永遠の終わりに花束を

#02 捨て猫のワルツ

滝沢に助けられた一件により、パンプスで公園に行くことは危険だと愚かすぎる気付きを得た私がスニーカーに足を入れ、今日も今日とて、公園のベンチで読書をしようと春の心地良い陽光の下を歩いていた時だった。
茂みのほうで猫の鳴き声がした。
その鳴き声のほうを見ると、段ボールがひとつ。
「え、え、え、うそ……?」
温州みかんと側面に書かれた段ボールの中には子猫が一匹。白と茶の、トラ柄のその子は真ん丸な瞳を私のほうに向けながら、不思議そうにその目を瞬いている。
「え、それって捨て猫ですか?」
「きゃあああっ!」
「うわ、びっくりした、危ないって!」
子猫と目を合わせたまま茫然としていた私の背後から急に話しかけられて、びっくりして大袈裟によろけた私の腕を掴み、怪訝そうな顔をする彼の顔には当然見覚えがあった。
そんな驚くこと?と後ろにでんぐり返りをしそうになった私の体勢を片腕で整え、滝沢は隣で興味津々な顔をしているアルを段ボールから少し遠ざけるように制した。子猫は未だにきょとんとして私たちを見上げたまま、よくわかってないような顔をしている。
「ご、ご、ごめんなさい、びっくりして…」
「普通に俺のがびっくりしたんで」
「子猫に集中してしまっていて……あ、それでこの子が捨て猫っぽくて」
「今時珍しいですよね、捨て猫って」
茶トラじゃん、と生後間もない様子の子猫の頭をそっと撫でてあげる滝沢は、やっぱりまぶしいものでも見るように、澄んだ琥珀の瞳をなだらかに細めた。
「…この子、どうしたらいいんでしょうか?」
「とりあえず動物病院ですかね?」
「あ、そうですよね!」
「見た感じ迷子の線は薄そうなんで捨て猫だろうから、とりあえず保護して病院連れてって、あとのことはそれから考えましょう。多分動物病院で診察したときに、今後のことは色々相談に乗ってもらえると思うので」
さすが滝沢は普段から動物と一緒に暮らしているだけあって、対応が迅速だ。そう感心していると突然、「ちょっと持っててもらえます?」とアルのリードを渡されたかと思えば、羽織っていた水色のコットンシャツをばさりと脱ぎ出すので再び驚いてしまう。
鼻先を、優しい洗剤の匂いが掠めた。
半袖のTシャツだけになった滝沢の、綺麗な体の稜線が急に目の前に現れてどぎまぎしてしまう。
「おいで、子猫ちゃん」
そして子猫を優しく抱き上げた滝沢は脱いだ自分のシャツに小さな体を包み、「アルが通ってる病院の先生なら安心なので連れて行きますね。柚原さんも一緒に来ますか?」と一度私に渡したアルのリードを受け取る。
「それはぜひ、ご一緒します…!」
「なら一緒にうちのほうまで来てもらえますか?アルのこと家に置いて、それから俺の車で病院に連れて行きますんで」
「わかりました、あ、猫ちゃん持ちますね!」
「びっくりしても落とさないでくださいよ?」
「頑張ります…!」
意気込む私を滝沢が悪戯っぽく笑った。
それから滝沢のシャツごと子猫を受け取った私が細心の注意を払って抱いていると、「柚原さんにそんなに緊張されたら猫も落ち着きませんよ」と軽く背中を叩かれる。
アルに謝ってから来た道を引き返してゆく滝沢の横に並んで、可愛い子猫を抱き締める。午前中の穏やかな日差しの中で、白いTシャツに包まれた滝沢の美しい背中が少しまぶしい。
滝沢の住まいは公園から歩いても10分程の距離にあり、本当にご近所さんだった。ヴィンテージマンションだというそこは、築年数は40年近いそうだが、ダークブラウンで統一されたレトロな外観がどこか懐かしくて、なんだか滝沢らしいと思った。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、あの、でも、大きいお車ですね…」
「乗りにくいですよね。俺、猫持っときますんで先に乗ってください」
滝沢がマンションの駐車場から回してきてくれた車は、大きな黒のSUVで、国産車だった。それを少し意外に思っている間もなく、「どこでも足掛けちゃって大丈夫なんで」と猫を受け取り、助手席側のドアを開けてくれる。
