邪に、燻らせる

歳晩の候/淡雪に迷うは

最近どうにも、心が覚束ない気がするのは。
年の瀬のせいだろうか。
冬爾は、年末から3月に掛けてが1年の中でも最もピークに繁忙期を迎える時期だった。
年末調整から3月の決算に向けて発生する山のような業務に追われ、最近は食卓に顔を出す機会もめっきり減っていた。
そして私の方は珍しく仕事が順調に納まり、今年の年末には特に急ぎの案件もなく、穏やかな日々を過ごしていた。
けれどフリーランスの人間というのは現金なもので、普段休みがほしいと嘆くくせに、いざ本当に休みをもらえると将来のことなんかが急に不安に思えたりするのだ。
冬爾に叱られて増えた貯金残高を眺める。
この半年弱で貯まった貯金は、これから先の私を支えてくれるだろうか。
「別れた、あの彼氏と」
同窓会ぶりに会った薫は、煙草をくわえながらそんな報告をしてきた。
「え、っと、ご愁傷様?」
「おめでとうで良いわよ、もう他に男いるし」
「早!どこで見つけるのそんな早く」
「まあ職場で」
薫が煙草の先にライターで火を点けた。
個室のお寿司屋さんは薄暗い照明と落ち着いた雰囲気で、どちらかと言えばホテルのバーに近い内装だった。
「寿司なら日本酒飲みたいな、寧子は?」
「ならお猪口ふたつ貰おうか」
「ネタは鯵と赤貝と、あー…あと〆鯖も」
店員さんに注文を告げて、私も私で煙草に火を点けると、すぐに日本酒が運ばれてくる。
「職場って従業員5人とかでしょ?」
「一緒に起業した先輩とまあ、流れで寝て、今さら過ぎるけど付き合うかって話にね」
「また狭いコミュニティの中で…」
「わかってる、一番手を出してはいけない厄介なところに手ぇ出したってことは」
「別れたあと地獄見るよ」
私と薫は日本酒と煙草に交互に口を付ける。
痛いところを指摘されて苦々しい顔をしている薫は、気怠げに頬杖をついた。
「別れなきゃいいんでしょ、頑張るわよ」
「仮にも十年近く経営者やっててそのリスクマネジメントのずさんさはどうなのよー」
「…楽しんでるわね、あんた」
「薫の相手は高校時代から絶対『面倒な男』か『ダメな男』の2択だよね、今回は前者」
ちなみに前回は後者だ。
昔から抜きん出て優秀だった薫は、その反動なのか所謂『優しくて素敵な良い人』には決して惹かれず、大抵幸せになる確率の低そうな男ばかりに惚れていた。
「だって優しい男って燃えないのよ」
「燃えなくていいでしょ、別に恋愛相手と戦うわけじゃないんだからさあ」
「何言ってんの、恋愛は戦いでしょ?リングに乗ったあとは勝つか負けるか、食うか食われるかよ」
「嫌だ、そんな好戦的な女」
「別に寧子に好かれなくていいわよ」
ふん、と薫は居丈高に鼻を鳴らした。
「寧子はまだ元カレ引きずってんの?」
「さすがにもう引きずってないよ、ちょっと前に1回会ったけど案外平気だったし」
「で、新しい男は?」
「最近ちょっと一緒にいる人がいて…」
初めて人に冬爾のことを話してみた。
何か心境の変化があったわけではないけど、ここ最近なんとなく冬爾と私の関係が行き詰っているような気がして。
「何よ、寧子も十分面倒臭いじゃない」
「…でも恋愛じゃないよ」
「知ってる?一緒にいて居心地のいい男と散々寝て、心が反応しない女なんかいないって」
薫が煙草の煙を吐く。
「大体これは恋じゃない、お互いに都合が良いから一緒にいるだけなんて自分に言い聞かせてる時点でどうなのよ?そりゃ関係性も行き詰るわ」
「期待したくないの、後が辛いから」
「あのカメラマンの影響力は甚大ね、ほんと」
ちょうどそこで扉がノックされて、店員さんが注文したネタをテーブルの上に置いた。
薫はちらりと私を見た。
綺麗な指先がお寿司を掴んで口に放り込む。
「だから恋愛は戦いなのよ、逃げてるだけの女が幸せになれるほど現実甘くないから」
最寄り駅から自宅マンションまでの道すがらに24時間営業のスーパーがある。
冬爾が夕飯をあまり食べに来なくなってからは手を抜くばかりで、最近は全然まともに料理をしていなかった。
