永遠の終わりに花束を

#03 スケルツォは夜に踊る

どんな服を着るのがいいだろう?
寝室に置いた鏡の前でファッションショーを開催する。滝沢から事前に聞いた立食パーティーの開催場所は都内の高級と冠のつくホテルだが、基本的にはお世話になった知り合いを集めての日頃の感謝を伝えるのが主な目的だと言っていたので、それほど大規模な催しというわけではないらしいけど。
というか、そんな和気藹々とした場に無関係な私が参加してもいいのだろうか?
「えー、変じゃないかなあ?」
どのドレスに袖を通してもダメな気がする。
結局家を出る時間ギリギリまでドレス選びに手間取り、大慌てで予約していた美容院でヘアセットをしてもらい、なんとか身支度が整った私は待ち合わせ場所の本屋さんへと向かう。
青山通り沿いを早足で歩きながら目的の場所に辿り着くと、入り口から少し離れた場所にスーツ姿の滝沢が立っていた。濃灰色の細身なフォーマルスーツを身に纏った滝沢は、普段額のあたりでさらさらと揺れている前髪をざっと持ち上げ、銀の腕時計に視線を落とす。私は見慣れない滝沢の姿に思わずたじろぎ、声を掛けるのを躊躇いながらオドオドした。
「あ、柚原さん、早かったですね」
「え、う、あ、はい……美容師さんがお上手で」
「さすがにそんな恰好してると普段と全然雰囲気違いますね、髪もすごい似合ってます」
しかしここは青山のど真ん中。
当然逃げる場所も隠れる場所もありはしない。
早速私を見つけてしまった滝沢が駆け寄ってくるのに居た堪れず俯きながら、ああ、ネイビーのネクタイもお似合いだなんて視界の端で見つけた着こなしに舌を巻く。
「そ、んなお世辞を……ありがとうございます」
「全然お世辞なんかじゃないですけど」
「滝沢さんも、あの、今日はすごく格好良くて」
「やっぱり普段はダサかったですか」
「ええっ?いや、決してそういう意味では…!」
「はは、冗談です」
ようやく目が合いましたね、と咄嗟に顔を上げた私を覗き込むように背中を屈めた滝沢は、意外と意地悪かもしれない。自分の顔に熱が集中するのを自覚しながら、手に持っていたバンドバッグを握り締める。
「そのドレスもすごく綺麗ですね」
「…色々着てみたんですけどこのぐらいの感じで大丈夫だったでしょうか?」
「もちろん、参加者全員に自慢して回れます」
そう悪戯っぽく囁いて目配せをしてきた滝沢に背中をそっと押され、通りを走っていたタクシーを捕まえて乗り込んだ。
「会場は渋谷のほうですよね」
「はい、会場からホテルまではすぐなんで」
「楽しみだなあ、クラシックのコンサートなんて随分久しぶりな気がします」
「俺も日本戻ってからは初めてですね」
「滝沢さんもピアノを習われてたんですよね?」
「俺も下手の横好きでしたけどね」
今日の主役は、ピアニストの天羽菫さんだ。
今回の経緯を事前に尋ねたところ、子供の頃から仲の良かった幼馴染みが日本でリサイタルを開催するから来てほしいと強請られたと言い、そしてその主催者は誰かと聞いたら、世界的にも有名な女流ピアニストの名前が挙がったので、画面越しに相当驚いた。
「菫も一時期ドイツに住んでたんですよ」
「偶然一緒のピアノ教室に通われてたんですか」
「そうですね、でも俺も含め、菫は最初から他の生徒とはモノが違ったんで」
天才ってやつですよ、と滝沢が気軽そうに笑う。
取り留めもない会話を連ねている間に、私たちを乗せたタクシーは会場に到着した。入り口で招待チケットを手渡してすぐホール内に入ると、まだ開演まで少し時間があるおかげか、場内に人の姿はまばらだった。
「ショパンにラヴェルにドビュッシーか、どれも静かな選曲で菫らしいな」
「静寂と夜想、素敵な演題ですね」