そして少し苦労しながら車に乗り込んだ私の膝の上に子猫を置き、滝沢も運転席に座った。後部座席にはアルのオモチャだろう、フリスビーやぬいぐるみが置かれていて微笑ましい。子煩悩ならぬ犬煩悩だ。
車は中野方面に向けて車幅の狭い道をのろのろと進む。車載ラジオからは流行りのドラマ主題歌が流れていた。他愛ない会話をしている間に、車はいつの間にか動物病院に到着していた。近くのコインパーキングに車を停めた滝沢がまた先に回り込んで子猫を預かってくれ、私はやや危なげな状態で、助手席をどうにか降りた。
子猫を抱いたままの滝沢が病院のほうへと歩いていくのを追いかけながら、私は見慣れない静かな街並みをきょろきょろと見回した。
パーキングから歩いて二分程の場所にある動物病院は、円柱状の建物の外壁がパステルイエローに塗られた可愛らしい外観で、自動ドアの奥には既に、犬や猫をはじめとした多くの動物たちの姿が散見される。
「すみません、先程連絡した滝沢です」
「ああ、アルくんの!」
こんにちは!と受付に座っていたナース服姿の女性が明るい挨拶を口にする。アルの掛かりつけの動物病院というだけあって、看護師さんとも顔見知りらしい。
慣れたように看護師さんと会話を進めていた滝沢の後ろに隠れるように立っていた私は、突然自分に話を振られて内心どきりと驚きながら、慌てて看護師さんからバインダーに挟まれた問診票を受け取った。
「とりあえず向こう座りましょうか」
「これ、まだ何もわからないことばっかりで…」
「多分女の子ではありますね。他は埋められる範囲で埋めておけば、捨て猫だってことは俺から事前に伝えてあるので」
結局滝沢に指示されるまま穴だらけの問診票を埋め、子猫を獣医の先生に預けて健康診断をしてもらったあと、そのまま未接種と診断されたワクチン接種もしてもらうことにして、ひとまず全部の診察を終えた。
「さて、問題はこっからですね」
「里親探しってやっぱり難しいですかね…」
とりあえず家まで送ります、と言ってくれる滝沢に今は甘えることにして、私は行きと同じく助手席に収まった。不慣れな病院で疲れてしまったのか、子猫は私の腕の中でぐっすりと眠りこんで当分起きる気配はない。
「うちはアルがいるからな……共存もできなくはないだろうけど、最近部署の異動があって残業が随分増えたんですよね」
「それは、さすがに厳しいですよね」
「柚原さんは動物飼うの難しいんでしたっけ?」
「わたしの、ところは…」
柔らかなその丸い背中を指でなぞる。
フロントガラスから差し込む陽のひかりを浴びた小さな体が少し熱いくらいで、私は子猫の体に滝沢のシャツを被せた。
(どうしよう、でも…)
私に動物なんて、飼えるだろうか?
自分の面倒だって見切れないような人間なのに。
今この腕の中にある優しいぬくもりが奪われてしまうことなんて、絶対に起こって欲しくない。でも私に生き物を飼う資格なんて、本当にあるのか心許なくて。
「こんな言い方、無責任かもですけど」
「…はい」
「動物を飼うってもちろん覚悟も必要なことですけど、それと同じぐらい勢いだって必要じゃないかと思うんですよね。正直俺もアルのこと飼いはじめたの、結構勢い任せだったし。今それだけ真剣に飼い主が自分に務まるかって悩めるなら、柚原さんは大丈夫だと思いますよ。自分の気持ちに従って行動しても」
もちろん決めるのは柚原さんですけど。
そう言って、滝沢は一瞬だけ私に視線を流した。
けれど優しげな色を帯びたアンバーの瞳はすぐにフロントガラスの向こうに取られてしまう。胸の奥がとくんと大きな波を打って、そこから広がるゆるやかな波紋は、どこか無鉄砲な逞しさで私の心を満たす。
「…滝沢さん、このあとお時間ありますか?」
「特に予定はないですけど何かありました?」
「なら、この子の首輪を飼いに行くのに少し付き合っていただけませんか?」
首輪の他には、どんなものがいるだろう?
深い眠りの中をさまよう子猫の額をそっと撫でる私の隣で、滝沢がくすりと笑う。そのときちょうど赤信号に捕まった車が停車すると、綺麗な顔がこちらを向いた。
「お安い御用ですよ、ご主人様」
ああ、うっかり乗せられてしまっただろうか?