ふわふわとアルコールに冒された頭で、明日こそ何か健康的な食事を!なんて考えた私はスーパーで食材を買い漁る。
店内を流れる陽気なクリスマスソングを聞きながら、そういえば明日がクリスマスイブなことを今さら思い出した。
最初に冬爾と寝た夜のことは、未だにあまり記憶にない。
多分この先、脳が思い出すこともないだろう。
「言い聞かせてる、わけじゃ…」
鮮肉コーナーで骨付きチキンのパッケージを持ち上げながら、何故か言い訳みたいに呟きがこぼれて。
そしてその後から、ぽとりと涙が落ちた。
冬爾は仕事が忙しくてほとんど夕飯を食べに来なくなって、休日に食べに来たと思ったら、まだ仕事があるとすぐに帰ってしまう。
こんなに都合が良くて気楽で、お互いに満たされる関係はないと思っていたのに、いつの間にか漠然とした不安だけが肥大していた。
きっと半年前までの私なら、冬爾の仕事が落ち着くまでの間、大人しく『待て』をしてることになんの不満もなかっただろう。
だから恋愛は嫌なの。
独り善がりで、際限がなくて、面倒臭い。
会いたい。
触れたい。
抱きたい。
あられもない欲望が自分の中に渦巻いて。
溺れてしまいそうだ。
絶対にひとりじゃ食べきれないほどの食材をカゴに詰め込んで、ワインもシャンパンも買い込んで。
レジの店員の若いお兄さんが驚いたように一瞬赤い目の私を見たのに、哀れな女だと思われてるんだろうかなんてことが頭をもたげる。
爆弾低気圧が東日本を覆って、今年のクリスマスには雪が降るかもしれないと朝のニュースで言っていた。
雪なんて、降らなくていい。
温めてくれる体温もないのに、余計に気が滅入るだけだ。
「お見合いでもしようかな」
そうすれば来年には、仕事以外のちゃんとした役割を与えてもらえるかもしれない。
私はもう、自分の肩書きに安心する歳だ。
自分がこれから何者にでもなれると、そんな期待に胸を膨らませるような季節はもう過ぎた。
本当に馬鹿ね。
曖昧であることが正義で、型に嵌まらないからこそ安心できていたはずなのに、結局そんなの詭弁だった。
薫の言う通り、ずっと逃げていたのだ。
だって傷つくのは嫌じゃない?
散々今まで傷ついて、もう心に綺麗な場所なんてないのに、その上にまだ傷が出来たら、悲惨すぎるじゃない?
予感はあった。
恋に変わる、そんな予感に、目を瞑った。
「メリークリスマス」
似合わない陽気な挨拶とお高いシャンパンを携えた冬爾が、私の部屋を訪ねてきた。
「え、仕事は?」
「まあ来週の俺に頑張ってもらおうと思って」
「今日も要らないと思って何も作ってない…」
「なんか出前でも取る?」
シャンパンの入った細長い紙袋を私に渡しながら、冬爾が首を傾げた。
2021年のクリスマスイブは金曜日だ。
きっと街中には、幸せそうに寄り添う恋人たちが溢れていることだろう。
「食材はあるの、時間もらえたら作るよ」
「なら俺も手伝うよ」
「え?」
冬爾が私の料理を手伝ったことは、今まで1度もなかった。
たまに冗談で誘っても、絶対に断られた。
「どうしたの、具合悪い?」
「もういい座って待ってるから寧子作って」
「嘘だよ、一緒に作ろ」
脱いだコートをダイニングの椅子に引っ掛けると、冬爾はワイシャツの腕をまくりながら歩いてくる。
昨日自棄になってスーパーで買い漁った鶏肉や野菜を冷蔵庫から取り出して、コブサラダとコーンスープの用意を冬爾に頼んだ。
せっかくのクリスマスなのでメインはチキンにしようと、バジルとローズマリーで香草焼きにする。
「妙に器用で腹立つね、冬爾」
「基本何でもそつなくこなすタイプだから」
「感じ悪い!」
簡単なコブサラダとコーンスープだったとはいえ、そこそこ手際よくレシピ通りに仕上げた冬爾は相変わらず可愛げのない男だ。
私の方の香草焼きも焼き上がり、テーブルの上に料理を並べて、冬爾が持ってきてくれたシャンパンで乾杯する。
「今日寒かったでしょ?雪降りそうだよね」
「昼間ちょっと降ってたよ」
「ほんと?ずっと部屋にいたから全然気づかなかった、後でベランダ出てみようかな」
昔から、冬は好きだった。
あのピンと細い糸を張り詰めたような冷たい空気の中に身を置くと、姿勢が伸びて、真っすぐに歩ける気がする。
