永遠の終わりに花束を
#04 無彩色な街
過去を振り返るのは好きじゃない。
そこには、醜い自分の姿しか存在しないからだ。
母はいつも窓辺の椅子に腰掛けながら外の景色を眺めて過ごしていた。滅多に訪れることのない恋人の気まぐれに期待して、何日も、何か月も、何年も待ち続けていた。
幼い俺に与えられたのは大きなグランドピアノだけだった。これを弾くんだ、と言った父の、無関心そうな茶色の瞳を何故だか今でも覚えている。
昔から器用さと要領の良さだけが取り柄な可愛げのない餓鬼だった俺は、父から紹介されたピアノの先生に練習を見てもらうようになっても、大抵の楽譜はすぐに習得できて、色んな大人からよく褒められた。
菫と出会ったのはその頃だった。
彼女のピアノは明らかに音の質が俺とは違った。
圧倒的な才能――自分よりも少し年下の小さな女の子の抱えたその輝きを、生まれて初めて綺麗だと思い、同時に酷く妬んだ。あれを持っていれば俺も愛されたかもしれないのに。
最初から、母は子供に興味のない人だった。俺がどれだけ懸命にピアノを弾いても、それを誰かに褒められたとしても、窓の外を見つめるばかりの母の瞳がこちらを向いたことはなかった。少しも大事になんかされていない男の存在にしか関心のない人だった。
『直樹のピアノ、すごく上手で格好良い』
純粋な少女が俺の音を褒める。
それが切実に嬉しくて、強烈に腹立たしかった。
矛盾した菫への感情を初恋と呼ぶのか、それとも憎悪と呼ぶのか。ただ憐れなほど菫に憧れていたことだけは確かだった。
日本で暮らす腹違いの兄弟とは時々コンクールの会場で顔を合わせた。蒼は小学生までの間に日本国内の著名なコンクールを粗方制覇し、欧州にも手を伸ばし始めた時期だった。
俺は目障りな本妻の息子が大嫌いで、蒼の優勝を阻むためだけに練習に明け暮れていた。今思えば呆れるほど不純な動機だ。あまりにくだらなくて退屈なばかりの日々が何年も続き、俺は確実に音楽を嫌悪していた。
そして17歳になる頃、母が倒れた。
末期の胃がんと診断され、介護が必要になった。
この頃には既に父の足はドイツから随分遠退いており、母は精神的に不安定な状態が続いていたのもあって、病院のベッドの上で何度か自殺未遂を計るまでになった。
音大の入学に向けて重要だったその時期を母の介護に費やした俺は、志望していた大学には受からなかった。そのことを父に報告したら、『やはり不良品か』とひと言だけ返され、それきり親子の縁を切ると言って口座にまとまった金が振り込まれた。別にもう悲しくもなかった。
しかし母にとって父からの最後通牒は絶望の形をしていた。これまで以上に精神状態の悪化した母は、もはや廃人同然だった。それでも毎日病院の窓の外から、見舞いになんか来るはずもない父の姿を探していた。木の枝のように痩せ細った母の細い手は、それでも俺を抱き締めることも、縋ることもなかった。
そして18歳の春――母は死んだ。
葬儀を終えて、俺は空っぽの部屋を引き払った。
その時、父から唯一与えられたグランドピアノも一緒に捨てた。なんの感慨もなかった。これで自由が手に入るとさえ思った。そして一年遅れで大学に進学し、吐き気を催すほど自堕落で刹那的な学生生活を送った。
毎日のように酒とドラッグに溺れ、適当な女と粗野なセックスをした。早く寿命が尽きてしまうことだけを望んでいたような気がする。そんな酷く退廃的で不毛な日々が二年ほど続いた頃だった。
いつも通りに露悪な関係だけを結んだ女と別れて大学近くのアパートメントに帰宅した。古びたその北向きの建物は、常に陰鬱な気配が漂っているようだった。その薄暗い廊下に、見覚えのある壮年の男が立っていた。
『随分荒んだ生活をしているようだね、ナオキ』
その人は、かつての恩師だった。
トレードマークのキャスケット帽を先生が脱ぐ。
