永遠の終わりに花束を
#06 エトワールの誘惑
青々とした葉の隙間から春光が差す。
上野駅前は、朝から随分な賑わいを見せていた。
駅の改札を出てすぐのところにある美術館の看板には、モネの睡蓮の絵を背景にしたポスターが貼られており、その前で観光客とおぼしき白人の女性が写真を撮っている。
「え、あれって物品販売の行列?」
上野駅からすぐの美術館の前には朝から既に長蛇の列が出来ていた。それを見つけた滝沢は怪訝そうに、「なんで展覧会よりショップのが列長いんですかね?」と首をひねり、展示会の入場ゲートに足を向ける。
「印象派の展示会グッズは人気なんです」
「へえ、ネットで買えないの?」
「買えるものもあるんですけどショップでしか手に入らないものもあって」
「それであんな並んでるわけですか」
よくわかんねえな、と呟いた最後の言葉は多分ひとり言だろう。最近少しだけ敬語がゆるんできている滝沢をこっそりと見上げたら、ん?とすぐに気付かれて、慌てて居住まいを正す。
何故私と滝沢がこうして一緒に印象派の展示会を訪れているかというと、話は一週間前に遡る。事故寸前の現場を目撃して動揺してしまった私のことを滝沢が自宅に連れ帰ってくれたあと、過呼吸の疲れからか、そのまま滝沢の腕の中で寝落ちてしまったらしい私が次に目覚めると、綺麗な顔が呆れてこちらを見ていて、
『男の部屋で寝落ちるのはさすがにダメです』
『…はい、すみません』
『今回は体調不良だったのでやむを得なかったですけど、本来ならいくら友人でもひとり暮らしの男の家なんかにひとりでホイホイついて行ったら痛い目見ますからね。俺が今、変な気起こしたら柚原さんは絶対そんな小さい体で大の男相手に敵わないんですよ』
と、懇々と叱られてしまったのだ。
確かにいくら何でも警戒心がなさすぎた、反省。
珍しく機嫌の悪い滝沢に平身低頭謝罪を繰り返すほかなかった私が、今日のお詫びをと申し出たところ、それなら今回は印象派展のチケットで手を打ちましょう、と滝沢からのお許しを得たのだ。
だけど自分ひとりでは絵画なんてさっぱりわからないから、本当に今日のことを悪いと思うなら誠心誠意俺のガイドをするように――そう言って悪戯っぽく笑う滝沢は、もうこれっぽっちも怒ってなんかいなかった。
「音声ガイド使われますか?」
「俺は柚原さんのガイドで回るので」
「ええ、でも、私も知らない絵がいっぱいで…」
今回の展示の目玉となる作品はモネの『睡蓮』とルノワールの『陽光の中の裸婦』、そしてなんと言ってもドガの『エトワール』だろう。過去を振り返っても、ここまで有名作品が勢揃いして来日した展示会はなかなかない。
しかし、そうは言っても、古今東西のありとあらゆる名画に精通していると胸を張れるほど私の造詣は深くない。展示作品の目録にはざっと目を通したけど、当然ながらそのほとんどは知らない画家と作品で埋め尽くされており、ガイド役には心許ない人選だ。
「柚原さんってバレエとかもしてました?」
「え、なんでわかるんですか?」
「プリマっぽいので」
それは、どの部分がなんだろう?
