永遠の終わりに花束を
#08 窓越しのパラレルワールド
俺は、自分という人間を弁えている。
だから必要以上の高望みなどするつもりはない。
今にも壊れてしまいそうに頼りなく小さな体がこの腕の中で健気に震えるのを、酷く憐れだと思うと同時に、そのまぶしさに眩暈がした。どうしてこの細く儚い体で、このひとは苦しみを正面から受け止められるのだろう?その清らかな勇敢さを心から綺麗だと思った。
「いや、だからなんだよ?」
どうせ今夜も残業だと腹を決めて地下の喫煙所で一服していたところに、不機嫌そうな顔で現れた部下がもの言いたげにじろじろ睨んでくるのでさすがに鬱陶しい。
「アイツは昔っからそれはもう箱入りも箱入りの超お嬢様で男になんかほぼ免疫ないも同然なんですからね!滝沢さんみたいな上っ面だけは誠実で優しそう~みたいな男に真っ先に騙されて痛い目見る女なんですよ!」
「お前、俺が上司なの忘れてない?」
「なら自分が誠実な男だって堂々と言えますか」
別に自分が誠実な男だとは言えないが、だからと言ってコイツにこんなボロカスにこき下ろされる覚えもない。生意気な顔で俺をねめつける豊川にうんざりとため息を吐きながら、指に挟んだ煙草を口に運ぶ。
「別に俺と柚原さんはそういうんじゃないって」
「は?佳乃じゃ不満ってことっすか」
「…ほんと面倒臭いな、お前」
俺がなんて返しても噛みついてくる気だろ、と厄介極まれりな豊川が佳乃と幼馴染みの間柄だと発覚してからというもの、俺はこうして日々謎の尋問を受ける羽目になってしまった。
少し前までふたりは形式上の婚約関係にあったらしいが、とはいえ恋愛感情があったというわけでもないと佳乃も豊川も口を揃える。それなのに何故俺は豊川からこんな責め苦を受けなければならないのか甚だ納得がいかないし、自分を棚に上げすぎだろとも思う。
「てか彼女には縁談相手がいるって聞いたけど」
「…だったらなんだって言うんですか」
「それなら最初から俺の出る幕なんかないだろ」
遠からず、佳乃は由緒正しい家柄のお嬢さんに相応しい相手のもとに嫁ぐのだろう。俺なんかとは比べ物にならないような、素敵な男が縁談相手だといい。思いがけず佳乃の過去を暴いてしまった身としては、佳乃の将来に対して、それぐらいのことは思っている。
「…縁談なんかしたいわけないでしょ」
「それを俺に言われてどうすりゃいいんだよ?」
「だから、滝沢さんはアイツのこと――」
「どうも思ってねえよ」
何を思えって言うんだ、俺が。
それに、彼女の望みは最初から俺じゃねえだろ。
本当に心から優しくて誠実だった男のことが忘れられないんだろう、今も。俺みたいなまがいものがそんな輝かしい過去の代替えになれるだなんて驕るほどめでたくもない。
――それに、
(俺みたいのが相手になれるわけねえだろ)
向こうの世界じゃ、水商売上がり女から生まれた父親のいない男なんて論外だろう。最初から住む世界が違う。あの公園で、偶然重なった俺と佳乃の世界は所詮パラレルワールドで、あれは本当の居場所じゃない。
あの時間は、一過性だから穏やかで優しいんだ。
だから留まり続ければ不和を生む。
最初に転びかけた佳乃を抱き止めた時、あまりに軽くて、人間の形をしたなにかが間違って空から降ってきたみたいだった。まっさらな春風に靡く長い髪が頬を掠め、澄んだ褐色の瞳と近い距離で目が合うと時が止まって。
――妖精みたいだって思ったんだ。
あまりに気障ったらしくて心底恥ずかしいけど。
佳乃の小さなぬくもりを抱き締めた時、愚かにも愛しく感じた自分に失望した。どうして俺は懲りもせずに、毎度釣り合うはずもない相手にばかり惹かれるんだろう?
