永遠の終わりに花束を
#05 若葉の季節に思い出して
丸の内に行くのは久しぶりだ。
灰色のビル群を見上げながらため息をこぼす。
父に呼び出されて用件もわからぬまま東洋ガラスの本社ビルを訪ねたが、一応籍だけ置いている総務部の面々に挨拶すべきか、それとも直接社長室を訪ねるべきか迷って、結局役員専用入り口からエレベーターに乗った。
「ああ、佳乃、よく来たね」
同じ階にある秘書室を通って社長室のドアを軽くノックすると、扉を開けた顔を出した父の浩一郎がにっこりと相好を崩す。
「うん、あの、どうかしたの?」
「実はその、佳乃に紹介したい人がいてね」
え?と戸惑う間もなく父の後ろに立っていた背の高い男性と目が合って、あ、と思う。その顔を私はもう今まで何度も、写真の中だけで見たことがあったから。
「初めまして、熊谷宗輔といいます」
にっこりと爽やかに微笑みながら私を見下ろすその人は、正真正銘、今回の縁談相手だ。質の良い濃紺のスーツを上品に着こなし、黒い髪を撫でつけるように整えた熊谷は、確かに霞が関勤務の堅実さを感じさせる。
「え、は、初めまして……柚原佳乃です」
「突然のことで驚かれましたよね、すみません」
「宗輔くんが偶然こちらに来る用事があると土産を持ってきてくれてね、せっかくだから一度、気軽な場でまず会っておくのもいいんじゃないかと思ってさ」
びっくりさせてすまない、という父の瞳が苦笑を帯びていることを私は見逃さなかった。熊谷との縁談について、私がなかなかいい返事を返さないことに相当焦れていたらしい。
本来ならこういう騙し討ちのような戦法を取ることを、真面目な父は嫌う。それでも抗いきれないほどの重圧があったのだろうことを察して、私は両親への申し訳なさと同時に、差し迫ったタイムリミットを自覚した。
「とは言っても私は勤務中なので、そろそろ失礼しようと思ってたところで」
「ああ、そうだよね、引き留めて申し訳ない」
「こちらこそ逆に土産をいただいて」
父が大のワイン好きなので喜びます、と深緑色の紙袋を掲げた熊谷がコートを手に取ったのを合図のように、父は「それなら駅のほうまで佳乃のことを送って行ってもらえないか」とあらかじめ計画されていたのだろう行程通りの言葉を口にするので内心肩を落とす。
「ええ、それはもちろん大丈夫ですが…」
「最近娘はひとり暮らしをはじめましてね、過保護は重々承知ですが、親としてはどうにも心配で仕方ないんですよ」
中肉中背を絵に描いたような父が熊谷の隣に並ぶと、余計に彼の背丈が際立った。確か学生時代はテニスをされていたとか聞いた気がするし、今でも日常的に身体を動かしている人特有の、研ぎ澄まされた神経が隅々まで行き渡ったような感じが熊谷には備わっている。
「佳乃さん、もしよければ駅までお送りします」
「…ありがとうございます」
これでどうして、結構ですと言えよう。
そんな私の心情を察したように父が眉を下げた。
結局私は応接用のソファーに座ることも許されぬまま熊谷と社長室を出て、秘書課の職員からの微妙な視線をかわし、エレベーター前まで見送りに出向いた父に手を振られ、熊谷と四角い密室でふたりきりにされた。
「…これは、さすがにあからさまでしたよね」
「…なんだかうちの父がすみません」
「いえ、この前うちの父からも同じような催促があったばかりで。それで今日も柚原社長にお渡しするようにとか言って、なんでか俺に旅行の手土産なんか押し付けてきたので、おそらく計画的な犯行でしょうね…」
どこか疲れたように熊谷が笑った。
熊谷にしても、父の相手なんて気を遣うだろう。
ゆったりと下降するエレベーターの中で顔を見合わせた私と熊谷は、なんとも言えない気まずい空気の中、しかし同じような身の上もあって、結局諦めるほかなかった。
「…ええっと、縁談の件はどこまで?」
「そろそろお返事しなきゃと思ってたところで」
「あの、ちなみにそれって会う方向で?それともお断りの方向でした…?」
「あ、いえ、それはもちろん会う方向で…!」
「ああ、それなら良かったです」
実は私もさっき柚原社長に聞かれてそう答えたところで、と熊谷が安心したように目尻を垂らす。
その時ちょうど地下に到着したエレベーターを降りた私たちは、薄暗いひんやりとした地下駐車場にある、来客用スペースに停められた熊谷の車の前で一度足を止めた。
「もし佳乃さんが断る予定だったら余計なことを言ったかとヒヤヒヤしました」
「いえ、そんな、滅相もないです…」
「あー…まあ、正直お互い微妙な立場ですが…」
こめかみのあたりに手を添えた熊谷が慎重に言葉を選ぶみたいに、少し視線を泳がせた。立場や境遇と、感情や葛藤を天秤にかけ、私たちは生きることしかできない。
「少し、頑張ってみませんか?」
ひとまずは気楽に、と照れたように笑う。
熊谷の穏やかな人柄がにじみ出たかのようなその優しい笑顔にほっとして、でも、胸の奥で疼く寂寥が微かな痛みを生む。あの切ないピアノの旋律に掘り起こされた後ろめたさが、いつまでも鳴り止まなくて。
(ああ、どうしてなんだろう?)