幼い頃から大学入試直前まで俺の指導してくれていた先生は、少し前にプラハに移り住んだと風の噂で聞いていた。だからまさかこんな風に自分を訪ねてくることがあるとは思わず、俺は一瞬言葉を失うほど驚いた。
『なんでここに…』
『今日は君に贈り物を届けに来たんだ』
そう言って振り返った先生の腕には小さな子犬が抱かれていた。艶やかな白と黒の毛並みをしたその犬は、俺を見つけると小さく吠え、長い尻尾をパタパタと振った。
『友人の家の犬に子供が生まれてね』
『え、まさか、贈り物って、その犬じゃ…』
『そのまさかだよ、ほら』
『いや、普通に考えて絶対ダメでしょ』
今の俺の生活を知っているなら、どう考えたって子犬の飼い主に相応しい人間でないとわかるだろう。しかし先生は黙ったまま、深い青の瞳で俺のことをじっと見つめる。
くぅんと甘えるように子犬が鳴いた。
それを合図に、先生が子犬を押し付けてくる。
『君は自分を大事にすることを誰にも教わらないままここまで来てしまっただろう?だから自分よりも大切だと思える存在を傍に置きなさい。君はそうでないと生きる理由すら見つけられないで地獄に足を突っ込もうとしている。教え子のそんな姿は見てられない』
先生の毅然とした声に、気圧される。
俺の後ろ暗さなどその目は全部お見通しだろう。
途方もなく巧みに鍵盤の上を統べる先生の温かく大きな手が、俺の頭をくしゃりと撫でた。まるで小さな子供にするみたいな仕草に、何故だが胸の底が苦しいほど震えて。
『君は狡賢くてひねくれ者だけど、優しいよ』
もう自分を蔑まなくていい。
君はいつだって精一杯、君にできることをした。
また様子を見に来るよと言って去ってゆく先生の背中に、音楽が鳴っていた。穏やかなその旋律を俺は幼い頃から子守歌のように何度も何度も繰り返し聴いてきた。
ああ、なんで俺は音楽を愛せなかったんだろう?
何度も手を差し伸べられたはずなのに。
どうしてずっと背を向けることしかせずに憎んできたんだろう?今まで一度も、誰からも愛されたことがなかったから、音楽を愛する術さえ、俺は知らなかったんだ。
子犬の湿った舌が頬を舐めた。
そこで初めて、自分が泣いてることに気づいた。
薄暗く湿ったアパートの廊下で無垢なぬくもりに縋りつくように、ただ抱き締めた。小さく美しいその命は、果てしなく清らかな摂理の下で、淡く光り輝いていた。
それから散らかった部屋の掃除をしなければと久しぶりに窓を開けたら、今が春だと知った。よく日の差し込む、風通しのいい部屋に引っ越そうと思った。煙草臭いベッドシーツの端を噛む子犬の瞳に顔色の悪い自分が映っている。
アルバートと名付けた子犬が俺の日常に登場して以来、なんとなく失意の行き場すら失った俺は平穏な日々に逆戻りした。遠くに聴こえる音楽は今もくすんだまま、だが不思議なことに、もう耳障りとも思わなかった。ただ、自分とは別の世界で鳴っているのだという諦観が足元に引かれた境界線を色濃くした。
あれから、もう十年が経った。
俺の世界は相も変わらず平凡に色褪せたままだ。
「――ワンッ!」
アラームの音が鳴ると同時に愛犬が鳴き出す日常が、もう馴染んでしまっている。ベッドの中に埋もれた俺の上で無遠慮に跳ねまわるアルは、自分が大型犬にも等しい体躯であることをもう少し自覚してほしい。
「わーかったから、アル、痛ぇって」
この専属目覚ましのおかげで今まで一度として寝坊したことのない俺は、年老いても尚元気のいい愛犬の胴体に抱き着きながら、もぞもぞとベッドを抜け出した。
うわ、今日って月曜日じゃん。
枕元の電子時計が表示する日付にうんざりした。
半分寝ぼけたまま歯ブラシを咥えた俺は、昨日髭剃りをサボったおかげで顎のあたりに生えたままの無精髭に触れ、面倒臭ぇなとひとりでに呟く。
足元では朝の散歩を前に爛々と目を輝かせているアルが尻尾を振っており、どうにも可愛い。俺が軽く頭を撫でてやれば上機嫌に口角を上げるので笑っているみたいだ。俺は歯磨きと髭剃りだけを適当に終わらせ、適当なウィンドブレーカーを羽織って外に出た。