平凡で質素だけど、料理はおいしかった。
シャンパンの味もわからないけれど、でも飲みやすくて酔っぱらった。
そして目の前には、久しぶりに冬爾がいて。
浮かれる私は、ノーガードだった。
「俺、転勤することになった」
小さく微笑んだ冬爾を見ながら。
ああ、この男は今日これを言いに来たのか、と思った。
「年明けから、福岡」
「…福岡、ってことはもつ鍋と豚骨ラーメン」
「多分食いに行かねえけどな、俺は」
「もったいない」
何の話をしてるんだろう。
食べ終えて空っぽになったお皿を見下ろしながら、フリーズして使い物にならない頭で適切な言葉を探した。
「それって、えーっと、栄転?」
「まあ一応おかげさまで」
「そっか」
うん、そっか、栄転かあ。
ということはおめでたい話なんだな、これ。
ようやく自分がどんな表情をすればいいのかの正解を見つけた私は、それに酷く安堵して、顔を上げた。
「おめでとう、良かったね」
恋愛が戦いだとすれば。
私はこの時、スタートの合図とともに、圧倒的な敗北を喫した。
「そんな良い話があるなら尚更先に言っててくれたらご馳走作ったのに」
「別にわざわざ飯なんかいいよ」
「福岡かあ」
寂しくなるね、と私が言った。
だって言わずに我慢して、涙なんか出てきてしまったら、それこそ目も当てられない。
「そう言ってくれんのは寧子くらいだよ」
「寂しい男ねえ、可哀想に」
「まあな」
冬爾がジャケットから煙草の箱を取り出すのを見ながら、私は食器を片付けた。
洗剤を付けたスポンジで、汚れた食器を洗う。
馬鹿な私は、今さら気づいていた。
ぬるま湯みたいに心地良いだけの関係は、ある程度のところで上がらないと、風邪を引くということに。
そして、風邪を引いた時にはもう誰も。
慰めてくれる人はいないということに。
「これ、もう出版されたの?」
部屋に戻ると、デスクの上に置きっぱなしにしていた『嵐が丘』の見本を冬爾が持ち上げていた。
「ううん、まだなの、発売は年明け」
「発売したら買わなきゃな」
「良かったらそれ貰ってくれてもいいよ?毎回何冊かくれるから」
「いや、ちゃんと自分で買うよ」
相変わらず変なところが律義だと思った。
そしてそういう律義なところが、今は誠実にすら映るから、参った。
文庫本の表紙をじっと眺めている冬爾の横顔をなんとなく見ていられなくて、ふと視線を逸らした先で、雪が降っていた。
「わあ、ホワイトクリスマスだねえ」
「寒いだけだろ、窓開けんなよ」
「ほんと冬爾ってこういう時に全然情緒がないよね、どうかと思う」
「どうせ俺は木偶の坊ですよ」
ベランダに出た私を、冬爾は仕方なさそうな顔をして追いかけてきた。
「去年は降ってなかったよね」
「あれからちょうど1年か、なんだかんだ結構な頻度で顔合わせてたもんなあ俺ら」
「あの日拾ってくれたのが冬爾で良かったよ」
「ほんとそれは感謝してほしいわ」
「感謝してますって」
冬爾が私を後ろからそっと抱きしめる。
その時、偶然首に触れた冬爾の手が冷たくて、私はびくっと身体を揺らした。
「すごい手冷えてない?寒い?」
「俺たまにめちゃくちゃ手だけ冷えることあんだけど、冷え性なのかな?」
「どうだろう?足とかは平気なの?」
「手だけ、それもたまにで、でも冷えると風呂入って温まるまで全然戻んねえの」
「変な体質だね」
冷たくなった冬爾の手を、きゅっと握った。
ふわふわと舞う淡雪は何かに触れると幻のようにすぐに溶けて、儚げで刹那的で。
「寧子…」
呼ばれた名前に顔を上げれば、唇が重なった。
優しいキスは、酷く切ない。
冬爾が忙しくなりだしてから、このひと月ほどは、身体を重ねることもなかった。
縺れ合うようにベッドになだれ込んで、触れなかった間の空白を埋めるみたいに、その夜の私たちはずっと繋がっていた。
でもそんなことをしても、私たちはとっくに気付いていた。
もう全部が、手遅れだということは。
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