あの夜からずっと、泣き出しそうに寂しい。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「へえ、意外と様になってるじゃん」
私の家までお酒を持って訪問してくれた柑菜と今夜はホームパーティーだ。母に教わったキッシュのレシピを初めて試してみたら、美味しいとお墨付きをもらえて嬉しい。
「猫まで飼っちゃって、結婚前に」
「ハナと一緒に嫁がせてくれない人は絶対やだ」
「それで、財閥御曹司はどうだったの?これからふたりで韓ドラやるわけ?」
とりあえずビールからの法則に則った柑菜が数本のアルミ缶を空にしたところで、そんな嫌味を言われながらワインのコルクを開ける。
結局あれから月末にでも時間を作って食事でも行こうか、という話になり、そのまま駅まで熊谷の車で送り届けてもらって解散した。そしてその日の夜にまた両親から実家に呼び出され、さすがに少しうんざりしながら経過報告をしてきたという事の顛末だ。
「うわ、さすがに同情するわ…」
「でもふたりともすごいほっとした顔してて…」
「まあ佳乃のとこのご両親って基本的に善良な親御さんだから余計複雑だよね、これが韓ドラとは違う悲しき現実か」
爽やかな風味の白ワインが鼻に抜けた。
もう私は大人で、だから親の立場も知っている。
世継ぎがいないのなら早急に現職の役員から後継を指名するべきだと逸る役員たちと、代々柚原の築き上げてきた基盤をどこの馬の骨ともしれない連中に渡すなんて許されないと憤る親族たちとの板挟みで、父と母にはもう何年もずっと、肩身の狭い思いをさせている。
「もう、潮時なのかなって思って…」
「財閥御曹司はいい人そうだったんだよね?」
「そうなの、見た目も写真で見るより爽やかで格好良くて、物腰も柔らかいし、それに笑った顔が結構好きな感じでね」
だから、きっと大丈夫だと思うの。
ゆっくり好きになっていけるんじゃないかって。
記憶の中に根を張る美しく清らかな思慕と憧憬に及ぶことはなくても、恋から以外の形で、幸せな家族を築くこともできるんじゃないかって必死に言い聞かせている。
「でもさ、佳乃の人生は親とか家のためにあるわけじゃないんだよ?」
「…わかってる、けど、でも」
「私は佳乃の立場とか全然わかんないけど」
珍しく柑菜が言葉を迷うみたいに舌の上で沈黙を転がす。どこまで踏み込んでいいのか、優しい友達はいつも私に気を遣って、核心には触れないままでいてくれた。
――でも、
「まだ、忘れられないんじゃないの?」
あの夜から鳴り止まない寂しさの正体を暴いてしまったら、余計に辛くなるから。だって失われたものは永遠に戻らなくて、私はもうずっと悲しみの出口を見つけられないまま、ひとりきりではどこにも行けずに。
美しい記憶だけが今も光り輝いて。
その代償に色彩を失った世界をただ生きていた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「あ、今日は来た」
最近はすっかり自分の定位置だと思っていた木製のベンチに珍しく座っていた滝沢が、文庫本を片手にそこを訪れた私を見つけ、おはようございますと相好を崩した。
「珍しいですね、休憩ですか?」
「いえ、柚原さんが来ないかなーと思って」
「え?私がですか?」
「昨日は来なかったですよね?だからアルが拗ねちゃって、あと俺もちょっと避けられたのかなと心配になりまして」
パタパタと私の足元に駆け寄ってきたアルが思い切り尻尾を振りながら飛びついてくるので、私はその勢いに少しよろけそうになるのを堪えて腰を屈めた。そしてお尻のほうを向けてくるアルの胴をわしゃわしゃと撫でる。
「どうして私が避けるんですか?」
「俺のエスコートに粗相があったのかなって?」
「え、あっ…!」
そうだよ、何を暢気に!
人様の前であれだけ散々泣いておいて…!
今さら先週末の演奏会のあとで無様な大号泣を滝沢に披露してしまったことを思い出した私は、大慌てで滝沢のほうに駆け寄り、ごめんなさいと謝罪を口にする。
「せ、先日はお見苦しい姿を見せてしまって…」
「別に泣き顔も可愛かったですよ?」
「かわっ……?」
本当に恐ろしい人だ、どうしよう。
それとも海外育ちが為せる業なのだろうか?
