸せにできるような器なんか、持ち合わせていないんだ。
『…こんな時まで冷静なところが腹立つのよ』
『悪かったな、冷たい男で』
『冬爾』
紗里の綺麗なネイルに彩られた手が、俺の腕を掴んだ。
濡れた瞳は、俺の答えを催促している。
『…悪い』
俺は紗里の手を、そっと解いた。
すべてを悟ったように微笑んだ紗里は、ため息をついて涙を拭った。
『そう言うと思ったわ、冬爾は』
『…俺なんかやめといた方が賢明だよ』
『いいの、こういう賭けに負けるのは2度目だから多少は耐性あるのよ』
あーあ、と紗里がうんざりしたように呟く。
俺が差し出したハンカチを受け取って、『涙が引くまでここにいさせてね』とソファーに腰掛けた。
『結婚式はちゃんと出席してよね』
『え、俺も呼ぶの?まじ?』
『職場の人みんな呼ぶのに冬爾だけ呼ばないなんて変でしょう、なんかあったと思われるの嫌だからね』
『それはそうだけど、お前の誓いのキスとか俺どんな気持ちで見ればいいわけ』
『精々複雑な気持ちで見てなさいよ』
ふふ、と紗里がいつもの勝気な調子で笑う。
俺はそれを横目に見ながら、スリープ状態になっていたパソコンのキーボードを叩いて、デスクに座り直した。
『なあ紗里』
『んー?』
『ちゃんと幸せにしてもらえよ』
振り返った紗里は、あからさまに呆れたような視線を俺に投げかけて。
『そういうところが的外れなのよ』
馬鹿じゃないの、と悪態をついた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
兄弟でそんなだらだらと長酒するほどの話題もなく、さっさと怜爾と別れた俺は、寧子の部屋を訪ねた。
コンビニで適当に調達してきた酒を賄賂に渡せば、寧子は仕方ないなあと言いながらも快く部屋に上げてくれる。
「弟さん結婚するの」
それはおめでたいね、と風呂上がりの寧子が髪を拭きながら言った。
「デキ婚だってさ」
「まあ今時珍しくもないし、どうせするつもりだったなら良いきっかけじゃない?」
「弟に先越されると兄貴は色々辛いんだよ」
「それは私はわからないけど」
暑いと言って寧子が開けた窓から吹き込む風はもう冷たく、秋の終わりを告げていた。
寧子が顔に色々塗ったり髪を乾かしたりしているのを見ながら、俺はビールで愚痴を吐く。
「母親が色めき立つんだよ、次はお兄ちゃんの番ねとか言って、あの世代の人間って結局まだ結婚して当たり前っていう固定観念が抜けねえよな」
「初期教育は何よりも強し、だから」
「寧子はもう見合いしねえの」
「話は山ほどあるわよ、内閣官房とかね」
相変わらず、白金育ちのお嬢様の見合い相手はレベルが高くて感心する。
とはいえ仕事が忙しいからと断り続けているらしい寧子の方も、両親からの過度の期待には辟易しているようだった。
「お互い親に将来心配される歳か」
「でも弟さんがちょっと早めなだけで、冬爾の歳の男の人で独身なんて普通じゃない?」
「でも最近感じるよ、結婚ラッシュってやつ」
「それは絶対女の方が顕著だから」
三十路を前にご祝儀で破産しそう!なんて寧子は言っているけど、この女が破産しそうなのはこれまで買い漁ったブランド品のせいだ。
「寧子の家の婿になろうかな、まじで」
「流行りの契約結婚ね」
「どこで流行ってんだよ、そんなもん」
「ハーレクイン小説の中とかで割りと」
軽く笑った寧子は、ベッドに腰掛けていた俺のビールを奪っていった。
「乙女チックですね」
「お見合い結婚が嫌だからって他の男と偽装結婚するの、本末転倒よね?」
「貞操を守りたいんじゃねえの?」
「それが守れてる話をまず見たことないのよ」
「なら本末転倒だわ」
寧子は俺にビールを返して、隣に腰を降ろす。
そのまま足を組んで、煙草を吸う。
どちらかと言えば童顔で、化粧をしなければ可愛らしい顔立ちの寧子が煙草を吸う姿は、最初少し違和感があった。
だから、昔の男の影響だろうなと思っていた。
予想だけど、多分直近の男の。
「最近ずっと思ってたけどこの石なに?」
「オーストラリア土産」
「なんの石?」
「サファイアの原石だって」
無造作にヘッドボードの上に転がっていた武骨な石を持ち上げて眺める。