自分の内側にぽっかりと開いた醜い穴が埋まることはない。そのピースは、生まれた瞬間から俺には与えられないことが決まっていたものだから。
誰もわざわざ不幸を買って出るような真似をする必要はない。生まれる場所は選べなくとも、それ相応の幸せを手にすればいい。お互いが住む世界を飛び越えたって、そこにはフィクションのように劇的な幸福などない。
現実なんか、大体が平穏な悲劇だ。
何も望まなければ苦しみと無縁でいられるのに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「久しぶりだな、アルー!」
出会い頭に飛びついてきたアルを抱き留める体がもう自分とそれほど変わらないことを少し驚きながら、俺は玄関に転がったままのスーツケースを部屋に上げた。
「うわ、重てぇな、なに入ってんだこれ」
「作曲用のちょっとした機材と課題曲の楽譜!」
「え、俺ん家もうピアノねえぞ」
「簡単な直しはパソコンでやるから大丈夫」
それより俺腹減ったんだけど、と甘えたような声を出すのは、弟の律だ。去年の秋からプラハに音楽留学中の末弟は、向こうの著名なコンクールで最優秀を獲得したご褒美に、半年ぶりの日本に帰国した。
「てか、半年如きで帰ってくんじゃねえよ」
「日本でも仕事あるんですぅー」
「まだ高校生のくせして仕事もなにもあるかよ」
「もう卒業したっての!」
俺は今これで生計立ててんの!と生意気なことを言っている律は、だが事実として、本名とは別名義で作曲を行った楽曲を、割りと有名な歌手やらバンドやらに提供しているらしい。
しかもそれをピアノコンクールの片手間にやっているのだから嫌味な弟だ。音楽の神様に愛されて生まれてきたような人間が存在するのなら、それは律だと思う。幼い頃からその手に握り締めたあふれんばかりの輝きは、俺には決して持てないものだった。
年の離れた腹違いの兄弟がもうひとりいるのだと蒼から初めて教えられた時、まだ律は十歳の餓鬼だった。当時俺はドイツに住んでいたし、父との縁も切れていたから、蒼から突然連絡が来て『実は自分たちにはもうひとり弟がいたんだ』なんて言われても正直ピンとこなかった。
なのにあのお節介なうえにお人好しな同い年の兄は、いきなり俺のところで律の面倒を見れないかなどと言い出し、突然幼い律を連れてドイツまで乗り込んできたのだ。当時、ちょうど大学を卒業したばかりだった俺が無理だとすげなく追い返そうとした時、蒼に手を引かれた律は、その年頃の子供らしくもない無感情な瞳をしていた。それが妙に気に掛かった。
『毎日何時間もピアノの練習を強要されてる』
『…それって親父にか?』
『とは言っても実際にあのクソ親父が面倒見てるわけじゃない。勝手に無茶な練習スケジュールを組んで、講師に丸投げして律に練習させて、もう完全に教育虐待だよ』
偶然父親から律の存在を聞いた蒼が心配になって会いに行った時、海辺の家に、律はひとりきりで暮らしていたという。その家には家政婦とピアノの講師の出入りがあるだけで、他に人の気配もなく、あまりに異様な環境だったと蒼が苦々しげに語るのにぞっとした。
『母親はなにしてんだよ、それ』
『律を生んだ時に死んだって親父が言ってた』
『は?まじで言ってる?あの人格破綻者に餓鬼の教育なんかできるわけねえだろ、アイツは音楽のことしか頭にな――』
そこまで言って、はたと気付いた。
俺たちの父親は音楽にしか関心のない男だった。
息子に対する愛情も執着もない男だと思っていたのは、俺に才能がなかったからだ。それが、もしも律に備わっていたとしたら――俺は部屋の隅でただアルを見つめている律の、空洞みたいな瞳に酷く胸が痛んだ。
『俺が院を卒業するまでの間だけでいい、直樹に律の面倒を頼みたいんだ』
『…でも、俺だって餓鬼の面倒なんか』
『てかこれほぼ児童誘拐だからもう逃げ場ない』
『はあ?!』