にっこりと微笑みかけてくる美貌の青年に可愛いだなんて言ってもらえる日が来るとは、人生とはわからないものだ。お世辞とわかっていてもつい絆されてしまいそうになる。
「菫も喜んでしましたよ、お礼を伝えてって」
「そんな、私は何もしてないのに…」
「あと鍵盤に触れるのすら数年振りで指がちっとも回らない俺の不恰好な演奏も聞いていただいてありがとうございました」
さすがに下手すぎて恥ずかしかったですね。
そう言って苦笑する滝沢は、まだ混雑するには時間が早くてまばらだった客席からあれだけ盛大な拍手を受けていながら、自分を下手だと断じるほど高度な領域でピアノを弾いていたのかと改めてびっくりしてしまう。
「いえ、あの、ピアノに触れるのが数年振りでもあんなに上手に弾けるんだって、むしろ私は感動していたので…」
「ほんと優しいですね、柚原さん」
優しげなアンバーの瞳をまぶしそうに細める滝沢の視線に、なんだか胸の底がきゅっとして、思わず目を逸らしてしまう。すると甘えるように私の膝の上に顎を乗せているアルと目が合って、自分の動揺した気持ちを見つけられたような気がして余計気まずい。
「にしても懐かれましたね?最近毎日柚原さんのこと探すんですよ、コイツ」
「え、それ本当ですか?嬉しいです!」
「しかも会えないとわかりやすく拗ねるんで」
上目遣いに私を見つめるアルの頭を軽く小突いた滝沢が、「ほんと馴れ馴れしい奴だな、犬の特権乱用じゃねえか」と呆れたように笑った。
しかし当のアルは主人からの嫌味などどこ吹く風と言いたげにそれを無視し、私がすりすりと頬を撫でると上機嫌に尻尾を振る。今も子犬のように若々しく透き通ったブラウンの瞳は、飼い主の丁寧な愛の証だろう。
「さて、アル、そろそろ行くか」
滝沢が立ち上がり、アルのリードを引っ張る。それにアルは俊敏に立ち上がり、しかし散歩に戻るわけでではなく――、
「わ、え、ちょっと…!」
器用にベンチの下を潜ったアルは私の足の回りをぐるりと一周する。するとうっかりアルと滝沢の間で拘束されてしまい、私はびっくりして咄嗟に滝沢を見上げた。
「え、うわ、すみません…!」
「わ、引っ張られるとあの、私の足が…!」
「あ、そっか、じゃあ一旦俺が離す……と今にも走り出しそうだなアイツ」
イタズラの成功にどことなく嬉々とした感情を滲ませる賢いアルにふたりして翻弄され、顔を見合わせて噴き出した。
「ふふ、あ、私が自分でほどきますね」
「うちの馬鹿犬のせいでほんと申し訳ないです」
「お利口さんじゃないですか、もし人間だったら軍師になれましたよ」
「くだらねえ戦術しか立てなさそうだな」
滝沢からアルのリードを受け取り、ふくらはぎのあたりに絡みついた紐をほどく。その間にまた駆け寄ってきたアルが膝に顎を乗せるので、ほんと可愛すぎてどうしよう。
「あの、良かったら私も近くまで一緒に歩いてもいいですか?アルと離れ難いので」
「あんまり甘やかすとつけあがりますよ、男は」
「こんな可愛い男の子なら大歓迎です」
「まあそれなら是非」
まんまと作戦成功させやがったな、と悪態をつく滝沢がアルのお尻を軽く叩き、のんびりとした足取りで歩きはじめた。私はアルのリードを握ったままその後を小走りで追いかけると、すぐに振り返った滝沢は、何も言わずに歩調を緩めてくれるので相変わらず優しい。
皐月もそろそろ折り返しに差し掛かりはじめた公園は、優しい若葉の色彩と、池の水面に反射する朝の甘いひかりがまばゆい風景を形成している。
上機嫌に先頭を歩くアルを滝沢とふたりで追いかけながら、「そういえば、柚原さんって印象派が好きって言ってましたよね?」と話を振られ、右隣を見上げた。
「はい、印象派は大好きです」
「上野のほうで今度展覧会あるの知ってます?」
「印象派展ですよね!あれすごい楽しみにしてて初日に絶対並ぼうと思って」
「はは、さすがに知ってましたか」
「滝沢さんも行かれる予定だったんですか?」
「まさか、俺は絵画はさっぱりですよ」
偶然駅にあるポスターを見掛けて知っているのか確かめただけだという滝沢は、美術にはあまり興味がないらしい。
「でも今回のはモネもルノワールもドガも来日するので、普段はあまり絵画に触れられない方でも親しみやすいと思いますよ」
「今回はどれが来るんです?」
「モネの睡蓮はきますね、あとドガなら確か…」
パーカーのポケットから取り出したスマホで検索をかけ、滝沢と一緒に覗き込む。ふいに近付いた距離のおかげで滝沢からはやっぱり微かに煙草の匂いがして、喫煙者なのかな?と関係ない考えた頭をよぎった。
「へえ、確かにどれも綺麗ですね」
「よかったらチケット余ってるのでいります?」
「え、なんで余ってるんですか?」
「実は美術館の館長さんと知り合いで――」
そんな会話をしていた時、ちょうど滝沢の部屋のすぐ近くまで来たところで大きなクラクションが響いた。反射的にびくりと肩を震わせ、その音の方角を振り返ると、対向車線側で信号無視の自転車と小型のトラックが衝突しかけ、急ブレーキを踏んだらしかった。