例の如くバレエもまったく才能がなかったのに。
思わず首をかしげると、展示会のパンフレットで口元を隠した滝沢がくすくす笑うので、なんだか揶揄われたみたいだ。
「え、なんで笑ってますか?」
「ほんといちいち可愛いなあと思いまして」
「かわ、かわいくないです、もう三十も過ぎてますから年齢的にも……」
「俺ら同い年だったのビビりましたよね」
「…そんなに幼く見えますか」
「はい、完全に」
この間発覚したのだが、滝沢と私は同い年だ。
私のほうはなんとなく同世代かなと思っていたんだけど、滝沢は『え、嘘でしょ?絶対4~5歳は下だと思ってたわ』と目を丸くされて、ちょっと心外だった。
「若々しいってことじゃないですか」
「でも、滝沢さん、さっき幼いって言いました」
「幼いって言葉を選んだのは柚原さんで、俺はそれを訂正しなかっただけです」
ほんと、ああ言えばこう言うんだから。
口達者な滝沢に私は言い負かされてばかりだ。
入場口から地下に降りる階段を降りながら仏頂面を晒していると、滝沢はどこか得意げに、軽く私の背中を叩いてくる。
「それにあれは少女のように清らかで純粋な柚原さんの心根が透けて見える、という敬意を込めた褒め言葉ですから」
「絶対適当なこと言ってるじゃないですか」
「はは、バレてた?」
どこか子供じみて滝沢が歯を見せた。
それに私は一瞬固まって、咄嗟に目を逸らす。
砕けた口調と邪気のない笑顔を不意に向けられると、最近はなんだか胸のあたりがそわそわとして落ち着かない。
展示会初日というだけあって展示室内は正しく順路を進むだけでも苦労するほどの人混みで、特に背の低い私にはしんどい。一方の滝沢は人混みの中でも頭半分ほど飛び出ているおかげで割りと快適そうにしていて、「大丈夫ですか?」と私を気遣う余裕まである。
「多分、少しずつ人もまばらに散らばっていくと思うので少しの間の我慢です」
「女の人は埋もれちゃうから大変ですよね」
「ほんと背が高いの羨ましいです」
「あ、危ないですよ」
滝沢の顔を見上げながら話していたせいで、前に並んでいた男性の背中にぶつかりそうになった私の腰に滝沢の腕が回される。そのまま引き寄せられると、不意に近づいた滝沢の体から石鹸と煙草が混じったような匂いがして、どきん、と大きく心臓が跳ねた。
ああ、なんだろう、最近おかしい。
心臓が今までとは全然違う音を立てて鳴るから。
「ちゃんと前見なきゃ危ないですよ」
「あ、ご、ごめん、なさい、助かりました…」
呆気なくするりと離された腕と距離をどこか少し物足りなく思うなんて、どうかしてる。思わず火照った顔を隠すように俯けながら、絵画の前の道が開くのを待つ。
「お、これがかの有名な睡蓮ですか」
「綺麗ですよね、特にこの青っぽいのが好きで」
「これ以外にもあるんですか?」
「モネの睡蓮は250点ぐらいありますよ」
晩年、ジヴェルニーに邸宅を建てたモネは美しい庭造りにも情熱を傾け、そしてその風景をさまざまな季節、天気、時間、構図、そして光の変化にこだわって描かれた。睡蓮の絵画は、移ろいゆく風景の変化をそのままカンバスの中に閉じ込めたように、それぞれの作品によって、まるで違う表情を見せてくれる。
「それなら色々見比べてみたかったな」
「モネ展とかなら、何点も一気に来日しますよ」
「ならまたその時に案内してください」
「え?あ、私で良ければ…」
これは、単なる社交辞令だろう。
滝沢の横顔を盗み見ながら自分に言い聞かせる。
どうしてこんなに必死で予防線を張るようなことしているんだろう?ふわりと揺れるフレアスカートの裾を握り締めながら、さっきからずっと変な自分に気付かない振りをした。
のんびりと絵画を眺めながら順路を進んでゆく間に少しずつ人もまばらになってゆき、私たちは時折小声で会話をしながら、今回の展示の目玉でもあるドガの絵の前に辿り着いた。