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
それから滝沢に付き合ってもらって猫の飼育に必要なものを一通り揃えてから家に戻ると、西日が強く差す頃だった。自宅のマンションの前で車を降りると、「なんか結局柚原さん家の知っちゃいましたね」とこの間の会話を思い出したように滝沢が呟いた。
「知らない男に教えちゃダメとか言っといてね」
「でも滝沢さんはもう知り合いでは?」
「まあ、それもそうか」
一緒に子猫を拾った仲ですしね、と笑う。
今日だけで色々とめまぐるしすぎたおかげで滝沢とも急に仲良くなれたみたいで、嬉しい。それに自宅のご近所さんに滝沢がいてくれるのはかなり頼もしいので。
「何か猫のことで困ったこととかあったら気軽に相談してくださいね。俺も、できる限りのことはするつもりなので」
「何から何まで本当にありがとうございます」
「乗り掛かった舟ですから」
そう言って私が腕に抱えた子猫の頭を撫でる滝沢は、少し見惚れてしまいそうなほど甘い表情で微笑むので、その甘やかな瞬間にうっかり浮かれそうになる自分を叱責し、私は正しい方向へと話を軌道修正させる。
「あの、滝沢さんにはいつも助けられてばかりで申し訳ないので、なにか私にもお礼できることがあれば言ってくださいね」
「はは、お気持ちだけで十分ですよ」
「でも……あ、例えばなにか欲しいものとか!」
「え、いや、まじでいいですって」
「いえ、人様からの親切には礼を尽くせと母が」
「そう言われましてもー…、あ」
ふと閃いたように、滝沢が屈めた背筋を伸ばす。
「柚原さんってクラシックとか聴きます?」
「え?あ、えっと、下手の横好きですが、高校卒業まではピアノを習っていたので、クラシックは大好きですけど…」
本当に、下手の横好きで恥ずかしいのだけど。
しかし淑女の嗜みとしてピアノぐらいは齧っておけと大叔母様から言われて、ちっとも上達しないながらに十年以上は習っていたので、知識だけは多少身に付いた。
「実は友人からピアノの演奏会に誘われたんですけど、その後にレセプションパーティーまであるとかで、さすがにひとり参加は厳しいので一緒に出席してくれる相手を探してたんですが、どうも相手がいなくて…」
「え、お相手いないんですか?」
「今恥を忍んでそう言ってるのに嫌味ですか?」
「あ、いえっ、そういう意味では…!」
思い切り顔をしかめた滝沢に、慌てて否定する。
だって滝沢なら女性に困ることはないと思って!
咄嗟に失礼なことが口を衝いて出てしまったことを勢いよく謝罪すると、本気で腹を立てていたわけではないらしい滝沢はすぐに相好を崩し、「なのでもし都合が良ければ」と来週の土曜日の予定を尋ねられる。
「あ、予定は大丈夫なので、私でよければ…」
「もちろんですよ、助かります」
「えっと、はい」
なんだか思わぬ方向に話が転がってしまった。
車のトランクから買ったばかりの荷物を下ろした滝沢が、「連絡先聞いても?」というので、そういえばまだ連絡先の交換さえしていなかったことに気付いた。
「あ、はい、もちろんです」
「ならまた前日にでも連絡しますね」
「あ、アイコンの画像アルですね、可愛いです」
「女子ウケ狙ってるので」
そんな冗談を言って去っていった滝沢を子猫と一緒にお見送りしてから、目に付いたものから次々カートに突っ込んでしまったおかげで買いすぎた猫の世話道具たちを苦労しながら運び、なんとか部屋に辿り着く。
腕の中で子猫が小さく鳴いた。
見慣れない部屋に少し警戒しているのがわかる。
「気に入ってくれるといいんだけど」
廊下にそっと子猫を下ろすと、きょろきょろと周囲を見回して、それから怖々とした足取りで歩きはじめた。私はその小さな背中を熱心に見つめて子猫の後ろをついて回る。
大丈夫、私はここにいるからね。
絶対にあなたを捨てていなくなったりしないよ。
だからね、もしよかったら、この家で私と一緒に暮らしませんか?