「うわ、危ねえな、危機一髪じゃん」
滝沢がさすがに驚いたような声で呟いた。
周囲の人も同様に、音の方角へと注目を集める。
急ブレーキを踏んだ拍子に荷台から落ちた鉄の棒が、甲高い音を立ててアスファルトの上にぶちまけられている。自転車はギリギリのところで車を避け、しかし転んではしまったようで、横断歩道の上に倒れていた。
指先から順に、血の気が引いてゆく。
薄すらと開いた唇の隙間から震えた息が漏れた。
「…柚原さん?大丈夫ですか?」
ふと滝沢が私の異変に気付いたように声を掛けてくれるけど、上手く返事もできない。カタカタと震える指先が氷みたいに冷たくて、息を吐くのが難しい。
「柚原さん、大丈夫、ゆっくり息を吐いて」
「、っ、ごめ、なさ、ごめ――」
「謝らなくていいです」
貴方は何も悪いことしてないでしょ。
そう言い聞かせるように、そっと私の肩を抱く。
息苦しさにバラバラとこぼれ落ちる涙が頬を濡らした。滝沢の大きな手が宥めるように背中を撫でてくれる。抱き寄せられて顔を埋めたシャツからやっぱり煙草の匂いがして、苦手なはずのそれが妙に懐かしくて。
「柚原さん、俺のうちまで歩けます?」
「―ッ、う、あ、るけっ、」
「柚原さん」
滝沢の手が頬に添えられる。
逆光を浴びて、その表情がうまく結べない。
「ちょっとだけ我慢してください」
ふわりと持ち上がった身体が滝沢の長い腕に包まれている。突然のことにびっくりした拍子に深く息を吐くことが出来て、息苦しさがほんの少しだけ和らいだ。
そのまま滝沢が早足に歩き出す。
なだらかな肩越しに不安げなアルの顔が見えた。
(ああ、ごめんね――ごめんなさい)
迷惑ばかり掛けてしまってごめんなさい、なにも器用に出来なくてごめんなさい、いつもみんなの期待に応えられなくてごめんなさい――滝沢の肩に顔を埋めながら、次から次へと流れ出す涙は懺悔に染まっている。
――今でも、馬鹿な夢を見てしまう。
もう二度と会うことは叶わないと知ってるのに。
最初の婚約者だった巳影が亡くなってしまう少し前のこと、巳影の実家の運営していた大型自動車メーカーで、国に提出していた排気ガスと燃費に関するデータの不正問題が発覚した。
この虚偽申告を受けて大型トラックの出荷停止や数万台単位のリコールなど、各方面に甚大な損害が生じた。発生した損害に対する責任は誰かが背負わなければならない。そしてそれは当然、創業者一族の後継として社内の地位を得ていた巳影にも向いた。
でもその頃の私は大学卒業を機に巳影とようやく結婚できることに浮かれ切っていて、彼の苦労も重圧も知らず、少しずつ窶れてゆく大きな背中を擦ってあげることさえできていたのか心許ない。
最後まで優しいままだった巳影が口癖のように大丈夫と笑うのを、何故信じたのだろう?あんなに繊細で優しい人が、雪崩のような悪意を浴びて平気なはずがないのに。自分に都合の悪いことには蓋をして、ただ甘くやわらかな側面だけを身勝手に切り取って。
豊川巳影の死因は、確かに事故死だ。
だがその時の行動には僅かに不審な点があった。
横断歩道を渡っていた巳影に脇見運転のトラックが突っ込んだ時、その防犯カメラ映像を警察が確認すると、巳影には迫ってくるトラックを避ける素振りがまるでなかったと。
もし自分にトラックが向かって来たら、普通は危険を察知して人は反射的に逃げるような動作を見せるものだ。でも、映像の中の巳影はその場から一切動こうとはしていなかった。
まるでトラックとの衝突を待っていたかのような巳影の最期の行動を、だからと言って自殺に近いものと断定することはできない。それでも、もしかしたら――と周囲の誰もが想像してしまうほどには、巳影の立場は悪く、誰もそんなわけはないと言えなかった。
「落ち着きましたか?」
過呼吸のようになってしまった私を自宅に連れ帰り、ソファーの上で休ませてくれた滝沢が心配そうに顔を覗き込んで、ぺったりと涙の張りついた頬を親指でなぞる。
「…ごめん、なさい、ご迷惑をお掛けして」
「そんな風には思ってないですよ」
「実は、あの、車の事故で……近しいひとを失くしたことがあって」
過去を言葉にしたら、また涙があふれた。
いつまでもこんな風に引きずっていたって仕方がないとわかっているのに、どうして自分の心さえままならないの?大好きだった優しい面影ばかり何度も思い返しては、なにも救えなかった自分の無力さに打ちひしがれても、過去が変わることはないのに。
「だいすきな、ひとが、いたんです」
生まれて初めて恋をした。
穏やかで、誠実で、私にはもったいないひとに。
佳乃って私を呼んでくれる低くて落ち着いた声が大好きだったの。少し垂れ目で、弟とお揃いの八重歯があって、普段は大人びて格好良い彼が時々子供みたいな顔をして、声を立てて笑うのを見るとドキドキして。
「なのに、わたし、なにもしてあげられなくて」
どれだけ苦しかったんだろう?