なんでわざわざ原石で?と思った。
「趣味の悪いお土産だと思わない?」
「どうせなら加工した石くれたらいいのにな」
「そういうところに全然気が回らない奴なんだよね、昔から」
「それってもしかして元カレ?」
「ビンゴ」
煙草をくわえたまま俺から石を取り上げた寧子は、可笑しそうに笑っていた。
「この前2年振りとかに会ったの」
「へえ、そうだったんだ」
「撮影旅行で世界一周とかしてたんだけど最近帰国して、ほらあの写真集の出版とかもあったからだと思うんだけど」
「あんな話題書のとこに平積みされるってことは、結構有名な人なんじゃねえの?」
「そうらしいね」
よく知らないけど、と寧子が石を返してくる。
俺はそれを元の場所に置き直して、代わりに煙草の箱を持ち上げた。
あの日、本屋で見た寧子の顔が頭に浮かんだ。
泣きそうな顔で笑った、寧子の顔。
本を持つ手が震えていた。
『私は直近に付き合ってた彼かな、人生で1番好きだったと思う、多分この先もずっと』
どんな男だろう、と思った。
そんな風に、寧子が好きだったという男は。
そして意識すると、きっとその男の影響なんだろうなと思うような寧子の癖や習慣が目に付くようになった。
例えば世界の絶景系のテレビを全部予約していたり、ルールも知らないサッカーの選手名だけ知っていたり、漫画なんか読まないくせにスラダンだけは全巻読破していたり。
そういうものを見つけるたびに、寧子はどんな風にその男と過ごしていたんだろうと考えた。
「人生で1番、か…」
「え?」
何か言った?と寧子が首を傾げた。
それを適当に頭を撫でていなすと、寧子は不思議そうに俺を見つめている。
人生で1番で、この先誰も越えられない。
そんな風に思う相手、俺にはいなかった。
紗里とは唯一長く付き合って、結婚する未来も想像してみたことはあったけど、結局それも俺の身勝手で壊れた。
最後にあんな風に紗里からまっすぐにぶつかられても、俺は自分の生き方や考え方を変える気にはならなかった。
「寧子、俺と結婚する?」
俺はぞんざいに煙草の煙を吐き出した。
そして隣にいた寧子に覆いかぶさるようにしてベッドの上に押し倒す。
「いいよ、冬爾なら親も喜ぶだろうし」
「身体の相性もいいし?」
「それも大事」
煙草を灰皿に捨てて、眼鏡を外した。
寧子のパジャマの裾から手を入れると、石鹸の清潔な香りが鼻先をくすぐった。
「感情以外は全部持ってんのにな、俺ら」
曖昧で、不鮮明で。
でも途方もなく都合が良くて。
そこには俺と寧子を満足させる全部が詰まっていた。
俺を見上げた寧子が、一瞬言葉を詰まらせた。
そして困ったように微笑む。
「…そう、かもしれないね」
お互い何かを約束したわけじゃない。
だけど暗黙の了解の内に、この満たされた関係の中に、甘やかな感情を注ぐことだけがタブーだった。
寧子の白い肌に指を滑らせる。
風呂上がりのほんのり上気した肌は、まるで男を誘うような色香を放っていた。
弱い場所を責めると、寧子は甘い声で啼く。
胸の先が淫らに尖っていた。
「寧子、今日めちゃくちゃにシていい?」
避妊具を雑に歯で破りながら寧子に尋ねると、濡れた大きな瞳は、怯えと期待の間で揺れて。
でも、と寧子が躊躇いがちに開いた口を。
強引に穿った昂ぶりで遮った。
「悪い、なんか加減すんの無理そうだから今日は俺に付き合って」
「――ッ、冬爾、や、―…!」
寧子のことは、もう数えきれないほど抱いた。
どこをどうすればお喋りな寧子がまともに口も利けなくなって、俺に屈服するか、もう知り尽くしてる。
寧子の細い指先が俺の手を掴む。
まるで親に縋る子供のように、必死で握られた手を、俺はシーツに縫い付けた。
健気に俺の昂ぶりに絡みついて締め付ける寧子の中心は、力任せに突き上げるよりも緩慢に上壁を擦った方が淫靡に乱れる。
誰よりも美しい日本語を知っているはずの寧子が、俺に抱かれてばらばらと言葉を瓦解させてゆく様は実に扇情的だった。
寧子の身体が、昇り詰めるように痙攣する。
何度もそれを繰り返す度に、その間隔がどんどん短くなって、壊れたみたいに涙を流した寧子は俺に何か言っていた。
だけど。
「何言ってるかわかんねえよ」