「技巧より表現で魅せるタイプの演者ですしね」
「私、月の光とか大好きです」
クロード・ドビュッシーの作曲した月の光は幻想的で切ないメロディが特徴的な、印象派音楽の代表的な作品だ。詩人ヴェルレーヌや象徴派文学に影響を受けたとされるドビュッシーの楽曲はどれも詩的な表現が多く、まるで絵画のように、彼の瞳に映った景色がそのまま音楽に乗って心の奥に流れ込んでくる。
「印象派大好きなんです、美術も音楽も」
「ぽわんとしたのが好きなんだ」
「難しいことはあまりわからないんですけど、絵画も音楽も、直感的に好きだなって思うものは印象派のものが多くて」
確かにぽわんとしたものが好きなのかも。
けれど彼らの創作の裏側に確かに透ける信念と情熱を、私は愛しているのかもしれない。自分の信じたもののために戦える人は格好いいから、私は憧れずにはいられない。
「音楽の印象派は、美術に比べれば比較的早い段階で世間にも受け入れられたけど、それでも当然批判も多かったですからね。俺はワーグナーとかマーラーの重厚な音楽も好きでしたけど、菫にはあんま似合わないな」
そう言って、滝沢が手元のパンフレットに視線を落とした。それこそ西洋絵画のように端正なその横顔がそっと口元だけで笑みを作ると、何故だか妙に寂しげに見えて。
一瞬、口にする言葉を迷ってしまう。
けれど間が悪くそこで照明がゆるやかに落ちた。
光差す舞台の中央に、可憐な藤色のドレスを着た女性が現れる。彼女は聴衆に向かって深々と一度お辞儀をし、それから大きなグランドピアノの前に座ってゆっくりと深呼吸をした。
夜の凪いだ湖面に淡い月のしずくがそっとこぼれ落ちるかのように、静謐にはじまる音楽。美しいバッハの調べに耳がとろけてしまいそうで、けれど私は演奏会の間中ずっと、悲しいほどに優しいまなざしを舞台へとそそぐ隣の席の彼のことばかりが気になって。
――ねえ、どうして、そんなに。
苦悩に満ちたような瞳で彼女を見つめているの?
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
演奏会場から歩いて数分程の距離にあるホテルの宴会場には、既に関係者と思われる人たちが数十名集まっていた。私と滝沢は少し場違いだと言い合いながら壁際に寄き、入口で手渡されたシャンパンに口を付ける。
パーティーは昔から少し苦手だ。
誰となにを話しても、仲良くなれた気がしない。
「あ、直樹、来てくれたんだ!」
それにしても滝沢が壁際に立っているとまさしく壁の華だな、と馬鹿みたいなことを暢気に考えていたら、鈴が転がるように柔らかな声が背中から聞こえてきた。
「菫、おつかれさま、最高だったよ」
「…本当に下手くそなところとかなかった?」
「あるわけないだろ?さすが女流ショパンの名は伊達じゃねえよな」
艶やかな長い黒髪が背中のあたりで芸術的な曲線を描き、ドレスから出た肌理の細かな白い肌の美しさを際立出せている。日本人らしくやわらかに整った顔立ちを控えめな笑みで染める美貌のピアニストを労うように、滝沢もまた優しげな笑みを向けている。
「でも、直樹は耳がいいから」
「そんなのプロのピアニストに言われてもな」
「え、でも私、本当に耳の良さは直樹にちっとも敵わなかったと思ってるよ?」
先輩と同じだね、と目尻を垂らした菫の瞳がふと私に気付いて丸くなる。
「え、ねえ、直樹、この方は…」
「ああ、俺の連れだよ、友人の柚原さん」
「やっぱり!あ、ごめんなさい、あの、前に一度亀田大臣のパーティーで……」
ああ、覚えていただけてたのかと内心苦笑した。
実は菫とは何年か前に一度、財務大臣の亀田氏主催のパーティーで会ったことがあるのだ。お互い父親同伴で挨拶を交わしたのだけど、おそらく私のことなんか覚えていない可能性が高いだろうと思って黙っていた。