少し痩せた彼の背中が、今も瞼に焼き付いて。
あの時、私がもっと大人だったらなにか変わっていたのかなって。あれから何年も経った今だってこんなに私は無力なまま、この小さな手はなにも掴めずにいるのに。
「ごめ、なさ、こんな話…」
「いいよ、俺で良ければ、全部吐き出しなよ」
年甲斐もなく泣いてばかりの私を滝沢の長い腕がそっと抱き締めてくれる。今まで飲み込み続けて胸の奥でドロドロと醜く凝り固まった滓が、滝沢の少し低い体温に触れて、何かの化学反応みたいに溶け出してゆく。
「多分さ、人には、どうしようもできない領域が確かにあって、それは今さら俺が柚原さんのせいじゃないとか綺麗事並べたって、なにも響かないと思うんだけど」
滝沢の静かな声が耳元で囁いた。
混じり合ったふたり分の体温が私をあまやかす。
「――それでも、柚原さんはなにも悪くないよ」
自分を蔑む必要なんてないよ。
君の優しさに救われた人が必ずいるはずだから。
小さな子供を慈しむみたいに純度の高い透明な優しさが、胸の奥をじわじわとあたためて、卑屈なこころを打ち消してくれる。それはまるで美しい春のひかりのように、無彩色の寂しい世界を豊かな色彩に染めて。
世界はこんなに綺麗だったんだと。
若葉の季節に出会った彼の腕の中で思い出した。
灰色のビル群を見上げながらため息をこぼす。
父に呼び出されて用件もわからぬまま東洋ガラスの本社ビルを訪ねたが、一応籍だけ置いている総務部の面々に挨拶すべきか、それとも直接社長室を訪ねるべきか迷って、結局役員専用入り口からエレベーターに乗った。
「ああ、佳乃、よく来たね」
同じ階にある秘書室を通って社長室のドアを軽くノックすると、扉を開けた顔を出した父の浩一郎がにっこりと相好を崩す。
「うん、あの、どうかしたの?」
「実はその、佳乃に紹介したい人がいてね」
え?と戸惑う間もなく父の後ろに立っていた背の高い男性と目が合って、あ、と思う。その顔を私はもう今まで何度も、写真の中だけで見たことがあったから。
「初めまして、熊谷宗輔といいます」
にっこりと爽やかに微笑みながら私を見下ろすその人は、正真正銘、今回の縁談相手だ。質の良い濃紺のスーツを上品に着こなし、黒い髪を撫でつけるように整えた熊谷は、確かに霞が関勤務の堅実さを感じさせる。
「え、は、初めまして……柚原佳乃です」
「突然のことで驚かれましたよね、すみません」
「宗輔くんが偶然こちらに来る用事があると土産を持ってきてくれてね、せっかくだから一度、気軽な場でまず会っておくのもいいんじゃないかと思ってさ」
びっくりさせてすまない、という父の瞳が苦笑を帯びていることを私は見逃さなかった。熊谷との縁談について、私がなかなかいい返事を返さないことに相当焦れていたらしい。
本来ならこういう騙し討ちのような戦法を取ることを、真面目な父は嫌う。それでも抗いきれないほどの重圧があったのだろうことを察して、私は両親への申し訳なさと同時に、差し迫ったタイムリミットを自覚した。
「とは言っても私は勤務中なので、そろそろ失礼しようと思ってたところで」
「ああ、そうだよね、引き留めて申し訳ない」
「こちらこそ逆に土産をいただいて」
父が大のワイン好きなので喜びます、と深緑色の紙袋を掲げた熊谷がコートを手に取ったのを合図のように、父は「それなら駅のほうまで佳乃のことを送って行ってもらえないか」とあらかじめ計画されていたのだろう行程通りの言葉を口にするので内心肩を落とす。
「ええ、それはもちろん大丈夫ですが…」
「最近娘はひとり暮らしをはじめましてね、過保護は重々承知ですが、親としてはどうにも心配で仕方ないんですよ」
中肉中背を絵に描いたような父が熊谷の隣に並ぶと、余計に彼の背丈が際立った。確か学生時代はテニスをされていたとか聞いた気がするし、今でも日常的に身体を動かしている人特有の、研ぎ澄まされた神経が隅々まで行き渡ったような感じが熊谷には備わっている。
「佳乃さん、もしよければ駅までお送りします」
「…ありがとうございます」
これでどうして、結構ですと言えよう。
そんな私の心情を察したように父が眉を下げた。
結局私は応接用のソファーに座ることも許されぬまま熊谷と社長室を出て、秘書課の職員からの微妙な視線をかわし、エレベーター前まで見送りに出向いた父に手を振られ、熊谷と四角い密室でふたりきりにされた。
「…これは、さすがにあからさまでしたよね」
「…なんだかうちの父がすみません」
「いえ、この前うちの父からも同じような催促があったばかりで。それで今日も柚原社長にお渡しするようにとか言って、なんでか俺に旅行の手土産なんか押し付けてきたので、おそらく計画的な犯行でしょうね…」
どこか疲れたように熊谷が笑った。
熊谷にしても、父の相手なんて気を遣うだろう。
ゆったりと下降するエレベーターの中で顔を見合わせた私と熊谷は、なんとも言えない気まずい空気の中、しかし同じような身の上もあって、結局諦めるほかなかった。
「…ええっと、縁談の件はどこまで?」
「そろそろお返事しなきゃと思ってたところで」
「あの、ちなみにそれって会う方向で?それともお断りの方向でした…?」
「あ、いえ、それはもちろん会う方向で…!」
「ああ、それなら良かったです」
実は私もさっき柚原社長に聞かれてそう答えたところで、と熊谷が安心したように目尻を垂らす。
その時ちょうど地下に到着したエレベーターを降りた私たちは、薄暗いひんやりとした地下駐車場にある、来客用スペースに停められた熊谷の車の前で一度足を止めた。
「もし佳乃さんが断る予定だったら余計なことを言ったかとヒヤヒヤしました」
「いえ、そんな、滅相もないです…」
「あー…まあ、正直お互い微妙な立場ですが…」
こめかみのあたりに手を添えた熊谷が慎重に言葉を選ぶみたいに、少し視線を泳がせた。立場や境遇と、感情や葛藤を天秤にかけ、私たちは生きることしかできない。
「少し、頑張ってみませんか?」
ひとまずは気楽に、と照れたように笑う。
熊谷の穏やかな人柄がにじみ出たかのようなその優しい笑顔にほっとして、でも、胸の奥で疼く寂寥が微かな痛みを生む。あの切ないピアノの旋律に掘り起こされた後ろめたさが、いつまでも鳴り止まなくて。
(ああ、どうしてなんだろう?)