親父に黙って勝手に連れてきた、と真面目腐った顔でとんでもないことを言い出した蒼に、腹の底から声が出た。それに律は不思議そうな顔をして首をかしげている。
『やー、パスポート持っててくれて助かったわ』
『…まじでお前たまに無茶苦茶だよな』
『あと月島の籍に入っててくれたおかげで兄弟なの疑われずに済んだのもデカいな、直樹だったら絶対職質受けてたぜ』
結局、そうあっけらかんと言って退ける蒼に律の面倒を押し付けられた俺は、そこから律が中学に上がるまでの期間を一緒に過ごした。強行突破で親父を半分脅して親権を取ってきた蒼は、諸々の手続きを済ませてすぐアメリカの音楽院へと留学したが、なにかにつけてしょちゅう俺たちの家を訪れるようになった。
思いがけない末弟の登場により、幼い頃から特に理由もなく薄っすら嫌い合っていた俺と蒼の関係性はなし崩し的に雪解けし、なんだかんだで今もそれなりに良好な交流が続いている。
幼い頃の律は驚くほど物静かで手の掛からない子供で、笑うことすらなかった。自分が傷ついてきたことさえ認識できていないような律は、それでも音楽に触れる時だけは、その空洞みたいな瞳に微かな光を宿し、儚い音の欠片を小さな手で懸命に掴み取っていた。
「兄貴ー、まじで腹減って死ぬ」
――それがどうだ、今のこの有様は。
俺はフライパンを振りながらうんざり息をつく。
腹が減った腹が減ったと騒ぐ律に強請られた俺は仕方なく適当にパスタを茹で、とはいえ大した食材もなかったので、オリーブオイルとにんにくでペペロンチーノを作らされている。その間も律は手伝う気概も見せず、アルとソファーの上で転げ回りながらじゃれ合っているのだから、図々しく成長したものだ。
「で、兄貴は彼女できたわけ?」
「帰って来ていきなり嫌味か、できねえよ」
「菫さんのために日本帰ってきたのに連絡もロクに取らねえとか何やってんの?そんなんだから露風さんに持ってかれんだよ」
まじで意味わかんね、と無神経にケタケタと笑う弟の足をダイニングテーブルの下で蹴ってやる。
俺はこれまで一途に菫を思って生きてきたような殊勝な人間じゃないし、別の相手とそれなりに真剣に付き合ったこともある。それに俺はあの頃のことを掘り起こすたび、菫の笑顔でも泣き顔でもなく、あのしなやかに鍵盤の上で踊る美しい指先を思い出す。だからきっと、これはもうただの執着でしかないのだろう。
「今菫が幸せならそれでいいだろ」
「尻尾撒いて逃げたくせに格好つけちゃって」
ひと回りも年の離れた弟から煽られてムキになるほど、俺の大人げは脆弱ではない。それに俺が尻尾を巻いて逃げ出したのは事実だし、律の言葉は概ね的を射ている。
「お前こそなんだ、好きな子がいたのに待ってて欲しいって言えずにぐずぐず泣きながら飛行機に乗ったって蒼に聞いたぞ」
「はあ?!泣いてなんかねえよ!」
「へえ、好きな子がいたのは否定しねえんだ?」
咄嗟の言葉尻を捉えた俺に律はあからさまに動揺して、「別にっ、好きな子とかじゃねえし!」と必死に誤魔化しているから噴き出した。さすが思春期、可愛いな。
「相変わらずカスだな」
兄貴のこと見習って早く結婚しろよ、と不満げに律が呟く。ここでの兄貴とは十中八九蒼のことを指すのだろうが、判別しがたいので、昔みたいに『そうにい』『なおにい』と可愛げ満載に呼んでほしいところだ。
「黒歴史を掘り起こすな、黒歴史を!」
「ほんとあの頃の律は可愛かったんだけどな~」
「まじで!うざい!」
「はは、痛ぇな、蹴るなよ」
ドカドカと無遠慮にテーブルの下で俺の足を蹴り返してくる律が、不機嫌そうな顔のままパスタを啜る。俺が律にどれだけのことをしてやれたのかわからないけど、それでもこんな風に、屈託なく育ってくれて本当によかった。
今夜は俺の家に泊まる気だという律がソファーでなにやらパソコンを開いて作業をはじめたのを尻目に、俺は風呂に入って寝支度を整えた。さっぱりしてリビングに戻ると、昨日帰国したばかりで疲れていたんだろう、律が身を丸めるようにして寝息を立てていた。