オペラ座に通い詰めたドガはバレエの練習風景や舞台の絵を何枚も描いている。フランス語で星を意味するエトワールは、そのバレエ団でトップの踊り子だという称号でもある。しかし絵画の中で踊るエトワールの姿は優美でありながら、どこか孤独と悲壮を感じさせる。
「当時フランスのバレエは凋落気味で、オペラの添え物のような扱いだったんです。だから上流階級の男性が愛人を見つけるための品定めに来るような場になってしまっていて、バレリーナは大抵身分の低い貧しい少女がなるものでした。ドガの絵にはそういう社会的なメッセージの強い作品が多いんです」
ドガが生涯で描いた作品のうち半分以上はバレエにまつわるものだと言われている。毎週のようにオペラ座に通い詰めたドガは、舞台の上で踊るバレリーナの姿を綿密に描き出した。
階級意識の強かった時代に労働者階級の女性は差別や偏見に苦しみ、ゆえにバレリーナとして華やかな舞台に立つその裏では、お金持ちの男性の愛人となるしかなかった。そういう光と影、理想と現実の対比がドガの作品には色濃く映し出されている。
「確かに、綺麗だけどちょっと怖いですね」
「ドガは印象派の代表的な画家として知られてますけど、他の画家とは少し違って、人間の生々しさとか、社会の矛盾とか、そういう現実的なものを描いたそうです」
へえ、と隣で滝沢が興味深そうに呟いた。
その間も滝沢の視線はエトワールに独占されており、他の絵よりも随分と長い間、私たちはその柄の前に佇んでいた。
それから美術館を出ても昼食を摂るには少し早い時間だったので、なんとなく上野公園を通って浅草までぶらぶらとお散歩してみることになった。
「滝沢さんってクワタにお勤めなんですか?」
「そうですよ、一応営業にいます」
「私の知り合いもクワタで営業をしてて…」
「へえ、今東京ですか?」
話の流れで何気なくなんの仕事をされているのか尋ねてみたら、随分と馴染み深い社名が出てきて少しびっくりしてしまう。何を隠そう、自動車業界最大手であるクワタ自動車は、私の元婚約者の勤め先なのだ。
「そうなんです、豊川って名前ご存じですか?」
「…え、まさか下の名前が夕鷹?」
「そうです!」
本当にご存じなんですか!と驚いて滝沢のほうを見上げたら、形のいいアーモンド形の瞳が同様に見開かれている。
「知ってるも何も、直属の部下ですよ」
「え、なら一緒に働いてるってことですか…?」
「そうですよ、昨日も夜遅くまで豊川くんの残業手伝わされてましたし、俺」
どうやら同じ海外事業部の中の営業部門で夕鷹の上司をされているらしい滝沢は、「俺の残業の半分は彼のせいですから」とうんざりした顔で呟くので、お門違いながら妙に申し訳ない。
「てか豊川くんとなんの知り合いなんですか?」
「え、あ、普通にただの幼馴染みで!」
「東洋ガラスのご令嬢と幼馴染みって、アイツ何者ですか?柚原さんはずっと女子校育ちだってこの前言ってましたよね?」
うわああ、どうしよう、と当惑する。
夕鷹は今の会社でまだ素性を隠しているのに!
しかし訝しがるような視線を滝沢に向けられると上手い言い逃れも出てこなくって、私はまるで蛇に睨まれた蛙の如く、滝沢と目が合ったまま硬直するほかない。
「豊川くんってなんかちょっと謎の経歴だなって思ってたんですよねえ、俺。普通は新卒で海外支社に速攻飛ばされるなんてまずないし、しかも赴任先がドイツって、北米・中国と並んで世界でもトップシェアの市場に」
「え、あ、わたしは、お仕事のことは……」
「柚原さん?」
にっこり微笑みかけてくる滝沢の目の奥が好奇にあふれている気がして、咄嗟に顔を背けると、無遠慮に私の頬を両手で掴んで「ねえ、なんで目逸らすんですか?」とにじり寄ってくるから心臓が痛いくらい跳ねた。
「ふたりのこと知りたいなあ、俺」
「そ、んな、人様にお話しするようなことは!」
「あのですね、俺の座右の銘って『握れる弱味は全部握る』なんですよ」
だから降参して全部吐いちゃおうか?