あの夜からずっと、泣き出しそうに寂しい。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「へえ、意外と様になってるじゃん」
私の家までお酒を持って訪問してくれた柑菜と今夜はホームパーティーだ。母に教わったキッシュのレシピを初めて試してみたら、美味しいとお墨付きをもらえて嬉しい。
「猫まで飼っちゃって、結婚前に」
「ハナと一緒に嫁がせてくれない人は絶対やだ」
「それで、財閥御曹司はどうだったの?これからふたりで韓ドラやるわけ?」
とりあえずビールからの法則に則った柑菜が数本のアルミ缶を空にしたところで、そんな嫌味を言われながらワインのコルクを開ける。
結局あれから月末にでも時間を作って食事でも行こうか、という話になり、そのまま駅まで熊谷の車で送り届けてもらって解散した。そしてその日の夜にまた両親から実家に呼び出され、さすがに少しうんざりしながら経過報告をしてきたという事の顛末だ。
「うわ、さすがに同情するわ…」
「でもふたりともすごいほっとした顔してて…」
「まあ佳乃のとこのご両親って基本的に善良な親御さんだから余計複雑だよね、これが韓ドラとは違う悲しき現実か」
爽やかな風味の白ワインが鼻に抜けた。
もう私は大人で、だから親の立場も知っている。
世継ぎがいないのなら早急に現職の役員から後継を指名するべきだと逸る役員たちと、代々柚原の築き上げてきた基盤をどこの馬の骨ともしれない連中に渡すなんて許されないと憤る親族たちとの板挟みで、父と母にはもう何年もずっと、肩身の狭い思いをさせている。
「もう、潮時なのかなって思って…」
「財閥御曹司はいい人そうだったんだよね?」
「そうなの、見た目も写真で見るより爽やかで格好良くて、物腰も柔らかいし、それに笑った顔が結構好きな感じでね」
だから、きっと大丈夫だと思うの。
ゆっくり好きになっていけるんじゃないかって。
記憶の中に根を張る美しく清らかな思慕と憧憬に及ぶことはなくても、恋から以外の形で、幸せな家族を築くこともできるんじゃないかって必死に言い聞かせている。
「でもさ、佳乃の人生は親とか家のためにあるわけじゃないんだよ?」
「…わかってる、けど、でも」
「私は佳乃の立場とか全然わかんないけど」
珍しく柑菜が言葉を迷うみたいに舌の上で沈黙を転がす。どこまで踏み込んでいいのか、優しい友達はいつも私に気を遣って、核心には触れないままでいてくれた。
――でも、
「まだ、忘れられないんじゃないの?」
あの夜から鳴り止まない寂しさの正体を暴いてしまったら、余計に辛くなるから。だって失われたものは永遠に戻らなくて、私はもうずっと悲しみの出口を見つけられないまま、ひとりきりではどこにも行けずに。
美しい記憶だけが今も光り輝いて。
その代償に色彩を失った世界をただ生きていた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「あ、今日は来た」
最近はすっかり自分の定位置だと思っていた木製のベンチに珍しく座っていた滝沢が、文庫本を片手にそこを訪れた私を見つけ、おはようございますと相好を崩した。
「珍しいですね、休憩ですか?」
「いえ、柚原さんが来ないかなーと思って」
「え?私がですか?」
「昨日は来なかったですよね?だからアルが拗ねちゃって、あと俺もちょっと避けられたのかなと心配になりまして」
パタパタと私の足元に駆け寄ってきたアルが思い切り尻尾を振りながら飛びついてくるので、私はその勢いに少しよろけそうになるのを堪えて腰を屈めた。そしてお尻のほうを向けてくるアルの胴をわしゃわしゃと撫でる。
「どうして私が避けるんですか?」
「俺のエスコートに粗相があったのかなって?」
「え、あっ…!」
そうだよ、何を暢気に!
人様の前であれだけ散々泣いておいて…!
今さら先週末の演奏会のあとで無様な大号泣を滝沢に披露してしまったことを思い出した私は、大慌てで滝沢のほうに駆け寄り、ごめんなさいと謝罪を口にする。
「せ、先日はお見苦しい姿を見せてしまって…」
「別に泣き顔も可愛かったですよ?」
「かわっ……?」
本当に恐ろしい人だ、どうしよう。
それとも海外育ちが為せる業なのだろうか?