「昔から寝相が変わんねえな」
パタパタと俺の傍に駆け寄ってきたアルの頭をひと撫でし、ベッドから引き抜いたブランケットを律の体に掛けてやる。膝を抱えるように丸まって寝る癖が未だに抜けないらしい弟の寝顔を、感慨深く見つめた。
――『だいすきな、ひとが、いたんです』
本当にどうしようもなくて嫌になる。
俺はいつも臆病で何かに手を伸ばす勇気がない。
それらしい理屈を羅列したところでなにも満たされないと、もう知っているのに。閉ざした瞼の裏側に映る残像にうんざりして、どさりと背中からベッドに倒れ込む。
「あー…クソ、うっぜえな」
思考の堂々巡りがいい加減鬱陶しくなって、俺は半ば不貞腐れるように部屋の照明を落とした。明日は朝から律を表参道にある音楽スタジオとやらまで送り届けないといけないし、もう余計なことをだらだら考えるのはやめて早く寝てしまおう。
そして無理やり寝て起きたら、昨夜と同じ体勢のまま律がまだ寝ていて、どこでも寝れるって若さだよな…と謎に感心してしまった。それから朝が弱い律を叩き起こして朝飯を食わせ、寝癖がついたままボサボサの頭をなんとか整えさせ、車で仕事場に送り届ける。
「お前、今日は蒼んとこ帰んの?」
「だってサラリーマンは明日からお仕事だろ?」
「嫌なことを思い出させんじゃねえよ」
「社畜ってまじ可哀想」
朝飯を食ったのにまだ助手席でスナック菓子の袋を開けてモグモグと口を動かしている律は、どう考えても体のサイズと腹に入れる食事の量の釣り合いが取れていない。
「お前だって今から仕事だろ」
「別に、もう作ってある曲のデモ渡すだけだし」
「そういやお前の配信者名?ARUなの普通に商標引っ掛かってるから金払えよ」
「なら来週末アルにジャーキーでも買ってくわ」
「いや商標権は名付け親の俺にあるから」
「弟から金巻き上げて恥ずかしくないの」
生意気な弟は高校時代、学業の傍らに作った曲の音源を動画配信サイトにあげてそれなりに人気を得ていたらしい。それが今となっては本格的な仕事に繋がっているのだが、その配信者名に関しては俺の商標権を侵害している。
そんなどうでもいい話をしている間に、表参道にある音楽スタジオの前に着いた車を俺は路肩に停車させた。律は食い散らかしたスナック菓子の袋を俺に捨てておけと命じ、ひょいっと身軽に助手席を降りた。
「後ろにキャリー積んでるから忘れんなよ」
「また来週末は兄貴のとこ帰ってもいい?」
「ああ、アルが喜ぶよ」
車のバックドアを開けた律が後ろに積んだ荷物を降ろす。俺は律が歩道に荷物の避難を完了させたのを見届けてから、ひらりと軽く手を振り、車を発進させた。
青山通りは昼が近くなってきたおかげで車の数も増えてきた。俺は信号に引っ掛かってばかりの国道をとろとろと進みながら、帰ったら洗車でもしに行くかなと午後の予定を頭の中で組み立てる。
そういえば前に柚原さんと待ち合わせしたのってこの辺だったよな?ふとそんなことを思い出して歩道のほうに視線を向けると――今、脳内に思い描いていた人物が通りを歩いていたので、さすがに驚いて見間違いかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「…はは、これって神の啓示みたいな?」
渇いた笑みがついこぼれた。
身の程知らずも大概にしろよってことかな。
赤信号に捕まった車の左側を通り過ぎてゆく佳乃の姿を、俺は助手席の窓越しに目で追った。その隣にぴたりと並んだ品の良さそうな男には確かに見覚えがある。
縁談なんて、この令和に時代錯誤な。
それでも佳乃が生きているのはそういう世界だ。
視界の端から消えてゆく佳乃が今――懸命に取り繕っているあの笑顔が、いつか本物に変わる日がきっと来るだろう。
俺みたいな男の出る幕なんて最初から用意すらされていなかったんだ。世界がわけもなく不平等であることなんて俺は生まれた時から知っていた。