「え、なに、どういうこと?」
「亀田大臣の当選何期目かのパーティーで」
「そうじゃなくて、菫はわかるけど、柚原さんが何でそんな場に出席すんの?」
滝沢は至極不可解そうに眉根を寄せる。
それに今度は菫のほうがきょとんとしてしまう。
菫のご実家は世界的にもトップクラスのシェアを誇る楽器メーカーを運営しており、彼女の父親は確か、うちの父と同じく経団連の副会長を長らく務めているはずだ。
「なんでって、柚原さんは、東洋ガラスの代表取締役のご息女だから…?」
「は?東洋ガラスってあのガラスメーカーの?」
「え、もしかして、知らなかった…?」
秘密でしたか?と菫の大きな瞳から動揺した声が今にも聞こえてきそうで、申し訳なくなる。別に隠していたわけじゃないけど、わざわざ吹聴することでもないから……。
「あ、全然、申し出る機会がなかっただけで…」
「それは先に言ってくださいよー…」
「なんかすみません」
「いや、絶対いいとこのお嬢様だろうなって気配はプンプンしてたんですけど、さすがにそんな規模は想定外だわ…」
大抵素性を知られるとこういう反応が返ってくるのでもう慣れたけど、なんだか居た堪れない。実家がどういう家柄でも、私という人間の価値が上乗せされるわけではないのに。
まじかぁー…と項垂れている滝沢をなんとなく菫と一緒に見守りながら、「でも直樹とはどこでお知り合いになられたんですか?」と聞かれ、「家がご近所さんで」とこれまでの経緯をひと通り説明した。
「あ、直樹、先輩にはもう会った?」
「え?蒼も来てんの?ってそりゃ当然来てるか」
「詩のこと送ってから来るって言ってたから多分もうすぐ来るんじゃ――」
そこで、菫の声が不自然に途切れた。
背後からその名前を呼ぶ硬質な声がしたからだ。
「菫、ここにいたのか」
その声の聞こえたほうへとなにも考えずに視線を流すと、滝沢よりもまだ少しだけ背の高そうな男の人がひとり――ひと目で仕立てが良いとわかる黒のスーツを身に纏い、迷いのない足取りで菫の傍に歩み寄った。
美しい骨格にぴたりと寄り添うスーツの襟元から伸びた長い首の先にある顔立ちは、やや厳めしく整っていて彫りが深い。切れ長の目元はどこか鋭利で、大型の猛禽類を思わせる。
これは滅多にお目に掛かれないレベルのご尊顔だと、つい狼狽えた。そして今この半径一メートル圏内の顔面偏差値の高さと、あきらかにひとりでその足を引っ張ってしまっている自分を省みて肩身が狭くなる。
「露風さん!」
「蒼から渋滞巻き込まれたとか連絡きたぞ」
「え?そうなんですか?」
「だからタクシー乗せろっつったのに過保護が」
「でも渋滞なら仕方ないですよ」
不服そうに顔をしかめる露風と呼ばれたその人を見上げて、菫はそっと彼の腕に指先を添えた。この使い古された比喩は彼女のためにあったのではと思うくらい――慎ましい花が綻ぶように、菫はあまやかに微笑んだ。
「ねえ、露風さん、紹介してもいいですか?私がドイツにいた頃の幼馴染みの直樹と、そのご友人の柚原さんです」
「ああ、どうも、織木と言います」
逆に織木と名乗った彼は必要最低限の愛想だけを持って、私たちに軽く会釈をした。しかしそれが織木の通常モードなのか、菫のほうは特に気にした様子もなく、ぶっきら棒な織木の顔をにこにこ見つめている。
「露風さんはね、先輩の高校時代のご友人で、今は慶明大で心理学科の准教授をされてるの。去年の春頃から、私もほら、ちょっと色々あったからお世話になってね」
「ああ、じゃあ――あの時の?」
「直樹にも心配掛けちゃったよね、ごめんね」