にっこりと微笑みかけてくる美貌の青年に可愛いだなんて言ってもらえる日が来るとは、人生とはわからないものだ。お世辞とわかっていてもつい絆されてしまいそうになる。
「菫も喜んでしましたよ、お礼を伝えてって」
「そんな、私は何もしてないのに…」
「あと鍵盤に触れるのすら数年振りで指がちっとも回らない俺の不恰好な演奏も聞いていただいてありがとうございました」
さすがに下手すぎて恥ずかしかったですね。
そう言って苦笑する滝沢は、まだ混雑するには時間が早くてまばらだった客席からあれだけ盛大な拍手を受けていながら、自分を下手だと断じるほど高度な領域でピアノを弾いていたのかと改めてびっくりしてしまう。
「いえ、あの、ピアノに触れるのが数年振りでもあんなに上手に弾けるんだって、むしろ私は感動していたので…」
「ほんと優しいですね、柚原さん」
優しげなアンバーの瞳をまぶしそうに細める滝沢の視線に、なんだか胸の底がきゅっとして、思わず目を逸らしてしまう。すると甘えるように私の膝の上に顎を乗せているアルと目が合って、自分の動揺した気持ちを見つけられたような気がして余計気まずい。
「にしても懐かれましたね?最近毎日柚原さんのこと探すんですよ、コイツ」
「え、それ本当ですか?嬉しいです!」
「しかも会えないとわかりやすく拗ねるんで」
上目遣いに私を見つめるアルの頭を軽く小突いた滝沢が、「ほんと馴れ馴れしい奴だな、犬の特権乱用じゃねえか」と呆れたように笑った。
しかし当のアルは主人からの嫌味などどこ吹く風と言いたげにそれを無視し、私がすりすりと頬を撫でると上機嫌に尻尾を振る。今も子犬のように若々しく透き通ったブラウンの瞳は、飼い主の丁寧な愛の証だろう。
「さて、アル、そろそろ行くか」
滝沢が立ち上がり、アルのリードを引っ張る。それにアルは俊敏に立ち上がり、しかし散歩に戻るわけでではなく――、
「わ、え、ちょっと…!」
器用にベンチの下を潜ったアルは私の足の回りをぐるりと一周する。するとうっかりアルと滝沢の間で拘束されてしまい、私はびっくりして咄嗟に滝沢を見上げた。
「え、うわ、すみません…!」
「わ、引っ張られるとあの、私の足が…!」
「あ、そっか、じゃあ一旦俺が離す……と今にも走り出しそうだなアイツ」
イタズラの成功にどことなく嬉々とした感情を滲ませる賢いアルにふたりして翻弄され、顔を見合わせて噴き出した。
「ふふ、あ、私が自分でほどきますね」
「うちの馬鹿犬のせいでほんと申し訳ないです」
「お利口さんじゃないですか、もし人間だったら軍師になれましたよ」
「くだらねえ戦術しか立てなさそうだな」
滝沢からアルのリードを受け取り、ふくらはぎのあたりに絡みついた紐をほどく。その間にまた駆け寄ってきたアルが膝に顎を乗せるので、ほんと可愛すぎてどうしよう。
「あの、良かったら私も近くまで一緒に歩いてもいいですか?アルと離れ難いので」
「あんまり甘やかすとつけあがりますよ、男は」
「こんな可愛い男の子なら大歓迎です」
「まあそれなら是非」
まんまと作戦成功させやがったな、と悪態をつく滝沢がアルのお尻を軽く叩き、のんびりとした足取りで歩きはじめた。私はアルのリードを握ったままその後を小走りで追いかけると、すぐに振り返った滝沢は、何も言わずに歩調を緩めてくれるので相変わらず優しい。
皐月もそろそろ折り返しに差し掛かりはじめた公園は、優しい若葉の色彩と、池の水面に反射する朝の甘いひかりがまばゆい風景を形成している。
上機嫌に先頭を歩くアルを滝沢とふたりで追いかけながら、「そういえば、柚原さんって印象派が好きって言ってましたよね?」と話を振られ、右隣を見上げた。
「はい、印象派は大好きです」
「上野のほうで今度展覧会あるの知ってます?」
「印象派展ですよね!あれすごい楽しみにしてて初日に絶対並ぼうと思って」
「はは、さすがに知ってましたか」
「滝沢さんも行かれる予定だったんですか?」
「まさか、俺は絵画はさっぱりですよ」
偶然駅にあるポスターを見掛けて知っているのか確かめただけだという滝沢は、美術にはあまり興味がないらしい。
「でも今回のはモネもルノワールもドガも来日するので、普段はあまり絵画に触れられない方でも親しみやすいと思いますよ」
「今回はどれが来るんです?」
「モネの睡蓮はきますね、あとドガなら確か…」
パーカーのポケットから取り出したスマホで検索をかけ、滝沢と一緒に覗き込む。ふいに近付いた距離のおかげで滝沢からはやっぱり微かに煙草の匂いがして、喫煙者なのかな?と関係ない考えた頭をよぎった。
「へえ、確かにどれも綺麗ですね」
「よかったらチケット余ってるのでいります?」
「え、なんで余ってるんですか?」
「実は美術館の館長さんと知り合いで――」
そんな会話をしていた時、ちょうど滝沢の部屋のすぐ近くまで来たところで大きなクラクションが響いた。反射的にびくりと肩を震わせ、その音の方角を振り返ると、対向車線側で信号無視の自転車と小型のトラックが衝突しかけ、急ブレーキを踏んだらしかった。
「うわ、危ねえな、危機一髪じゃん」
滝沢がさすがに驚いたような声で呟いた。
周囲の人も同様に、音の方角へと注目を集める。
急ブレーキを踏んだ拍子に荷台から落ちた鉄の棒が、甲高い音を立ててアスファルトの上にぶちまけられている。自転車はギリギリのところで車を避け、しかし転んではしまったようで、横断歩道の上に倒れていた。
指先から順に、血の気が引いてゆく。
薄すらと開いた唇の隙間から震えた息が漏れた。
「…柚原さん?大丈夫ですか?」