その夜は結局寧子が事切れるまで、俺は猿みたいに責めるのをやめなかった。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「なんで今の奥さんと結婚決めたんすか?」
喫煙所で偶然会った矢吹がいつも通り奥さんの愚痴を言うのを聞きながら、ふと疑問に思って尋ねた。
「えー?まあタイミングかなあ」
「みんな言いますよねそれ」
「うちの場合は奥さん1個年上で、もう三十なんだけどって圧凄くて、でも奥さんと別れて他の女とまたイチからって労力考えたら途方もねえし、もう潮時かなって…」
「すげえ苦渋の決断に聞こえるんですけど」
「本音言えばもうちょい遊びたかったよ…」
矢吹が疲れたように煙を吐く。
「鷹はその点もう散々遊んだから十分だろ」
「そんな記憶はございませんねえ」
「嘘言え、合コンで毎回俺が狙った女の子掻っ攫って行きやがったのどこのどいつだ」
「いや俺ちゃんと矢吹さんに譲ったでしょ」
「譲られると一気にやる気が失せんだよ!」
後輩に譲られる俺の気持ちがわかるか!と喚く矢吹に、じゃあどうすればよかったんだよと心の中で言い返した。
まだ矢吹が結婚前はちょこちょこそういう遊びも共にした仲だったが、遊びに忖度が挟まると途端に面倒臭くなるということを、社会人になって初めて知った。
「だから話戻すとだな、もうそんな欲もないならそろそろ身固めてもいいとは思う」
「確かに今さらそんな欲はもうないっすね」
「1度決めちゃえば楽ではあるぜ」
既婚者の重みを感じる言葉だった。
喫煙所のガラス越しに見える外の景色は、そろそろ秋深く木々が紅葉をはじめ、本格的な冬に備えているようだ。
「鷹も結婚とか考えてんの?」
「いや弟が今度結婚することになったんでまあ少しは考えないとなあと思って」
「鷹の場合その気になれば結婚したいって女いくらでもいんだろ、モテる男は選びたい放題でいいよなあ」
「俺モテないっすよ、女心とかわかんねえし」
「女心は俺もわからんマジで」
互いに煙草を灰皿に捨てた俺と矢吹は、エレベーターに乗ってオフィスのある階まで降りて別れた。
自室のオフィスに戻ると、中にアシスタントの姿があり、俺の気配に振り返る。
「あ、鷹司さん、良かった戻られて」
「ごめん煙草吸ってて、なんかあった?」
「代表がなるべく早く来てほしいと仰ってたので呼びに来たんですが、すぐに行けますか?」
「了解、すぐ行くよ」
オフィスに戻ろうとしていた踵を返して、代表室のある2階のフロアまで階段を上がった。
フロアにはアシスタントや事務員たちの座っているデスクが並んでおり、そこを抜けた最奥に代表室がある。
「おお、悪いな急に呼び出して」
「いえ大丈夫です、何かありましたか?」
「まあ少し長くなるから、ちょっとそこに掛けて待っててくれ」
勧められるまま、俺はソファーに腰掛けた。
代表は傍にあるコーヒーメーカーで2人分のコーヒーを淹れてくれて、そのひとつを俺の前に置いた。
普段ならまずあり得ない代表の心遣いに、少し警戒する。
急に何だ、この丁重なおもてなしは。
白髪交じりの髪をざっと潔くオールバックにして、質の良いスーツを身に纏った代表は、来年には還暦のはずだ。
年々変わる法律改正に伴って、税理士は日々新たな知識をアップデートし続けなければいけない中で、この年まで第一線で活躍し続けている代表のことは尊敬している。
「単刀直入に言うとまあ、異動だ」
脚を組んだ代表が、本当に単刀直入に切り出したので、俺は静かに顎を引いた。
「…異動ですか?微妙な時期ですね」
「福岡支社の責任者をしてくれてる河西くんがいるだろう?彼がこの3月末で独立を考えてると言ってきてね」
「なるほど、まあ年齢的にも経験的にもちょうどいい時期ではありますよね」
「で、クライアントの引継ぎなんかも考えれば年明けには後任を向こうに派遣する必要があるんだが…」
「その後任が私ですか」
代表がにっこりと相好を崩した。
柔らかくも、どこか有無を言わせない雰囲気のその微笑を見据える。
「鷹司くんさえ了承してくれるなら」
「断る理由がありません」
答えなど、最初から決まっていた。