それでも、これまで傷つくことの多かったはずの彼女の未来が、少しでも健やかだといい。もうあんな風に震えて泣かずに済むように。この先、佳乃の傍に寄り添うだろう誰かが、穏やかで優しい男なら幸いだ。
「優しそうな男で良かったな」
信号が青に変わり、俺はアクセルを踏み込んだ。
だから必要以上の高望みなどするつもりはない。
今にも壊れてしまいそうに頼りなく小さな体がこの腕の中で健気に震えるのを、酷く憐れだと思うと同時に、そのまぶしさに眩暈がした。どうしてこの細く儚い体で、このひとは苦しみを正面から受け止められるのだろう?その清らかな勇敢さを心から綺麗だと思った。
「いや、だからなんだよ?」
どうせ今夜も残業だと腹を決めて地下の喫煙所で一服していたところに、不機嫌そうな顔で現れた部下がもの言いたげにじろじろ睨んでくるのでさすがに鬱陶しい。
「アイツは昔っからそれはもう箱入りも箱入りの超お嬢様で男になんかほぼ免疫ないも同然なんですからね!滝沢さんみたいな上っ面だけは誠実で優しそう~みたいな男に真っ先に騙されて痛い目見る女なんですよ!」
「お前、俺が上司なの忘れてない?」
「なら自分が誠実な男だって堂々と言えますか」
別に自分が誠実な男だとは言えないが、だからと言ってコイツにこんなボロカスにこき下ろされる覚えもない。生意気な顔で俺をねめつける豊川にうんざりとため息を吐きながら、指に挟んだ煙草を口に運ぶ。
「別に俺と柚原さんはそういうんじゃないって」
「は?佳乃じゃ不満ってことっすか」
「…ほんと面倒臭いな、お前」
俺がなんて返しても噛みついてくる気だろ、と厄介極まれりな豊川が佳乃と幼馴染みの間柄だと発覚してからというもの、俺はこうして日々謎の尋問を受ける羽目になってしまった。
少し前までふたりは形式上の婚約関係にあったらしいが、とはいえ恋愛感情があったというわけでもないと佳乃も豊川も口を揃える。それなのに何故俺は豊川からこんな責め苦を受けなければならないのか甚だ納得がいかないし、自分を棚に上げすぎだろとも思う。
「てか彼女には縁談相手がいるって聞いたけど」
「…だったらなんだって言うんですか」
「それなら最初から俺の出る幕なんかないだろ」
遠からず、佳乃は由緒正しい家柄のお嬢さんに相応しい相手のもとに嫁ぐのだろう。俺なんかとは比べ物にならないような、素敵な男が縁談相手だといい。思いがけず佳乃の過去を暴いてしまった身としては、佳乃の将来に対して、それぐらいのことは思っている。
「…縁談なんかしたいわけないでしょ」
「それを俺に言われてどうすりゃいいんだよ?」
「だから、滝沢さんはアイツのこと――」
「どうも思ってねえよ」
何を思えって言うんだ、俺が。
それに、彼女の望みは最初から俺じゃねえだろ。
本当に心から優しくて誠実だった男のことが忘れられないんだろう、今も。俺みたいなまがいものがそんな輝かしい過去の代替えになれるだなんて驕るほどめでたくもない。
――それに、
(俺みたいのが相手になれるわけねえだろ)
向こうの世界じゃ、水商売上がり女から生まれた父親のいない男なんて論外だろう。最初から住む世界が違う。あの公園で、偶然重なった俺と佳乃の世界は所詮パラレルワールドで、あれは本当の居場所じゃない。
あの時間は、一過性だから穏やかで優しいんだ。
だから留まり続ければ不和を生む。
最初に転びかけた佳乃を抱き止めた時、あまりに軽くて、人間の形をしたなにかが間違って空から降ってきたみたいだった。まっさらな春風に靡く長い髪が頬を掠め、澄んだ褐色の瞳と近い距離で目が合うと時が止まって。
――妖精みたいだって思ったんだ。
あまりに気障ったらしくて心底恥ずかしいけど。
佳乃の小さなぬくもりを抱き締めた時、愚かにも愛しく感じた自分に失望した。どうして俺は懲りもせずに、毎度釣り合うはずもない相手にばかり惹かれるんだろう?