ふと滝沢が私の異変に気付いたように声を掛けてくれるけど、上手く返事もできない。カタカタと震える指先が氷みたいに冷たくて、息を吐くのが難しい。
「柚原さん、大丈夫、ゆっくり息を吐いて」
「、っ、ごめ、なさ、ごめ――」
「謝らなくていいです」
貴方は何も悪いことしてないでしょ。
そう言い聞かせるように、そっと私の肩を抱く。
息苦しさにバラバラとこぼれ落ちる涙が頬を濡らした。滝沢の大きな手が宥めるように背中を撫でてくれる。抱き寄せられて顔を埋めたシャツからやっぱり煙草の匂いがして、苦手なはずのそれが妙に懐かしくて。
「柚原さん、俺のうちまで歩けます?」
「―ッ、う、あ、るけっ、」
「柚原さん」
滝沢の手が頬に添えられる。
逆光を浴びて、その表情がうまく結べない。
「ちょっとだけ我慢してください」
ふわりと持ち上がった身体が滝沢の長い腕に包まれている。突然のことにびっくりした拍子に深く息を吐くことが出来て、息苦しさがほんの少しだけ和らいだ。
そのまま滝沢が早足に歩き出す。
なだらかな肩越しに不安げなアルの顔が見えた。
(ああ、ごめんね――ごめんなさい)
迷惑ばかり掛けてしまってごめんなさい、なにも器用に出来なくてごめんなさい、いつもみんなの期待に応えられなくてごめんなさい――滝沢の肩に顔を埋めながら、次から次へと流れ出す涙は懺悔に染まっている。
――今でも、馬鹿な夢を見てしまう。
もう二度と会うことは叶わないと知ってるのに。
最初の婚約者だった巳影が亡くなってしまう少し前のこと、巳影の実家の運営していた大型自動車メーカーで、国に提出していた排気ガスと燃費に関するデータの不正問題が発覚した。
この虚偽申告を受けて大型トラックの出荷停止や数万台単位のリコールなど、各方面に甚大な損害が生じた。発生した損害に対する責任は誰かが背負わなければならない。そしてそれは当然、創業者一族の後継として社内の地位を得ていた巳影にも向いた。
でもその頃の私は大学卒業を機に巳影とようやく結婚できることに浮かれ切っていて、彼の苦労も重圧も知らず、少しずつ窶れてゆく大きな背中を擦ってあげることさえできていたのか心許ない。
最後まで優しいままだった巳影が口癖のように大丈夫と笑うのを、何故信じたのだろう?あんなに繊細で優しい人が、雪崩のような悪意を浴びて平気なはずがないのに。自分に都合の悪いことには蓋をして、ただ甘くやわらかな側面だけを身勝手に切り取って。
豊川巳影の死因は、確かに事故死だ。
だがその時の行動には僅かに不審な点があった。
横断歩道を渡っていた巳影に脇見運転のトラックが突っ込んだ時、その防犯カメラ映像を警察が確認すると、巳影には迫ってくるトラックを避ける素振りがまるでなかったと。
もし自分にトラックが向かって来たら、普通は危険を察知して人は反射的に逃げるような動作を見せるものだ。でも、映像の中の巳影はその場から一切動こうとはしていなかった。
まるでトラックとの衝突を待っていたかのような巳影の最期の行動を、だからと言って自殺に近いものと断定することはできない。それでも、もしかしたら――と周囲の誰もが想像してしまうほどには、巳影の立場は悪く、誰もそんなわけはないと言えなかった。
「落ち着きましたか?」
過呼吸のようになってしまった私を自宅に連れ帰り、ソファーの上で休ませてくれた滝沢が心配そうに顔を覗き込んで、ぺったりと涙の張りついた頬を親指でなぞる。
「…ごめん、なさい、ご迷惑をお掛けして」
「そんな風には思ってないですよ」
「実は、あの、車の事故で……近しいひとを失くしたことがあって」
過去を言葉にしたら、また涙があふれた。
いつまでもこんな風に引きずっていたって仕方がないとわかっているのに、どうして自分の心さえままならないの?大好きだった優しい面影ばかり何度も思い返しては、なにも救えなかった自分の無力さに打ちひしがれても、過去が変わることはないのに。
「だいすきな、ひとが、いたんです」
生まれて初めて恋をした。
穏やかで、誠実で、私にはもったいないひとに。
佳乃って私を呼んでくれる低くて落ち着いた声が大好きだったの。少し垂れ目で、弟とお揃いの八重歯があって、普段は大人びて格好良い彼が時々子供みたいな顔をして、声を立てて笑うのを見るとドキドキして。
「なのに、わたし、なにもしてあげられなくて」
どれだけ苦しかったんだろう?
少し痩せた彼の背中が、今も瞼に焼き付いて。
あの時、私がもっと大人だったらなにか変わっていたのかなって。あれから何年も経った今だってこんなに私は無力なまま、この小さな手はなにも掴めずにいるのに。
「ごめ、なさ、こんな話…」
「いいよ、俺で良ければ、全部吐き出しなよ」
年甲斐もなく泣いてばかりの私を滝沢の長い腕がそっと抱き締めてくれる。今まで飲み込み続けて胸の奥でドロドロと醜く凝り固まった滓が、滝沢の少し低い体温に触れて、何かの化学反応みたいに溶け出してゆく。
「多分さ、人には、どうしようもできない領域が確かにあって、それは今さら俺が柚原さんのせいじゃないとか綺麗事並べたって、なにも響かないと思うんだけど」
滝沢の静かな声が耳元で囁いた。
混じり合ったふたり分の体温が私をあまやかす。
「――それでも、柚原さんはなにも悪くないよ」
自分を蔑む必要なんてないよ。
君の優しさに救われた人が必ずいるはずだから。
小さな子供を慈しむみたいに純度の高い透明な優しさが、胸の奥をじわじわとあたためて、卑屈なこころを打ち消してくれる。それはまるで美しい春のひかりのように、無彩色の寂しい世界を豊かな色彩に染めて。
世界はこんなに綺麗だったんだと。
若葉の季節に出会った彼の腕の中で思い出した。