穏やかな朝の光と皐月の薫風が気持ちいい。
温暖化と言いつつもなんだかんだで長く厳しい冬を越えた今の時期は、アルの散歩にはうってつけの季節だ。
「アル、平日はいねえって」
そして最近うちの可愛いアルバートは、お決まりの散歩コースのある地点に辿り着くとそわそわと落ち着きを失くし、そしてそこに目当ての人影がないことを確認してはしょんぼり落ち込んでいるから妙に微笑ましい。
「柚原さんは来ねえよ、今日は月曜だからな」
最近この公園で知り合った柚原佳乃とは、奇妙な偶然が何度か重なり、その結果として今は気軽な友人と呼べそうな関係にまで進展を遂げていた。
家が近所にある佳乃も、この公園には毎日通って木陰のベンチで本を読んでいるらしい。だが平日の朝は俺が出勤前の早い時間にしかアルの散歩に出られないため、残念ながら佳乃がここに来る時間とはかち合わない。
意気消沈したように俺の後ろをとぼとぼ歩くアルを尻目に、俺は少し前の記憶を掘り起こす。佳乃に付き合ってもらった菫の演奏会のあと、西崎の店で挑発に乗せられるがまま数年ぶりに演奏した俺のピアノを聴いた佳乃が泣いた。
綺麗なドレスから出た華奢な肩を震わせながら涙を流す佳乃が、寂しくて、と言った。あれは一体どういう意味だったんだろう?どこまでも透明なしずくに触れた、あの微かなぬくもりが今もまだ指先に残っているような気がして、俺は少し居た堪れなくなる。
(なんつぅか、どうもな…)
俺は昔からあの手の女に弱いんだよな。
どこか世間知らずなくらいの純真さに苦笑する。
自分が歪んでひねくれきった人間だという自覚があるおかげで、清らかなままの人間を見ると妙な羨望が湧いてしまう。
良家のご令嬢として随分箱入りに育ったんだろう警戒心のなさが明け透けで、その割りに人の感情には人一倍聡いのか、あの夜もしきりに俺のことを心配そうに見つめてくるからばつが悪かった。
別に俺は今さら自分の過去を嘆いているわけでもないし、それなりに今の生活に満足している。最近仕事は面倒が増えて鬱陶しいけど、それも自業自得と割り切っている。まあ、アルに寂しい思いをさせているのだけが申し訳ないから、転職もありかもしんねえけど。
「いや、普通にナシっすよ、絶対ムリ」
朝イチの眠い会議を終えてすぐ地下にある喫煙所を訪ね、もう転職しよっかなと怠惰丸出しな話を切り出した俺を、食ってかかる勢いで止めるのは直属の部下の豊川夕鷹だ。
「絶対俺ひとり残してなんか辞めさせねえから」
「俺が辞めれば君が課長じゃん」
「出世欲とかないんすよ!俺は!自由がいい!」
「でも自由に責任はつきもんだろ?」
国内最大手の自動車メーカーであるクワタ自動車の営業部は、大きく分けて国内事業と海外事業に区分されている。俺は元々新卒でドイツの自動車メーカーに就職したのだが、数年後にクワタから引き抜きの誘いを受けて転職した。
「だって俺、うちの部長の世話焼ける気しないですよ、絶対キレちまうもん」
「別にあれぐらい可愛いもんだろ?」
「いや、普通あんなんの相手できないですって」
現在の海外事業部長は、成果至上主義を部下には強いる割りに、自分のリスクからは徹底的に逃げ回ることからあまり下からの評判は宜しくない。
営業畑が長いおかげか目先の利益にすぐ飛びつく癖があり、無責任な指示をしたあとで、しかし旗色が悪くなればすぐ自分の発言を撤回するような有様のため、最近は随分不評を買っていて個人的には結構面白がっている。
「いや、面白がってる場合ですか」
「でも気持ちよく転がしてやりゃすぐ懐くだろ」
「そうですか?あの人結構狡賢くないっすか?」
「単純だよ」
結局は小心者でプライドが高いだけだ。
そしてそういう人間は常に周囲の目に怯えてる。