「なんかプロポーズみたいかな?」
そうひとり言を呟いて笑った私を不思議そうに見上げた丸いふたつの瞳は、よく見ると青っぽい瞳の縁が黄色味を帯びた綺麗なアンバーをしていることに気がついた。
「大人になったら色が変わるのかな?」
そしたら滝沢さんとお揃いだね。
素敵な未来を楽しみに、私は子猫に笑いかけた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「え、猫ちゃん飼い出したんですか?!」
茶トラの子猫だ!超可愛い~!とはしゃいだ声が部屋に木霊する。私は今朝早起きして買い出しに行き、食材たちと格闘しながらなんとか作り終えた夕飯の料理をリビングのダイニングテーブルの上に並べた。
「そうなんです、昨日すぐそこの公園で拾って」
「今時捨て猫なんかいんの?」
「めずらしいよね」
冷蔵庫の中からビールの缶を取り出している幼馴染みの豊川夕鷹が、リビングのソファーで周囲を警戒する子猫を遠巻きに見遣り、もの珍しそうにしている。
大興奮の様子で子猫のほうに視線を釘付けにしているのは、夕鷹の恋人の深山万緒だ。万緒は少し圧倒されてしまいそうなくらい綺麗で華やかな顔立ちをした美人さんで、テレビに映る芸能人と比較したって勝るとも劣らない。
だがそんな彼女も今は子猫の可愛さにメロメロのご様子で、なんだか親近感を覚えた。美しい人も子猫を可愛いと思う気持ちは同じなのだ。すると万緒はニコニコしながら「名前はもう決めたんですか?」と無邪気に尋ねてくるので、胸がきゅんとしてしまう。
「いえ、昨日からずっと迷ってるんですけどまだ決められずじまいで…」
「まじで佳乃は昔っから優柔不断だからな」
「慎重で思慮深いの、佳乃さんは」
「いや、お前が佳乃の何を知ってんだ酒乱馬鹿」
「幼馴染みマウントやめろ性悪河童」
「誰が河童だ禿げてねえわ!」
ものすごい罵詈雑言が次から次へと頭の上を行き交うから笑ってしまう。まるで夫婦漫才のようなふたりの会話はいつ聞いてもおもしろくて、全然飽きが来ない。
不慮の事故で巳影が亡くなったあと、私と夕鷹は長らく形だけの婚約関係にあった。けれど去年の春に夕鷹が赴任先のベルリンから帰国して、同じ会社の同期だった万緒と仲良くなって、ふたりはとても他愛なくて素敵な恋をした。
已むに已まれぬ事情があったとはいえ、本当なら自分の恋人と婚約していた女のことなんか嫌って当然だろう。なのに優しい万緒はこんな風に私とまで仲良くしてくれる。その懐の広さにすっかり甘えて、この間はふたりの家にご招待いただいたお礼に、今日は覚えたての下手な料理を私が振る舞うことになった。
「てか佳乃は名前候補とか考えてねえの?」
「今が生後1カ月ぐらいで春生まれだからサクラとかハナとかかなって」
「お、ハナいいじゃん呼びやすくて」
「確かにハナちゃんは普通に可愛くていいかも」
「ほんと?ならそうしようかな」
夕鷹と万緒が喧嘩ばかりするのが少し怖かったのか、私の膝の上に避難していた小さな子猫の頭を撫でて「ハナちゃん?」と試しに呼ぶと、無垢な丸い瞳がこちらを振り向くので、もしかして気に入ったのかな?
「おー、命名だな」
「歴史的瞬間に立ち会っちゃったね」
「なんか名前つけたら急に実感湧いてきたかも」
本当にうちの子になったんだな、とハナの首輪にぶら下がった小さな鈴を指先で揺らす。ちりんと淡い音が鳴ると、ハナは前足を私の胸のあたりに掛けて立ち上がった。
あああ、なんて可愛いんだろう。
滝沢の言う通り、勢いだって大事かもしれない。
「佳乃さ、なんつぅか、最近どうなの?」
「え?最近ってなんの話?」
少し慣れてきたらしいハナの相手を万緒がしてくれているタイミングを見計らったように、夕鷹は中身が空になった私のお猪口にお酒を注ぎながら切り出してくる。
「だから、ほら、縁談来てんだろ?」
「…うちの親に探って来いって言われたの?」
「俺は言われてねえけど、うちのババアが佳乃の母ちゃんが心配してるからそれとなく探って来いとか言ってうるさくて」
「え、全然それとなくないじゃん」
「だってそれとなくとか難易度高すぎだろ」
「まあそれは確かにね」
気まずそうな顔の夕鷹に苦笑した。
夕鷹が責任を感じることなんかなにもないのに。
お互いにとって特別大事な人を失った悲しみを分け合うように、夕鷹の傍にいた。ふたりを繋いだ関係性が不健全なものだってことぐらい最初からわかっていたのに。
「ちゃんと会う気ではいるよ」
「…俺が言うのもだけど、無理してない?」
「意外と会ってみたらすごい素敵な人でサクッと結婚しちゃうかもしれないもんね。たまには勢いも大事だって、ハナのこと飼うって決めたときに学んだから大丈夫」
だからそんな顔しないでよ、夕鷹。
向こうで話を聞いている万緒まで心配しちゃう。
もう悲しい出来事の前で立ち止まっていられる時間は終わってしまったんだ。それは別に誰のせいでもなくて、ただ当たり前の摂理として、決然と訪れてしまうもの。
――ああ、でも、きっと。
(あんな恋をすることは、もうないんだろうな)
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