困ったような微笑みを滝沢に向けている菫の隣には、織木がじっと黙したまま寄り添っている。指先を絡めるでも、腰に腕を回すでもない。ただふたりは並んで立っているだけなのに、何故だか無関係の私にさえ、織木と菫の関係性は明瞭すぎるほどに伝わってきた。
だから、当然滝沢だって気付いているのだろう。
彼は優しくて聡い人だから。
「そっか、なら、ほんとに良かったな」
大切な幼馴染みの門出と幸福に、心からの祝福を捧げるような滝沢の言葉と笑顔の奥に――今にも泣き出してしまいそうな寂寥が透けていることが私の胸にまで迫る。
ああ、もしかしたら、たった今。
――彼の恋は失われてしまったのかもしれない。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「あれ、直樹、もう帰るのか?」
菫への挨拶さえ終えてしまえば長居は不要だと滝沢が言うので、私もそれに従ってパーティー会場を後にし、ロビーまで下りると不意にまた滝沢が声を掛けられた。
それに振り返り、私は再び驚いてしまう。
背後にまた著名なピアニストが立っていたから。
「ああ、蒼か、渋滞は抜けてきたのか?」
「まあなんとかギリギリな」
「俺のほうは菫にも挨拶は済ませたからな。他に業界の知り合いがいるわけでもねえし、早めに退散させてもらうわ」
気安い調子で滝沢と言葉を交わしている背の高いその男性は、ピアニストの月島蒼さんだ。その端正なルックスと類まれな超絶技巧から東洋のフランツ・リストとの異名を取り、現在のクラシック音楽界では菫とも肩を並べるほどの人気を博している。
「あれ、そちらの女性は…」
「俺の連れの柚原さんだよ、友人なんだ」
「え、なら先に言えよ。ご挨拶が遅れて申し訳ありません、月島と申します」
いつも直樹がお世話になってます、と挨拶をする月島に少し違和感を覚えながら、私も簡単な自己紹介のあとで頭を下げた。
「あ、柚原です、こちらこそ滝沢さんにはいつもお世話になってばかりで…」
「てか蒼、お前こそ早めに顔出しに行けよ」
「あー…それもそうだな」
話の流れを遮るように人差し指でパーティー会場のある上階を指す滝沢に、月島は少しバツが悪そうな顔で私を見たあと腕時計を確認した。確かに割りと大幅な遅刻だ。
「来月、律が一時帰国する予定なんだ」
「知ってる、俺のほうにも毎日連絡入ってるし」
「はは、相変わらずべったりだな。まあそれなら話が早い、諸々予定が決まったら直樹のほうでも面倒見てやってくれ」
「あれ、ちょっとブラコン入ってね?」
「とか言って嬉しいくせに」
「うるせえよ」
じゃあまたな、と爽やかに笑って滝沢の肩を軽く押した月島は、私にも簡単な会釈をしてから螺旋階段を登ってゆく。その姿はさながら中世の王子様のようで、さすがピアノの貴公子の名をほしいままにしてきた御仁である。
受付カウンターに預けていた荷物を受け取った私と滝沢は、そのまますっかり夜に沈んだ外の景色に時間の経過を実感する。とはいえまだ夜の8時を過ぎたばかりで、渋谷の街はにぎやかな活気にあふれている。
「月島さんともお知り合いだったんですね」
「え?あー…、まあそうですね」
珍しく歯切れの悪い調子で滝沢が頷いた。
春の夜はまだ少し肌寒いので、私は新調したばかりのスプリングコートを羽織りながら滝沢のあとを追ってホテルを出た。
「柚原さん、腹とか減ってませんか?」
「あ、そうですね、会場で食べなかったので…」
「もしよかったら今日の礼に飯ぐらいは奢らせてください。この近くに知り合いの店があって結構雰囲気もいいんです」
決して高級フレンチとかじゃなくて申し訳ないんですけど、と茶目っ気たっぷりに目配せする滝沢に恐縮した。そんな、私だって、別に毎日高級なものばかり食べているわけでは…!