「ああいう人間は攻撃しちゃダメなんだよ、恐怖政治をしいても、心が弱い人間はなんかの拍子に反旗を翻してくる。恐怖が憎悪に派生したら結局こっちに利はない。だからそういう人間の弱味を握ったら、征服しようとせず、徒党を組んで仲間意識を植え付けさせるんだ。見逃してやった恩だけは売っておいて、でもいつでも使い捨てられる準備は抜かりなくね。繋がれてることにも本人が気付かないほどリードの長い首輪をはめて飼い慣らせば、あれは使い勝手がいいよ、勝手に狡賢く立ち回ってくれる」
今でも、部長は随分扱いやすいからね。
向こうも俺を飼い慣らしてるつもりだろうけど。
と言っても俺にはこの社内で弱味になるようなものは何もないし、そもそも出世や金に対してそこまで興味が湧かない。
「…え、滝沢さん、部長のなに握ってんすか?」
「さあね?それは機密事項だから」
「えー……」
まじで敵に回したくないんですけど、と不審げな豊川からお褒めの言葉をいただいた俺は、煙草の煙を肺の奥まで入れ、喫煙所の壁にだらんと背を預けた。
「まじ気だるげっすよね、滝沢さん」
「このご時世にガツガツ働いてどうすんだよ」
「俺も毎日バカンス満喫しながら悠々自適に暮らしてえな。どうですか、一緒に仕事バックレて沖縄で酒屋でも開きます?」
「深山さんが看板娘やってくれればありかもな」
「え、あの酒癖で店の看板背負えます?」
「あー…そりゃどうかな」
少し前まで同じ社内の広報部に在籍していた豊川の恋人は、それはそれは華麗で美しい顔をした女性だったのだが、もはやこちらが少し心配になるほど酒癖の悪さには定評があった。
とはいえ豊川はなんだかんだと文句を言いながらも日々楽しそうに彼女の話をするので、まあ関係は順調なんだろう。付き合うまでは色々と面倒な展開を拗らせていて面白かったが、最近はのろけしか出てこない。
地下から地上に上がると、陽の光が眩しかった。
南向きの建物は全館明るくていい。
俺は未だにどこか見慣れない東京の街並みを上昇するエレベーターの内側から見下ろし、見渡す限り灰色の景色に辟易する。俺はもうこの街にいる理由さえ持たないけど、それを言うなら、俺は最初からどこにも存在する理由も持ったことがないようなものだった。
嘆いてはいない、もう今さら。
色褪せた世界がただひたすらに退屈なだけで。
そこには、醜い自分の姿しか存在しないからだ。
母はいつも窓辺の椅子に腰掛けながら外の景色を眺めて過ごしていた。滅多に訪れることのない恋人の気まぐれに期待して、何日も、何か月も、何年も待ち続けていた。
幼い俺に与えられたのは大きなグランドピアノだけだった。これを弾くんだ、と言った父の、無関心そうな茶色の瞳を何故だか今でも覚えている。
昔から器用さと要領の良さだけが取り柄な可愛げのない餓鬼だった俺は、父から紹介されたピアノの先生に練習を見てもらうようになっても、大抵の楽譜はすぐに習得できて、色んな大人からよく褒められた。
菫と出会ったのはその頃だった。
彼女のピアノは明らかに音の質が俺とは違った。
圧倒的な才能――自分よりも少し年下の小さな女の子の抱えたその輝きを、生まれて初めて綺麗だと思い、同時に酷く妬んだ。あれを持っていれば俺も愛されたかもしれないのに。
最初から、母は子供に興味のない人だった。俺がどれだけ懸命にピアノを弾いても、それを誰かに褒められたとしても、窓の外を見つめるばかりの母の瞳がこちらを向いたことはなかった。少しも大事になんかされていない男の存在にしか関心のない人だった。
『直樹のピアノ、すごく上手で格好良い』
純粋な少女が俺の音を褒める。
それが切実に嬉しくて、強烈に腹立たしかった。
矛盾した菫への感情を初恋と呼ぶのか、それとも憎悪と呼ぶのか。ただ憐れなほど菫に憧れていたことだけは確かだった。
日本で暮らす腹違いの兄弟とは時々コンクールの会場で顔を合わせた。蒼は小学生までの間に日本国内の著名なコンクールを粗方制覇し、欧州にも手を伸ばし始めた時期だった。