現時点での俺の人生における第一優先事項は仕事で、そこで与えられた出世のチャンスを自ら断つ理由などない。
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
「私を選んで下さった代表のご期待に沿えるよう、精一杯努めます」
「ああ、やはり君が適任だ」
その後はざっと今後のスケジュールや取り急ぎの要注意事項だけ共有いただいて、詳しい話はまた河西も含めて後日詰めることになった。
代表室を辞して自室のオフィスに戻ると、俺は身に纏っていた緊張を解いて、デスクにどかりと身体を沈める。
栄転だった。
数年向こうで支社責任者として勤めれば、その後はまたこっちに戻って、今よりもずっと裁量の大きい仕事が出来るだろう。
今のところ独立する意思がない俺にとって、この事務所内での出世が最も重要だった。
そこに続くルート上で自分の駒が一つ進んだ。
その達成感に、俺は静かに高揚した。
「福岡か」
福岡支社は博多にある。
少なくとも数年間は東京を離れるとこになるだろう。
とはいえ残して行く者もない気楽な独身者の俺にとっては、大した問題じゃなかった。
引っ越しは多少面倒ではあるけど、この際色々処分して、身軽になって新天地に臨むのも悪くないと思った。
割り切るのは昔から得意だ。
感情は差し挟まず、損得勘定で判断する。
今までだってそうしてきたし、今後もそのスタンスを変えるつもりはない。
それに、東京に後ろ髪を引かれるものなんて。
最初から何もないはずなんだ。
割り切る、って作業は。
子どもの頃から損得勘定で物事を判断するのが癖づいていて、なんでって言われると明確な理由は見当たらないけど。
仕事における判断基準も結局はメリットとデメリットを比較して、自分にとってよりメリットの大きい方を常に選択してきた。
但しそこに感情を差し挟むと、途端に判断力が鈍る。
だから割り切りが大事なんだ。
「俺さあ、結婚するわ」
騒がしい土曜日の居酒屋。
テーブルに向かい合って座った弟の怜爾が、唐突にそんな報告をしてきたので、ビールを飲む手が止まった。
「え、結婚?あの付き合ってた彼女と?」
「出来ちゃいまして」
「迂闊かよ」
まじか、と一旦ジョッキをテーブルに置く。
「親父とお袋に言った?」
「実はまだなんだよなあ、お袋は結構デキ婚とか気にするタイプじゃん?」
「それで俺に調整役頼みたいわけだな」
「さっすが兄貴わかってるう!」
昔から考えなしで調子が良い弟は、その分誰からでも可愛がられる性質の持ち主だった。
とはいえ恋愛周りの話には意外と生真面目な価値観を持っている弟だったので、いずれこういう日も来るだろうとは思っていたけれど。
「俺、そのうちおじさんとか呼ばれんのか」
「なになに、感慨深い?」
「なんか一気に老けた感じするわ」
結構衝撃あるもんだな、なんて考えた。
俺はビールを煽ってから、突き出しで出てきたきんぴらを口に運ぶ。
「そんで兄貴の方はどうなの?」
「怜爾がするからって俺も、ってわけにはいかねえだろそんなもん」
「でも俺が結婚したらさあ、絶対お袋が次は兄貴もって目ぇキラキラさせて期待するぜ」
「怜爾、結婚すんのやめとけよ」
「最低の兄貴だな」
祝福しろや!と怜爾が枝豆を投げつけてくる。
俺は仕方なく適当な祝福を述べた。
「兄貴は昔っからモテるくせにいっつも彼女と続かねえんだよなあ、なんで?」
「んなもん俺が聞きたい」
「でもちょっと前に長い彼女いたじゃん」
「あー…あれなあ」
怜爾が不思議そうに俺を見た。
俺はそれに苦笑しながら、あのパーティーの後の職場での会話まで、記憶を巻き戻した。
『週末はデートだったの?』
昼休みにわざわざ俺のオフィスを訪ねてきた紗里が、どこか皮肉ぶって微笑んだ。
『だから単なる付き合いだって』
『でも一緒にいたあの人、ふわっと柔らかい感じの美人で冬爾のタイプど真ん中でしょ?』
『顔も中身もタイプだよ、紗里と違って素直で可愛いし話も面白いし』
『何よ、ちゃっかり狙ってるんじゃない』
『でもそういうんじゃない』
寧子との関係はお互いにとっての都合の良さやストレスを溜めないことが最優先で、だから明確な関係性を示す言葉なんて持ち合わせていなかった。