滝沢に誘われるがままホテルの前に停まっていたタクシーに乗り込み、滝沢が慣れたように繁華街の地名を運転手に告げた。滝沢はまだ東京に来て二年ほどだと言っていたけど、私よりこの街に馴染んでいる。
「わあ、素敵なお店ですね…!」
「ちょっと前に弟が色々世話になってた店で」
「弟さんいらっしゃるんですか?言われてみたら確かにお兄さんっぽいですね」
滝沢が連れてきてくれたのは、繁華街にあるビルの地下にあるお店だった。雑多で猥雑な渋谷の街の雰囲気からは少し距離がある、落ち着いた内装の店内には、ステージの上に大きなグランドピアノが置かれている。落ち着いたオレンジ色の照明の中で、煌々と白く照らされたステージがひと際目を引いた。
「おお、直樹くんか、久しぶりだね」
「西崎さん、ご無沙汰してしまってすみません」
「仕事が忙しいんだろ?律くんは向こうで順調に活躍できてるようだね」
カウンターの奥でグラスを磨いていた白髪交じりの西崎という初老の男性は、パリッとしたシャツの上に黒いベストを着た出で立ちで、私たちにカウンター席を勧めた。
「おや、初めましてのお連れさんですね」
「友人の柚原さんです、さっき菫の演奏会に付き合ってもらった流れでここに。結局パーティーで何も食ってないんで」
「ああ、それはお腹が空いたでしょう」
「柚原さんって酒はあんまり飲まないですか?」
「あ、いえ、お酒は割りと好きで…」
こう見えて、実はお酒は結構得意なほうだ。
母の遺伝なのか、今まで一度も酔っ払った経験がなく、多分お酒には酔わない体質なのではと勝手に思っている。
「え、酔ったことないって相当ですね」
「母も同じ感じなので多分遺伝じゃないかと…」
「ちなみに好きな酒は?」
「洋酒が好きで、スコッチとかですかね」
「本気で酒好きな人が選ぶやつじゃないですか」
「味は好みなんです、酔わないけど」
しかも私は自分でも童顔な自覚があるうえに背も低いので、周囲からはお酒に弱そうだと思われているらしく、はじめてこの話を聞いたひとからは驚かれることが多い。
「私もスコッチは好きでね、色々揃えがあるので何かお注ぎしましょうか?」
「あ、えっと、じゃあ何かおすすめを…」
「飲み方はどうされます?」
「じゃあストレートでお願いしようかな?」
それに隣の滝沢がまた驚いたように目を丸くするから苦笑して、「本当に酔わないので、ご迷惑をお掛けすることはありませんから…」と一応の弁明を添えておく。
「いや、全然そういう意味じゃなくて、意外性満載ですごいっすね」
「逆に炭酸はあまり量を飲めなくて…」
「はは、アルコールより炭酸のが天敵なんだ?」
「お腹いっぱいになりませんか?」
別段嫌いなわけではないけれど、柑菜や万緒が何杯もビールやハイボールのジョッキを空にするのを見るたび、あのぺたんこのお腹のどこに炭酸が消えているのだろうかと不思議でならない。私は二杯が限度だ。
「西崎さん、俺はとりあえずビールで」
「そういえば律くんが一時帰国するそうだね」
「ああ、多分月末ぐらいには」
「もし時間があればうちにも連れて来てくれ」
久しぶりにあそこで弾いて欲しいからね、と西崎が視線でステージのほうを指した。それに滝沢は笑顔で頷き、「アイツなら喜んで弾きますよ」と楽しげな声を出す。
「あの、律さんって方が…」
「俺の弟で、今はプラハでピアノ弾いてます」
「そうなんですね!あれ?でも月島さんもなんか家族のような感じで……」
今日だけで次から次へと明かされる滝沢の周辺情報に、まだ頭が追い付いていない。さっき月島と滝沢が喋っている時も律という名前は登場していたけれど、なんだか月島のほうが家族のような口振りだった気がして。
「あー…、その、なんて言うか、結構込み入った話で申し訳ないんですけど、俺と蒼がそもそも兄弟なんですよ」
「えっ、でも、苗字が…」
「腹違いなんでね、俺は愛人の子です」
俺は父親の戸籍には入ってすらいないんで戸籍上は赤の他人なんですけど、と、それほど気にした様子もない表情で話を進める滝沢に、私は二の句が継げなくなる。
「一応数ヶ月だけ蒼のが早く生まれてるんで兄貴にはなるんですけど、別に同じ家で育ってとかでもないし、なんか微妙な立ち位置で。元々は結構仲も悪くて……でも色々あって今はなし崩し的に雪解けした感じで」
無駄に重たい身の上話ですみません。