俺は目障りな本妻の息子が大嫌いで、蒼の優勝を阻むためだけに練習に明け暮れていた。今思えば呆れるほど不純な動機だ。あまりにくだらなくて退屈なばかりの日々が何年も続き、俺は確実に音楽を嫌悪していた。
そして17歳になる頃、母が倒れた。
末期の胃がんと診断され、介護が必要になった。
この頃には既に父の足はドイツから随分遠退いており、母は精神的に不安定な状態が続いていたのもあって、病院のベッドの上で何度か自殺未遂を計るまでになった。
音大の入学に向けて重要だったその時期を母の介護に費やした俺は、志望していた大学には受からなかった。そのことを父に報告したら、『やはり不良品か』とひと言だけ返され、それきり親子の縁を切ると言って口座にまとまった金が振り込まれた。別にもう悲しくもなかった。
しかし母にとって父からの最後通牒は絶望の形をしていた。これまで以上に精神状態の悪化した母は、もはや廃人同然だった。それでも毎日病院の窓の外から、見舞いになんか来るはずもない父の姿を探していた。木の枝のように痩せ細った母の細い手は、それでも俺を抱き締めることも、縋ることもなかった。
そして18歳の春――母は死んだ。
葬儀を終えて、俺は空っぽの部屋を引き払った。
その時、父から唯一与えられたグランドピアノも一緒に捨てた。なんの感慨もなかった。これで自由が手に入るとさえ思った。そして一年遅れで大学に進学し、吐き気を催すほど自堕落で刹那的な学生生活を送った。
毎日のように酒とドラッグに溺れ、適当な女と粗野なセックスをした。早く寿命が尽きてしまうことだけを望んでいたような気がする。そんな酷く退廃的で不毛な日々が二年ほど続いた頃だった。
いつも通りに露悪な関係だけを結んだ女と別れて大学近くのアパートメントに帰宅した。古びたその北向きの建物は、常に陰鬱な気配が漂っているようだった。その薄暗い廊下に、見覚えのある壮年の男が立っていた。
『随分荒んだ生活をしているようだね、ナオキ』
その人は、かつての恩師だった。
トレードマークのキャスケット帽を先生が脱ぐ。
幼い頃から大学入試直前まで俺の指導してくれていた先生は、少し前にプラハに移り住んだと風の噂で聞いていた。だからまさかこんな風に自分を訪ねてくることがあるとは思わず、俺は一瞬言葉を失うほど驚いた。
『なんでここに…』
『今日は君に贈り物を届けに来たんだ』
そう言って振り返った先生の腕には小さな子犬が抱かれていた。艶やかな白と黒の毛並みをしたその犬は、俺を見つけると小さく吠え、長い尻尾をパタパタと振った。
『友人の家の犬に子供が生まれてね』
『え、まさか、贈り物って、その犬じゃ…』
『そのまさかだよ、ほら』
『いや、普通に考えて絶対ダメでしょ』
今の俺の生活を知っているなら、どう考えたって子犬の飼い主に相応しい人間でないとわかるだろう。しかし先生は黙ったまま、深い青の瞳で俺のことをじっと見つめる。
くぅんと甘えるように子犬が鳴いた。
それを合図に、先生が子犬を押し付けてくる。
『君は自分を大事にすることを誰にも教わらないままここまで来てしまっただろう?だから自分よりも大切だと思える存在を傍に置きなさい。君はそうでないと生きる理由すら見つけられないで地獄に足を突っ込もうとしている。教え子のそんな姿は見てられない』
先生の毅然とした声に、気圧される。
俺の後ろ暗さなどその目は全部お見通しだろう。
途方もなく巧みに鍵盤の上を統べる先生の温かく大きな手が、俺の頭をくしゃりと撫でた。まるで小さな子供にするみたいな仕草に、何故だが胸の底が苦しいほど震えて。
『君は狡賢くてひねくれ者だけど、優しいよ』
もう自分を蔑まなくていい。
君はいつだって精一杯、君にできることをした。
また様子を見に来るよと言って去ってゆく先生の背中に、音楽が鳴っていた。穏やかなその旋律を俺は幼い頃から子守歌のように何度も何度も繰り返し聴いてきた。
ああ、なんで俺は音楽を愛せなかったんだろう?