俗に言えばセフレとかそういう呼称になるのかもしれないけど、なんとなくそれもしっくりと来ない。
そして今さら関係性の曖昧さに傷つくような歳でもない俺たちにとって、そこに名前がないことなんて、とても些末なことだった。
『紗里には関係ねえだろ、そんなこと聞きにわざわざ来たのかよ?』
『違うわよ』
『だったら何の用?』
紗里が心外そうに眉を顰めた。
午後からのアポイントに必要な資料を整理しながら、俺はその片手間で、紗里の言葉の続きを待っていた。
『私ね、プロポーズされたの』
だから少し、反応が遅れた。
『…え、もしかしてこの前一緒にいた人?』
『そうよ、あの後すぐにね』
『はぁー…、そっか、それは良かったな』
おめでとう、と当たり障りのない祝福を贈る。
昔の彼女から婚約報告を受けたのは人生で初めてのことだったが、こういう時はシンプルに祝福するのが妥当なんだろうか。
『付き合ってる男いたんだな』
『もう1年よ、本当に冬爾って私のことに興味持たないわよね昔から』
『そんなことはないだろ、それに未だに昔の男から興味持たれても紗里だって迷惑だろ』
『冬爾って、相変わらず的外れ』
『は?』
紗里の猫目が俺を見つめた。
それは付き合っていたあの頃、何か爆弾を落とす前にしていたそれと、同じくらいに向こう見ずな熱量の瞳。
『私は冬爾に、「他の男のところになんて行くな」って言ってほしいのよ』
紗里は素直じゃない女だった。
そのくせ自分の押し通したい主張に関してはストレートに曝け出すから、いつも俺は逃げ道を塞がれた。
勘弁してくれ、と思った。
この期に及んでまだ、紗里は俺を責めるのか。
『…何言ってんだよ、彼氏泣くぞ』
『泣かれてもいいわよ、それで冬爾が手に入るなら彼には土下座でもなんでもする』
『そもそも、あの時お前が』
『あの時も冬爾に「別れたくない」って言って欲しくて、でもその賭けに負けて、なのにまだこんなこと言ってるの』
馬鹿でしょ?と紗里は俯いた。
その肩が震えているのが見えて、俺はオフィスを囲む仕切りガラスを、咄嗟に曇りガラスに変えた。
相変わらず紗里は泣き虫だった。
そして紗里を泣かせる張本人は、いつだって俺だった。
思えばあの頃から俺は、いつだって仕事優先で紗里に寂しい思いばかりさせていた。
同じ仕事なんだからわかるだろって物分かりの良い紗里に甘えて、紗里が俺と向き合おうとする度に仕事を言い訳にして逃げた。
俺は多分、とても狡いんだ。
相手には最大限のものを差し出させようとするくせして、自分は何も返さない。
強欲で利己的で、感情より先に損得勘定が働くような狡獪な人間で、誰かを幸せにできるような器なんか、持ち合わせていないんだ。
『…こんな時まで冷静なところが腹立つのよ』
『悪かったな、冷たい男で』
『冬爾』
紗里の綺麗なネイルに彩られた手が、俺の腕を掴んだ。
濡れた瞳は、俺の答えを催促している。
『…悪い』
俺は紗里の手を、そっと解いた。
すべてを悟ったように微笑んだ紗里は、ため息をついて涙を拭った。
『そう言うと思ったわ、冬爾は』
『…俺なんかやめといた方が賢明だよ』
『いいの、こういう賭けに負けるのは2度目だから多少は耐性あるのよ』
あーあ、と紗里がうんざりしたように呟く。
俺が差し出したハンカチを受け取って、『涙が引くまでここにいさせてね』とソファーに腰掛けた。
『結婚式はちゃんと出席してよね』
『え、俺も呼ぶの?まじ?』
『職場の人みんな呼ぶのに冬爾だけ呼ばないなんて変でしょう、なんかあったと思われるの嫌だからね』
『それはそうだけど、お前の誓いのキスとか俺どんな気持ちで見ればいいわけ』
『精々複雑な気持ちで見てなさいよ』
ふふ、と紗里がいつもの勝気な調子で笑う。
俺はそれを横目に見ながら、スリープ状態になっていたパソコンのキーボードを叩いて、デスクに座り直した。
『なあ紗里』
『んー?』
『ちゃんと幸せにしてもらえよ』
振り返った紗里は、あからさまに呆れたような視線を俺に投げかけて。
『そういうところが的外れなのよ』
馬鹿じゃないの、と悪態をついた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