自分の内側にぽっかりと開いた醜い穴が埋まることはない。そのピースは、生まれた瞬間から俺には与えられないことが決まっていたものだから。
誰もわざわざ不幸を買って出るような真似をする必要はない。生まれる場所は選べなくとも、それ相応の幸せを手にすればいい。お互いが住む世界を飛び越えたって、そこにはフィクションのように劇的な幸福などない。
現実なんか、大体が平穏な悲劇だ。
何も望まなければ苦しみと無縁でいられるのに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「久しぶりだな、アルー!」
出会い頭に飛びついてきたアルを抱き留める体がもう自分とそれほど変わらないことを少し驚きながら、俺は玄関に転がったままのスーツケースを部屋に上げた。
「うわ、重てぇな、なに入ってんだこれ」
「作曲用のちょっとした機材と課題曲の楽譜!」
「え、俺ん家もうピアノねえぞ」
「簡単な直しはパソコンでやるから大丈夫」
それより俺腹減ったんだけど、と甘えたような声を出すのは、弟の律だ。去年の秋からプラハに音楽留学中の末弟は、向こうの著名なコンクールで最優秀を獲得したご褒美に、半年ぶりの日本に帰国した。
「てか、半年如きで帰ってくんじゃねえよ」
「日本でも仕事あるんですぅー」
「まだ高校生のくせして仕事もなにもあるかよ」
「もう卒業したっての!」
俺は今これで生計立ててんの!と生意気なことを言っている律は、だが事実として、本名とは別名義で作曲を行った楽曲を、割りと有名な歌手やらバンドやらに提供しているらしい。
しかもそれをピアノコンクールの片手間にやっているのだから嫌味な弟だ。音楽の神様に愛されて生まれてきたような人間が存在するのなら、それは律だと思う。幼い頃からその手に握り締めたあふれんばかりの輝きは、俺には決して持てないものだった。
年の離れた腹違いの兄弟がもうひとりいるのだと蒼から初めて教えられた時、まだ律は十歳の餓鬼だった。当時俺はドイツに住んでいたし、父との縁も切れていたから、蒼から突然連絡が来て『実は自分たちにはもうひとり弟がいたんだ』なんて言われても正直ピンとこなかった。
なのにあのお節介なうえにお人好しな同い年の兄は、いきなり俺のところで律の面倒を見れないかなどと言い出し、突然幼い律を連れてドイツまで乗り込んできたのだ。当時、ちょうど大学を卒業したばかりだった俺が無理だとすげなく追い返そうとした時、蒼に手を引かれた律は、その年頃の子供らしくもない無感情な瞳をしていた。それが妙に気に掛かった。
『毎日何時間もピアノの練習を強要されてる』
『…それって親父にか?』
『とは言っても実際にあのクソ親父が面倒見てるわけじゃない。勝手に無茶な練習スケジュールを組んで、講師に丸投げして律に練習させて、もう完全に教育虐待だよ』
偶然父親から律の存在を聞いた蒼が心配になって会いに行った時、海辺の家に、律はひとりきりで暮らしていたという。その家には家政婦とピアノの講師の出入りがあるだけで、他に人の気配もなく、あまりに異様な環境だったと蒼が苦々しげに語るのにぞっとした。
『母親はなにしてんだよ、それ』
『律を生んだ時に死んだって親父が言ってた』
『は?まじで言ってる?あの人格破綻者に餓鬼の教育なんかできるわけねえだろ、アイツは音楽のことしか頭にな――』
そこまで言って、はたと気付いた。
俺たちの父親は音楽にしか関心のない男だった。
息子に対する愛情も執着もない男だと思っていたのは、俺に才能がなかったからだ。それが、もしも律に備わっていたとしたら――俺は部屋の隅でただアルを見つめている律の、空洞みたいな瞳に酷く胸が痛んだ。
『俺が院を卒業するまでの間だけでいい、直樹に律の面倒を頼みたいんだ』
『…でも、俺だって餓鬼の面倒なんか』
『てかこれほぼ児童誘拐だからもう逃げ場ない』
『はあ?!』
親父に黙って勝手に連れてきた、と真面目腐った顔でとんでもないことを言い出した蒼に、腹の底から声が出た。それに律は不思議そうな顔をして首をかしげている。