三日月形に細められた滝沢の瞳がそれは怖くて。
少し泣きそうになりながら、結局夕鷹にまつわる情報を洗いざらい白状させられたあとで、どうか後生ですからこれは社内で内密にと切実な懇願をする羽目になった。
「豊川くんが野木自動車の跡取り息子で柚原さんの元婚約者ねえ、なるほど」
「あ、あの、これは本当に秘密の話で…」
「わかってますよ、そんなこと」
別にこんなこと社内で暴露したって俺になんのメリットもないから安心してください、と私の背中を励ますように滝沢が叩いたけど、今回に関しては滝沢のせいで私の寿命が縮まっているので全然嬉しくない。
「それであんな深山さんに二の足踏んでたのか」
「あ、万緒ちゃんもご存じですか?」
「同僚でしたからね」
それでなくとも彼女は我が社の高嶺の花として有名でしたから、という滝沢の言葉に感心しながら知られざるクワタ自動車の社内事情について、根掘り葉掘りと聞いてみる。
「ちなみに彼は今クワタの王子様らしいですよ」
「夕鷹が王子様!柄じゃない!」
「ほんとにねえ、でも誰彼構わず愛想振るなんて豊川くんらしくもないと思ってたけど、確かに今後野木で後継ぐなら社内に良い噂だけ残しといたほうが得策ではあるか」
煩雑だな、と滝沢が小さく呟いた。
私はそれを聞こえなかったふりでやり過ごす。
新緑の葉の向こうに広がる空は青を濃くしだしていた。夏の気配がゆっくりと忍び寄っている。でも私はまだもう少しだけ、この儚い若葉の季節に留まっていたくて、瑞々しい香りの立ち込める道をわざとゆっくり歩いた。
そのまま浅草のあたりまで抜けると、かっぱ橋に出た。さまざまな専門店の並んだ通りを少し散策しながら雷門のほうに向かうと、周辺一帯に外国人観光客があふれていて日本じゃないみたいだ。
さすがにちょっと歩き疲れたから帰る前にお茶でもしましょうかと滝沢が言うのに頷いて、近くで空いていそうなカフェを探した。するとその時に背中から「佳乃さん?」と声を掛けられて、咄嗟に振り返る。
「え、あ、宗輔さん!」
「こんなところで奇遇ですね」
「ええ、ちょっと、美術館に行った帰りで…」
「俺は今から公会堂のほうで歌舞伎の公演があるのに付き合わされる予定で」
母が好きなんですよ、と爽やかに笑う。
そこでふと熊谷が私の隣にいた滝沢に気付いた。
すると滝沢はにっこりと口端を持ち上げながら熊谷に会釈をした。それに熊谷も「こんにちは」と礼儀正しく頭を下げ、すぐに私のほうへと視線を戻した。
「すみません、お連れの方といらっしゃる時に」
「いえ、そんなお気になさらず…」
「では俺はこれで」
突然失礼しました、と滝沢のほうにも簡単な謝罪を述べてすぐに熊谷は踵を返した。引き締まった背中が雑踏にまぎれてゆくのを見送ったところで滝沢が声を発した。
「今の紳士はご友人ですか?」
「えっ?あ、いえ、その、まあ、そのような…」
「はは、絵に描いたようなしどろもどろですね」
にこやかに微笑んで私を見下ろす滝沢の顔を見るのが、なんだか辛くて。私はきゅっと指先を握り締めながら、舌の上で転がった嘘を、口にするのは躊躇われて。
だって、嘘をつく理由がない。
滝沢はもう私の境遇も、ある程度は知っている。
――でも、
「……ご縁談の、話が、挙がってる方で」
何故だろう、舌先が震えた。青空の波間に漂った白雲が気まぐれに太陽の光を遮ると、滝沢の手が不意に私の背中を押した。
「ここ、立ち止まってると危ないので」
そう言って私を人波から避けるように歩き出した滝沢の横顔は、こちらを見ていなかった。滝沢はこんな話をされても興味もないだろうからこれは当然の反応だ。
そう、頭ではわかっているのに。
今までこころの奥に燻ぶっていたのとはまた別の痛みが、虚しく灯る。
皐月の風に長く伸ばした髪が靡いた。
色彩を取り戻した世界が、ほんの僅かにくすむ。
(ああ、なにを期待してたんだろう?)