兄弟でそんなだらだらと長酒するほどの話題もなく、さっさと怜爾と別れた俺は、寧子の部屋を訪ねた。
コンビニで適当に調達してきた酒を賄賂に渡せば、寧子は仕方ないなあと言いながらも快く部屋に上げてくれる。
「弟さん結婚するの」
それはおめでたいね、と風呂上がりの寧子が髪を拭きながら言った。
「デキ婚だってさ」
「まあ今時珍しくもないし、どうせするつもりだったなら良いきっかけじゃない?」
「弟に先越されると兄貴は色々辛いんだよ」
「それは私はわからないけど」
暑いと言って寧子が開けた窓から吹き込む風はもう冷たく、秋の終わりを告げていた。
寧子が顔に色々塗ったり髪を乾かしたりしているのを見ながら、俺はビールで愚痴を吐く。
「母親が色めき立つんだよ、次はお兄ちゃんの番ねとか言って、あの世代の人間って結局まだ結婚して当たり前っていう固定観念が抜けねえよな」
「初期教育は何よりも強し、だから」
「寧子はもう見合いしねえの」
「話は山ほどあるわよ、内閣官房とかね」
相変わらず、白金育ちのお嬢様の見合い相手はレベルが高くて感心する。
とはいえ仕事が忙しいからと断り続けているらしい寧子の方も、両親からの過度の期待には辟易しているようだった。
「お互い親に将来心配される歳か」
「でも弟さんがちょっと早めなだけで、冬爾の歳の男の人で独身なんて普通じゃない?」
「でも最近感じるよ、結婚ラッシュってやつ」
「それは絶対女の方が顕著だから」
三十路を前にご祝儀で破産しそう!なんて寧子は言っているけど、この女が破産しそうなのはこれまで買い漁ったブランド品のせいだ。
「寧子の家の婿になろうかな、まじで」
「流行りの契約結婚ね」
「どこで流行ってんだよ、そんなもん」
「ハーレクイン小説の中とかで割りと」
軽く笑った寧子は、ベッドに腰掛けていた俺のビールを奪っていった。
「乙女チックですね」
「お見合い結婚が嫌だからって他の男と偽装結婚するの、本末転倒よね?」
「貞操を守りたいんじゃねえの?」
「それが守れてる話をまず見たことないのよ」
「なら本末転倒だわ」
寧子は俺にビールを返して、隣に腰を降ろす。
そのまま足を組んで、煙草を吸う。
どちらかと言えば童顔で、化粧をしなければ可愛らしい顔立ちの寧子が煙草を吸う姿は、最初少し違和感があった。
だから、昔の男の影響だろうなと思っていた。
予想だけど、多分直近の男の。
「最近ずっと思ってたけどこの石なに?」
「オーストラリア土産」
「なんの石?」
「サファイアの原石だって」
無造作にヘッドボードの上に転がっていた武骨な石を持ち上げて眺める。
なんでわざわざ原石で?と思った。
「趣味の悪いお土産だと思わない?」
「どうせなら加工した石くれたらいいのにな」
「そういうところに全然気が回らない奴なんだよね、昔から」
「それってもしかして元カレ?」
「ビンゴ」
煙草をくわえたまま俺から石を取り上げた寧子は、可笑しそうに笑っていた。
「この前2年振りとかに会ったの」
「へえ、そうだったんだ」
「撮影旅行で世界一周とかしてたんだけど最近帰国して、ほらあの写真集の出版とかもあったからだと思うんだけど」
「あんな話題書のとこに平積みされるってことは、結構有名な人なんじゃねえの?」
「そうらしいね」
よく知らないけど、と寧子が石を返してくる。
俺はそれを元の場所に置き直して、代わりに煙草の箱を持ち上げた。
あの日、本屋で見た寧子の顔が頭に浮かんだ。
泣きそうな顔で笑った、寧子の顔。
本を持つ手が震えていた。
『私は直近に付き合ってた彼かな、人生で1番好きだったと思う、多分この先もずっと』
どんな男だろう、と思った。
そんな風に、寧子が好きだったという男は。
そして意識すると、きっとその男の影響なんだろうなと思うような寧子の癖や習慣が目に付くようになった。
例えば世界の絶景系のテレビを全部予約していたり、ルールも知らないサッカーの選手名だけ知っていたり、漫画なんか読まないくせにスラダンだけは全巻読破していたり。
そういうものを見つけるたびに、寧子はどんな風にその男と過ごしていたんだろうと考えた。
「人生で1番、か…」