『やー、パスポート持っててくれて助かったわ』
『…まじでお前たまに無茶苦茶だよな』
『あと月島の籍に入っててくれたおかげで兄弟なの疑われずに済んだのもデカいな、直樹だったら絶対職質受けてたぜ』
結局、そうあっけらかんと言って退ける蒼に律の面倒を押し付けられた俺は、そこから律が中学に上がるまでの期間を一緒に過ごした。強行突破で親父を半分脅して親権を取ってきた蒼は、諸々の手続きを済ませてすぐアメリカの音楽院へと留学したが、なにかにつけてしょちゅう俺たちの家を訪れるようになった。
思いがけない末弟の登場により、幼い頃から特に理由もなく薄っすら嫌い合っていた俺と蒼の関係性はなし崩し的に雪解けし、なんだかんだで今もそれなりに良好な交流が続いている。
幼い頃の律は驚くほど物静かで手の掛からない子供で、笑うことすらなかった。自分が傷ついてきたことさえ認識できていないような律は、それでも音楽に触れる時だけは、その空洞みたいな瞳に微かな光を宿し、儚い音の欠片を小さな手で懸命に掴み取っていた。
「兄貴ー、まじで腹減って死ぬ」
――それがどうだ、今のこの有様は。
俺はフライパンを振りながらうんざり息をつく。
腹が減った腹が減ったと騒ぐ律に強請られた俺は仕方なく適当にパスタを茹で、とはいえ大した食材もなかったので、オリーブオイルとにんにくでペペロンチーノを作らされている。その間も律は手伝う気概も見せず、アルとソファーの上で転げ回りながらじゃれ合っているのだから、図々しく成長したものだ。
「で、兄貴は彼女できたわけ?」
「帰って来ていきなり嫌味か、できねえよ」
「菫さんのために日本帰ってきたのに連絡もロクに取らねえとか何やってんの?そんなんだから露風さんに持ってかれんだよ」
まじで意味わかんね、と無神経にケタケタと笑う弟の足をダイニングテーブルの下で蹴ってやる。
俺はこれまで一途に菫を思って生きてきたような殊勝な人間じゃないし、別の相手とそれなりに真剣に付き合ったこともある。それに俺はあの頃のことを掘り起こすたび、菫の笑顔でも泣き顔でもなく、あのしなやかに鍵盤の上で踊る美しい指先を思い出す。だからきっと、これはもうただの執着でしかないのだろう。
「今菫が幸せならそれでいいだろ」
「尻尾撒いて逃げたくせに格好つけちゃって」
ひと回りも年の離れた弟から煽られてムキになるほど、俺の大人げは脆弱ではない。それに俺が尻尾を巻いて逃げ出したのは事実だし、律の言葉は概ね的を射ている。
「お前こそなんだ、好きな子がいたのに待ってて欲しいって言えずにぐずぐず泣きながら飛行機に乗ったって蒼に聞いたぞ」
「はあ?!泣いてなんかねえよ!」
「へえ、好きな子がいたのは否定しねえんだ?」
咄嗟の言葉尻を捉えた俺に律はあからさまに動揺して、「別にっ、好きな子とかじゃねえし!」と必死に誤魔化しているから噴き出した。さすが思春期、可愛いな。
「相変わらずカスだな」
兄貴のこと見習って早く結婚しろよ、と不満げに律が呟く。ここでの兄貴とは十中八九蒼のことを指すのだろうが、判別しがたいので、昔みたいに『そうにい』『なおにい』と可愛げ満載に呼んでほしいところだ。
「黒歴史を掘り起こすな、黒歴史を!」
「ほんとあの頃の律は可愛かったんだけどな~」
「まじで!うざい!」
「はは、痛ぇな、蹴るなよ」
ドカドカと無遠慮にテーブルの下で俺の足を蹴り返してくる律が、不機嫌そうな顔のままパスタを啜る。俺が律にどれだけのことをしてやれたのかわからないけど、それでもこんな風に、屈託なく育ってくれて本当によかった。
今夜は俺の家に泊まる気だという律がソファーでなにやらパソコンを開いて作業をはじめたのを尻目に、俺は風呂に入って寝支度を整えた。さっぱりしてリビングに戻ると、昨日帰国したばかりで疲れていたんだろう、律が身を丸めるようにして寝息を立てていた。
「昔から寝相が変わんねえな」
パタパタと俺の傍に駆け寄ってきたアルの頭をひと撫でし、ベッドから引き抜いたブランケットを律の体に掛けてやる。膝を抱えるように丸まって寝る癖が未だに抜けないらしい弟の寝顔を、感慨深く見つめた。