何度も手を差し伸べられたはずなのに。
どうしてずっと背を向けることしかせずに憎んできたんだろう?今まで一度も、誰からも愛されたことがなかったから、音楽を愛する術さえ、俺は知らなかったんだ。
子犬の湿った舌が頬を舐めた。
そこで初めて、自分が泣いてることに気づいた。
薄暗く湿ったアパートの廊下で無垢なぬくもりに縋りつくように、ただ抱き締めた。小さく美しいその命は、果てしなく清らかな摂理の下で、淡く光り輝いていた。
それから散らかった部屋の掃除をしなければと久しぶりに窓を開けたら、今が春だと知った。よく日の差し込む、風通しのいい部屋に引っ越そうと思った。煙草臭いベッドシーツの端を噛む子犬の瞳に顔色の悪い自分が映っている。
アルバートと名付けた子犬が俺の日常に登場して以来、なんとなく失意の行き場すら失った俺は平穏な日々に逆戻りした。遠くに聴こえる音楽は今もくすんだまま、だが不思議なことに、もう耳障りとも思わなかった。ただ、自分とは別の世界で鳴っているのだという諦観が足元に引かれた境界線を色濃くした。
あれから、もう十年が経った。
俺の世界は相も変わらず平凡に色褪せたままだ。
「――ワンッ!」
アラームの音が鳴ると同時に愛犬が鳴き出す日常が、もう馴染んでしまっている。ベッドの中に埋もれた俺の上で無遠慮に跳ねまわるアルは、自分が大型犬にも等しい体躯であることをもう少し自覚してほしい。
「わーかったから、アル、痛ぇって」
この専属目覚ましのおかげで今まで一度として寝坊したことのない俺は、年老いても尚元気のいい愛犬の胴体に抱き着きながら、もぞもぞとベッドを抜け出した。
うわ、今日って月曜日じゃん。
枕元の電子時計が表示する日付にうんざりした。
半分寝ぼけたまま歯ブラシを咥えた俺は、昨日髭剃りをサボったおかげで顎のあたりに生えたままの無精髭に触れ、面倒臭ぇなとひとりでに呟く。
足元では朝の散歩を前に爛々と目を輝かせているアルが尻尾を振っており、どうにも可愛い。俺が軽く頭を撫でてやれば上機嫌に口角を上げるので笑っているみたいだ。俺は歯磨きと髭剃りだけを適当に終わらせ、適当なウィンドブレーカーを羽織って外に出た。
穏やかな朝の光と皐月の薫風が気持ちいい。
温暖化と言いつつもなんだかんだで長く厳しい冬を越えた今の時期は、アルの散歩にはうってつけの季節だ。
「アル、平日はいねえって」
そして最近うちの可愛いアルバートは、お決まりの散歩コースのある地点に辿り着くとそわそわと落ち着きを失くし、そしてそこに目当ての人影がないことを確認してはしょんぼり落ち込んでいるから妙に微笑ましい。
「柚原さんは来ねえよ、今日は月曜だからな」
最近この公園で知り合った柚原佳乃とは、奇妙な偶然が何度か重なり、その結果として今は気軽な友人と呼べそうな関係にまで進展を遂げていた。
家が近所にある佳乃も、この公園には毎日通って木陰のベンチで本を読んでいるらしい。だが平日の朝は俺が出勤前の早い時間にしかアルの散歩に出られないため、残念ながら佳乃がここに来る時間とはかち合わない。
意気消沈したように俺の後ろをとぼとぼ歩くアルを尻目に、俺は少し前の記憶を掘り起こす。佳乃に付き合ってもらった菫の演奏会のあと、西崎の店で挑発に乗せられるがまま数年ぶりに演奏した俺のピアノを聴いた佳乃が泣いた。
綺麗なドレスから出た華奢な肩を震わせながら涙を流す佳乃が、寂しくて、と言った。あれは一体どういう意味だったんだろう?どこまでも透明なしずくに触れた、あの微かなぬくもりが今もまだ指先に残っているような気がして、俺は少し居た堪れなくなる。
(なんつぅか、どうもな…)
俺は昔からあの手の女に弱いんだよな。
どこか世間知らずなくらいの純真さに苦笑する。
自分が歪んでひねくれきった人間だという自覚があるおかげで、清らかなままの人間を見ると妙な羨望が湧いてしまう。
良家のご令嬢として随分箱入りに育ったんだろう警戒心のなさが明け透けで、その割りに人の感情には人一倍聡いのか、あの夜もしきりに俺のことを心配そうに見つめてくるからばつが悪かった。