「え?」
何か言った?と寧子が首を傾げた。
それを適当に頭を撫でていなすと、寧子は不思議そうに俺を見つめている。
人生で1番で、この先誰も越えられない。
そんな風に思う相手、俺にはいなかった。
紗里とは唯一長く付き合って、結婚する未来も想像してみたことはあったけど、結局それも俺の身勝手で壊れた。
最後にあんな風に紗里からまっすぐにぶつかられても、俺は自分の生き方や考え方を変える気にはならなかった。
「寧子、俺と結婚する?」
俺はぞんざいに煙草の煙を吐き出した。
そして隣にいた寧子に覆いかぶさるようにしてベッドの上に押し倒す。
「いいよ、冬爾なら親も喜ぶだろうし」
「身体の相性もいいし?」
「それも大事」
煙草を灰皿に捨てて、眼鏡を外した。
寧子のパジャマの裾から手を入れると、石鹸の清潔な香りが鼻先をくすぐった。
「感情以外は全部持ってんのにな、俺ら」
曖昧で、不鮮明で。
でも途方もなく都合が良くて。
そこには俺と寧子を満足させる全部が詰まっていた。
俺を見上げた寧子が、一瞬言葉を詰まらせた。
そして困ったように微笑む。
「…そう、かもしれないね」
お互い何かを約束したわけじゃない。
だけど暗黙の了解の内に、この満たされた関係の中に、甘やかな感情を注ぐことだけがタブーだった。
寧子の白い肌に指を滑らせる。
風呂上がりのほんのり上気した肌は、まるで男を誘うような色香を放っていた。
弱い場所を責めると、寧子は甘い声で啼く。
胸の先が淫らに尖っていた。
「寧子、今日めちゃくちゃにシていい?」
避妊具を雑に歯で破りながら寧子に尋ねると、濡れた大きな瞳は、怯えと期待の間で揺れて。
でも、と寧子が躊躇いがちに開いた口を。
強引に穿った昂ぶりで遮った。
「悪い、なんか加減すんの無理そうだから今日は俺に付き合って」
「――ッ、冬爾、や、―…!」
寧子のことは、もう数えきれないほど抱いた。
どこをどうすればお喋りな寧子がまともに口も利けなくなって、俺に屈服するか、もう知り尽くしてる。
寧子の細い指先が俺の手を掴む。
まるで親に縋る子供のように、必死で握られた手を、俺はシーツに縫い付けた。
健気に俺の昂ぶりに絡みついて締め付ける寧子の中心は、力任せに突き上げるよりも緩慢に上壁を擦った方が淫靡に乱れる。
誰よりも美しい日本語を知っているはずの寧子が、俺に抱かれてばらばらと言葉を瓦解させてゆく様は実に扇情的だった。
寧子の身体が、昇り詰めるように痙攣する。
何度もそれを繰り返す度に、その間隔がどんどん短くなって、壊れたみたいに涙を流した寧子は俺に何か言っていた。
だけど。
「何言ってるかわかんねえよ」
その夜は結局寧子が事切れるまで、俺は猿みたいに責めるのをやめなかった。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「なんで今の奥さんと結婚決めたんすか?」
喫煙所で偶然会った矢吹がいつも通り奥さんの愚痴を言うのを聞きながら、ふと疑問に思って尋ねた。
「えー?まあタイミングかなあ」
「みんな言いますよねそれ」
「うちの場合は奥さん1個年上で、もう三十なんだけどって圧凄くて、でも奥さんと別れて他の女とまたイチからって労力考えたら途方もねえし、もう潮時かなって…」
「すげえ苦渋の決断に聞こえるんですけど」
「本音言えばもうちょい遊びたかったよ…」
矢吹が疲れたように煙を吐く。
「鷹はその点もう散々遊んだから十分だろ」
「そんな記憶はございませんねえ」
「嘘言え、合コンで毎回俺が狙った女の子掻っ攫って行きやがったのどこのどいつだ」
「いや俺ちゃんと矢吹さんに譲ったでしょ」
「譲られると一気にやる気が失せんだよ!」
後輩に譲られる俺の気持ちがわかるか!と喚く矢吹に、じゃあどうすればよかったんだよと心の中で言い返した。
まだ矢吹が結婚前はちょこちょこそういう遊びも共にした仲だったが、遊びに忖度が挟まると途端に面倒臭くなるということを、社会人になって初めて知った。
「だから話戻すとだな、もうそんな欲もないならそろそろ身固めてもいいとは思う」
「確かに今さらそんな欲はもうないっすね」
「1度決めちゃえば楽ではあるぜ」