――『だいすきな、ひとが、いたんです』
本当にどうしようもなくて嫌になる。
俺はいつも臆病で何かに手を伸ばす勇気がない。
それらしい理屈を羅列したところでなにも満たされないと、もう知っているのに。閉ざした瞼の裏側に映る残像にうんざりして、どさりと背中からベッドに倒れ込む。
「あー…クソ、うっぜえな」
思考の堂々巡りがいい加減鬱陶しくなって、俺は半ば不貞腐れるように部屋の照明を落とした。明日は朝から律を表参道にある音楽スタジオとやらまで送り届けないといけないし、もう余計なことをだらだら考えるのはやめて早く寝てしまおう。
そして無理やり寝て起きたら、昨夜と同じ体勢のまま律がまだ寝ていて、どこでも寝れるって若さだよな…と謎に感心してしまった。それから朝が弱い律を叩き起こして朝飯を食わせ、寝癖がついたままボサボサの頭をなんとか整えさせ、車で仕事場に送り届ける。
「お前、今日は蒼んとこ帰んの?」
「だってサラリーマンは明日からお仕事だろ?」
「嫌なことを思い出させんじゃねえよ」
「社畜ってまじ可哀想」
朝飯を食ったのにまだ助手席でスナック菓子の袋を開けてモグモグと口を動かしている律は、どう考えても体のサイズと腹に入れる食事の量の釣り合いが取れていない。
「お前だって今から仕事だろ」
「別に、もう作ってある曲のデモ渡すだけだし」
「そういやお前の配信者名?ARUなの普通に商標引っ掛かってるから金払えよ」
「なら来週末アルにジャーキーでも買ってくわ」
「いや商標権は名付け親の俺にあるから」
「弟から金巻き上げて恥ずかしくないの」
生意気な弟は高校時代、学業の傍らに作った曲の音源を動画配信サイトにあげてそれなりに人気を得ていたらしい。それが今となっては本格的な仕事に繋がっているのだが、その配信者名に関しては俺の商標権を侵害している。
そんなどうでもいい話をしている間に、表参道にある音楽スタジオの前に着いた車を俺は路肩に停車させた。律は食い散らかしたスナック菓子の袋を俺に捨てておけと命じ、ひょいっと身軽に助手席を降りた。
「後ろにキャリー積んでるから忘れんなよ」
「また来週末は兄貴のとこ帰ってもいい?」
「ああ、アルが喜ぶよ」
車のバックドアを開けた律が後ろに積んだ荷物を降ろす。俺は律が歩道に荷物の避難を完了させたのを見届けてから、ひらりと軽く手を振り、車を発進させた。
青山通りは昼が近くなってきたおかげで車の数も増えてきた。俺は信号に引っ掛かってばかりの国道をとろとろと進みながら、帰ったら洗車でもしに行くかなと午後の予定を頭の中で組み立てる。
そういえば前に柚原さんと待ち合わせしたのってこの辺だったよな?ふとそんなことを思い出して歩道のほうに視線を向けると――今、脳内に思い描いていた人物が通りを歩いていたので、さすがに驚いて見間違いかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「…はは、これって神の啓示みたいな?」
渇いた笑みがついこぼれた。
身の程知らずも大概にしろよってことかな。
赤信号に捕まった車の左側を通り過ぎてゆく佳乃の姿を、俺は助手席の窓越しに目で追った。その隣にぴたりと並んだ品の良さそうな男には確かに見覚えがある。
縁談なんて、この令和に時代錯誤な。
それでも佳乃が生きているのはそういう世界だ。
視界の端から消えてゆく佳乃が今――懸命に取り繕っているあの笑顔が、いつか本物に変わる日がきっと来るだろう。
俺みたいな男の出る幕なんて最初から用意すらされていなかったんだ。世界がわけもなく不平等であることなんて俺は生まれた時から知っていた。
それでも、これまで傷つくことの多かったはずの彼女の未来が、少しでも健やかだといい。もうあんな風に震えて泣かずに済むように。この先、佳乃の傍に寄り添うだろう誰かが、穏やかで優しい男なら幸いだ。
「優しそうな男で良かったな」
信号が青に変わり、俺はアクセルを踏み込んだ。