別に俺は今さら自分の過去を嘆いているわけでもないし、それなりに今の生活に満足している。最近仕事は面倒が増えて鬱陶しいけど、それも自業自得と割り切っている。まあ、アルに寂しい思いをさせているのだけが申し訳ないから、転職もありかもしんねえけど。
「いや、普通にナシっすよ、絶対ムリ」
朝イチの眠い会議を終えてすぐ地下にある喫煙所を訪ね、もう転職しよっかなと怠惰丸出しな話を切り出した俺を、食ってかかる勢いで止めるのは直属の部下の豊川夕鷹だ。
「絶対俺ひとり残してなんか辞めさせねえから」
「俺が辞めれば君が課長じゃん」
「出世欲とかないんすよ!俺は!自由がいい!」
「でも自由に責任はつきもんだろ?」
国内最大手の自動車メーカーであるクワタ自動車の営業部は、大きく分けて国内事業と海外事業に区分されている。俺は元々新卒でドイツの自動車メーカーに就職したのだが、数年後にクワタから引き抜きの誘いを受けて転職した。
「だって俺、うちの部長の世話焼ける気しないですよ、絶対キレちまうもん」
「別にあれぐらい可愛いもんだろ?」
「いや、普通あんなんの相手できないですって」
現在の海外事業部長は、成果至上主義を部下には強いる割りに、自分のリスクからは徹底的に逃げ回ることからあまり下からの評判は宜しくない。
営業畑が長いおかげか目先の利益にすぐ飛びつく癖があり、無責任な指示をしたあとで、しかし旗色が悪くなればすぐ自分の発言を撤回するような有様のため、最近は随分不評を買っていて個人的には結構面白がっている。
「いや、面白がってる場合ですか」
「でも気持ちよく転がしてやりゃすぐ懐くだろ」
「そうですか?あの人結構狡賢くないっすか?」
「単純だよ」
結局は小心者でプライドが高いだけだ。
そしてそういう人間は常に周囲の目に怯えてる。
「ああいう人間は攻撃しちゃダメなんだよ、恐怖政治をしいても、心が弱い人間はなんかの拍子に反旗を翻してくる。恐怖が憎悪に派生したら結局こっちに利はない。だからそういう人間の弱味を握ったら、征服しようとせず、徒党を組んで仲間意識を植え付けさせるんだ。見逃してやった恩だけは売っておいて、でもいつでも使い捨てられる準備は抜かりなくね。繋がれてることにも本人が気付かないほどリードの長い首輪をはめて飼い慣らせば、あれは使い勝手がいいよ、勝手に狡賢く立ち回ってくれる」
今でも、部長は随分扱いやすいからね。
向こうも俺を飼い慣らしてるつもりだろうけど。
と言っても俺にはこの社内で弱味になるようなものは何もないし、そもそも出世や金に対してそこまで興味が湧かない。
「…え、滝沢さん、部長のなに握ってんすか?」
「さあね?それは機密事項だから」
「えー……」
まじで敵に回したくないんですけど、と不審げな豊川からお褒めの言葉をいただいた俺は、煙草の煙を肺の奥まで入れ、喫煙所の壁にだらんと背を預けた。
「まじ気だるげっすよね、滝沢さん」
「このご時世にガツガツ働いてどうすんだよ」
「俺も毎日バカンス満喫しながら悠々自適に暮らしてえな。どうですか、一緒に仕事バックレて沖縄で酒屋でも開きます?」
「深山さんが看板娘やってくれればありかもな」
「え、あの酒癖で店の看板背負えます?」
「あー…そりゃどうかな」
少し前まで同じ社内の広報部に在籍していた豊川の恋人は、それはそれは華麗で美しい顔をした女性だったのだが、もはやこちらが少し心配になるほど酒癖の悪さには定評があった。
とはいえ豊川はなんだかんだと文句を言いながらも日々楽しそうに彼女の話をするので、まあ関係は順調なんだろう。付き合うまでは色々と面倒な展開を拗らせていて面白かったが、最近はのろけしか出てこない。
地下から地上に上がると、陽の光が眩しかった。
南向きの建物は全館明るくていい。
俺は未だにどこか見慣れない東京の街並みを上昇するエレベーターの内側から見下ろし、見渡す限り灰色の景色に辟易する。俺はもうこの街にいる理由さえ持たないけど、それを言うなら、俺は最初からどこにも存在する理由も持ったことがないようなものだった。
嘆いてはいない、もう今さら。
色褪せた世界がただひたすらに退屈なだけで。