既婚者の重みを感じる言葉だった。
喫煙所のガラス越しに見える外の景色は、そろそろ秋深く木々が紅葉をはじめ、本格的な冬に備えているようだ。
「鷹も結婚とか考えてんの?」
「いや弟が今度結婚することになったんでまあ少しは考えないとなあと思って」
「鷹の場合その気になれば結婚したいって女いくらでもいんだろ、モテる男は選びたい放題でいいよなあ」
「俺モテないっすよ、女心とかわかんねえし」
「女心は俺もわからんマジで」
互いに煙草を灰皿に捨てた俺と矢吹は、エレベーターに乗ってオフィスのある階まで降りて別れた。
自室のオフィスに戻ると、中にアシスタントの姿があり、俺の気配に振り返る。
「あ、鷹司さん、良かった戻られて」
「ごめん煙草吸ってて、なんかあった?」
「代表がなるべく早く来てほしいと仰ってたので呼びに来たんですが、すぐに行けますか?」
「了解、すぐ行くよ」
オフィスに戻ろうとしていた踵を返して、代表室のある2階のフロアまで階段を上がった。
フロアにはアシスタントや事務員たちの座っているデスクが並んでおり、そこを抜けた最奥に代表室がある。
「おお、悪いな急に呼び出して」
「いえ大丈夫です、何かありましたか?」
「まあ少し長くなるから、ちょっとそこに掛けて待っててくれ」
勧められるまま、俺はソファーに腰掛けた。
代表は傍にあるコーヒーメーカーで2人分のコーヒーを淹れてくれて、そのひとつを俺の前に置いた。
普段ならまずあり得ない代表の心遣いに、少し警戒する。
急に何だ、この丁重なおもてなしは。
白髪交じりの髪をざっと潔くオールバックにして、質の良いスーツを身に纏った代表は、来年には還暦のはずだ。
年々変わる法律改正に伴って、税理士は日々新たな知識をアップデートし続けなければいけない中で、この年まで第一線で活躍し続けている代表のことは尊敬している。
「単刀直入に言うとまあ、異動だ」
脚を組んだ代表が、本当に単刀直入に切り出したので、俺は静かに顎を引いた。
「…異動ですか?微妙な時期ですね」
「福岡支社の責任者をしてくれてる河西くんがいるだろう?彼がこの3月末で独立を考えてると言ってきてね」
「なるほど、まあ年齢的にも経験的にもちょうどいい時期ではありますよね」
「で、クライアントの引継ぎなんかも考えれば年明けには後任を向こうに派遣する必要があるんだが…」
「その後任が私ですか」
代表がにっこりと相好を崩した。
柔らかくも、どこか有無を言わせない雰囲気のその微笑を見据える。
「鷹司くんさえ了承してくれるなら」
「断る理由がありません」
答えなど、最初から決まっていた。
現時点での俺の人生における第一優先事項は仕事で、そこで与えられた出世のチャンスを自ら断つ理由などない。
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
「私を選んで下さった代表のご期待に沿えるよう、精一杯努めます」
「ああ、やはり君が適任だ」
その後はざっと今後のスケジュールや取り急ぎの要注意事項だけ共有いただいて、詳しい話はまた河西も含めて後日詰めることになった。
代表室を辞して自室のオフィスに戻ると、俺は身に纏っていた緊張を解いて、デスクにどかりと身体を沈める。
栄転だった。
数年向こうで支社責任者として勤めれば、その後はまたこっちに戻って、今よりもずっと裁量の大きい仕事が出来るだろう。
今のところ独立する意思がない俺にとって、この事務所内での出世が最も重要だった。
そこに続くルート上で自分の駒が一つ進んだ。
その達成感に、俺は静かに高揚した。
「福岡か」
福岡支社は博多にある。
少なくとも数年間は東京を離れるとこになるだろう。
とはいえ残して行く者もない気楽な独身者の俺にとっては、大した問題じゃなかった。
引っ越しは多少面倒ではあるけど、この際色々処分して、身軽になって新天地に臨むのも悪くないと思った。
割り切るのは昔から得意だ。
感情は差し挟まず、損得勘定で判断する。
今までだってそうしてきたし、今後もそのスタンスを変えるつもりはない。
それに、東京に後ろ髪を引かれるものなんて。
最初から何もないはずなんだ。