そう言って気楽そうに笑う滝沢に、胸が痛んだ。
けれど今、部外者の私が勝手にシリアスな空気を作って滝沢に気を遣わせてしまうのも、それはそれで違うような気がして。どんな顔をすればいいのかわからず曖昧に頬を緩める私に、西崎がグラスを差し出した。
「直樹くんも、相当上手だったと聞いたよ」
「それって律からでしょ?俺は音大の入試にすら受からなかったのに、あんな頭のてっぺんから爪先まで才能の塊みたいな弟に言われても、素直に喜べないっすよ」
カウンターの上で頬杖を突くように項垂れる滝沢は、普段の彼より少し子供っぽく見えた。そして西崎から手渡されたビールのグラスを無言で私のほうに傾けるので、控えめに合わせたグラスが繊細そうな音を立てる。
「受けたのはベルリン芸術大学だろう?」
「あ、記念受験って概念をご存じないですね?」
「その割りにはあの月島蒼とも何度もコンクールの上位を競ってたらしいじゃないか。律くんも子供の頃はよく君にピアノを習ってたって得意げに自慢してたよ」
そんな経歴が!と心の中で声を上げた。
滝沢の言葉のニュアンスからして、ピアノは子供の習い事程度のものかと思っていたけど、あの月島蒼とコンクールで上位を競っていたというなら全然話は変わってくる。
「…うちの弟は若干ブラコンなんですよ」
「なら久しぶりに一曲弾いてみるのはどうかな」
「え?いや、無理ですよ、もう何年もまともに鍵盤に触れてもないですし…」
滝沢は慌てたように軽く手を振った。
しかしそれでも、西崎は攻めの姿勢を崩さない。
「幸いまだお客さんもほとんどいない」
「にしたって、もう指が回る気もしないですし」
「ねえ、柚原さんはどう思います?」
「え、わ、私ですか…?」
唐突に話を振られてびっくりした。
そんな、今の状態で私がどう思うも何も……。
私は咄嗟に滝沢と西崎の顔を交互に見比べながら困惑し、ええっと…と適切な言葉を探す。けれど心の片隅では少し、邪な願望が顔を出してもいたりするから。
「…柚原さん、考えが顔に出過ぎです」
「女性からの頼みを断るなんて男が廃るよね?」
「え、あ、いえ、強要するつもりは…」
「さて、どうする直樹くん?」
お茶目にウインクを飛ばす西崎を恨めしげにねめつけた滝沢が、心の底から憂鬱そうに、海よりも深いため息を吐き出した。
――そして、
「他の客からクレーム入っても知らねえからな」
盛大な舌打ちを放って立ち上がった滝沢が背広を脱ぎ、ワイシャツの袖を乱暴にまくった。そして雑にネクタイの結び目を緩めた滝沢は、どこか挑戦的なまなざしを西崎に向ける。
「で、なに弾けばいいんですか?」
「リクエストまで聞いてくれるのかい?」
「今さら足掻いても逆にダサいんで弾きますよ」
「そうだな、ショパンのスケルツォ第2番なんか君に似合いそうだな」
「…嫌がらせみたいな難曲じゃないですか」
「でも弾けるだろ?」
どこまでも挑発的な西崎に、滝沢は顔を顰めた。
しかしもう抵抗する気はないのか、深く息を吸い込んで、滝沢は踵を返した。そのまま革靴の先は真っすぐに、ステージの中央に置かれたグランドピアノへと向かう。
「さて――あの月島蒼に劣等感を抱かせ、あの月島律が憧れた男のお手並みを拝見できるとは随分贅沢な夜になりそうだ」
そう、西崎が興味深そうに独白した。
彼の声の響きはどこか満足げな色を帯びている。
聴衆にお辞儀をするようなパフォーマンスもなくピアノの前に腰かけた滝沢は、左右に首を軽くかしげるように骨を鳴らし、それからそっと鍵盤に指先を置いた。
ほんの一瞬、店内に静寂が満ちる。
それを切り裂くように透き通った音色が響いた。
どこか不安定なメロディーラインの冒頭から突然のフォルティッシモが印象的な導入部分を抜けると、情熱的でドラマチックな主題が走り出す。力強く跳躍するようなパッセージは、もう何年も演奏から離れていたとは思えないほどなめらかだ。
主題とは対照的に優美な中間部分の旋律はまるで夢の中に囚われたかのように穏やかで、悲しいほど美しい。私は何かが胸の奥から込み上げてくるような感覚がして、震える指先でぎゅっとドレスの裾を握り締めて堪えた。そうしていなれければ今にも何かがあふれ出してしまいそうで、舞台の上で鍵盤をそっと撫でるように演奏する滝沢の横顔を見つめた。
(どうしてあんなに苦しげなんだろう?)
こんなにも、奏でられる彼の音は美しいのに。
それさえ受け入れがたいと言いたげに、乞われた愛を振り払うかのように孤独な滝沢の背中が、あまりに寂しげで、こんなにも剥き出しの誰かの心を見たのは初めてで。
壊れてしまいそうな音楽だった。
真っ暗な夜の海を、ひとりただ彷徨うみたいに。
クライマックスへと向かう演奏は、華麗で劇的な主題へと戻り、鍵盤を叩きつけるような激しい指先から奏でられる。まるで細い糸を首にそっと押し当てられたみたいに上手く息ができなくて、何故か涙がこぼれた。
ああ、早く終わってあげて。
彼が一刻も早く苦しみから解き放たれるように。
暴力的なまでに空間を劈くピアノの音は、煌めくように明るく華やかなメロディーに変調したはずなのに、その音の裏側に透けた彼の寂しさが鳴り止まなくて。
最後の一音がその指先から放たれた。
その瞬間、客席からは大きな拍手が降り注いだ。
ふぅー…と深く息を吐いた滝沢が茫然と点を仰ぎ見たあと、数秒時を止め、そしてふと今さら自分に向けられた称賛に気付いたかのように、驚いた顔で客席を見た。
それから慌てたように立ち上がって聴衆に頭を下げた滝沢が、私のほうを見た。
そして、ふたたび驚愕の表情で目を丸くする。
きっと私が泣いていたから。
「え、柚原さん、なんでそんな泣いて…」
そう言いながら駆け寄ってくる滝沢に居た堪れずにふるふる首を振るのが精一杯で、そんな自分が恥ずかしい。
「あ、ごめ、なさい……すごく、いい演奏で」
「菫のあとでそんなわけあります?」
「ちが、だって…」
貴方の孤独に触れたような気がして。
そんなこと、口が裂けても言えるわけないけど。
困ったような顔のまま私の背中をそっと撫でる滝沢に、「私も柚原さんの気持ちがわかるよ」と西崎がおしぼりを差し出してくれる。それに滝沢はきょとんとして。
「残念だよ、君さえ望めば、君はどこまでだって高く飛べただろうに」
ありがとう、素晴らしい演奏だった。
そう言って握手を求めた西崎に滝沢が苦笑する。
そして滝沢の応えた手を離すとすぐに西崎は店の裏に引っ込んでしまった。滝沢はカウンター席にもう一度腰掛け、とても柔らかな仕草でそっと私の前髪を払う。
「なんでそんな泣くの、柚原さん」
「わか、らないんですけど、すごく寂しくて…」
ヒクヒクと震えた喉からこぼれる声は情けないほど弱々しい。滝沢は私の頭を抱え込むように腕を回し、肩を貸してくれる。近づいた距離のおかげで滝沢の優しいぬくもりが伝わって、余計涙が止まらなくなってしまう。
「優しいよね、柚原さんって」
「え?そんなことは、全然ないかと…」
「だって今、俺なんかのためにこんなに泣いてくれてるんでしょ?」
熱くなった頬に滝沢の指先が触れた。
ああ、この人の手は、ひんやりと心地いいのか。
しなやかで繊細そうな美しい指先がほんの僅かに逡巡し、それから私の涙に触れた。オレンジの照明に照らされた白い頬。澄んだ琥珀の瞳に、私の不細工な泣き顔が映っている。
「ありがとう、なんか、ちょっと救われた」
穏やかな声が耳元をすり抜ける。
清潔な香りのシャツから淡く煙草の匂いがした。
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