私の世界はこの先も永遠に不自由なままなのに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
創業記念の式典に出席するために久しぶりに出勤した私は、その足で新宿にあるカフェを訪ねた。
大型の観葉植物がたくさん置かれている自然的でお洒落なそのお店で、今万緒がアルバイトをしていると前に聞いたからだ。私は外から少し店内の様子を物色し、ちょうど万緒がレジに立っているのを見掛けて店に入った。
「あ、佳乃さん!」
「お疲れ様、近くまで来たから覗いちゃった」
「えー!嬉しい!てかちょうどもうすぐ上がりなのでどこか座って待っててください!一緒に軽くお茶しましょう!」
ニコニコの笑顔で出迎えてくれる絶世の美女に癒されながら、私は万緒の言う通りにコーヒーを注文し、とりあえず窓際の席に座って万緒の退勤を待つことにした。
「え、滝沢さんと知り合いなの?!」
「そうなの、私もこの前聞いてびっくりして」
「実はなんですけどクワタにいた頃から滝沢さんのことめちゃくちゃ大好きなの、だって死ぬほど格好良くないです?もう完全に推しですよ、もし滝沢さんが付き合ってくれるなら夕鷹とは二秒で破局するレベル」
神妙な顔で酷いことを言う万緒に笑ってしまう。
夕鷹、もうちょっと頑張らないとだね。
万緒は公認会計士を目指す勉強のためにクワタを数か月前に退職しているのだけど、在籍時は広報部に所属していて、新作自動車のプロモーションのことなどで当時滝沢とも色々と連携を取る立場にあったらしい。
「でも、物腰柔らかくて人当たりもいいんだけどたまーに何考えてるのかよくわかんないとこありますよねあの人って」
「そうかな?あんまり感じたことなかった」
「えー、ちょっとミステリアスじゃない?」
「ミステリアス、かな…?」
私は思わず首を捻って考え込む。まあ、確かにあまり自分の話を率先してするタイプの人ではないかもしれないけど、とはいえミステリアスというほど謎めいている感じもしない。
私の知る滝沢直樹という男の人は、吉祥寺に住む愛犬家で、スーツを着るとすごく格好良くて、実はピアノがとっても上手で、なのに演奏家になる夢は諦めてしまった過去があって、絵画にはあまり興味がなくて、小説も映画も古典派で、気障な台詞をさらりと言えて、それで時折――寂しげな横顔で笑って。
(それで、私には少しも気がない)
この前もあれから空席のありそうなカフェを見つけてお茶をしてから帰ったけど、結局滝沢から熊谷との縁談について触れられることはなかった。
滝沢は聡い人だから、私に気を遣って掘り下げずにいてくれただけだろう。そんなのわかってるのに、ひとりで馬鹿みたいに気にして、私は滝沢に一体なにを期待してるんだろう?本当に身の程も知らないで嫌になる。
「ちなみに滝沢さんとLoveの予感とか」
「ないない、私なんか相手にされるわけないよ」
「は?佳乃さんの魅力に気付かない男がこの世に存在します?未だに夕鷹なんか絶対俺の見込んだ男じゃないと佳乃とは結婚させないとか言ってるの普通に初恋拗らせすぎててきもいし今のうちに殲滅しとかないと」
ほんと、万緒ちゃんって夕鷹に厳しいな。
初恋と言ったって夕鷹がまだ中学生ぐらいの頃に何度か告白されたことがある程度の話で、単なる身近にいる年上の異性に対する憧れみたいなものを恋と混同しただけの、幼くて可愛らしい子供の恋物語なのに。
「万緒ちゃん、私も何か手伝うよ」
結局あれから万緒が『せっかく会えれたから一緒に夕飯でも』と誘ってくれたのに甘えて、私はふたりの愛の巣にお邪魔した。そしてハンバーグを準備してくれるという万緒の手伝いをするために服の袖をまくる。
「え、そんなお客様の手を煩わせるわけには…」
「働かざる者食うべからずですからね」
「…なら付け合わせの野菜切ってもらえます?」
「もちろん!このブロッコリーでいい?」
「うん、お願いします」
万緒とあれこれお喋りをしながら料理をする日が来るなんて、少し前までは想像もしなかった。最初は奇妙な始まりだったけど、でも、今こうして万緒が私なんかと仲良くしてくれるのは、本当に心から嬉しくて。
「あのね、私、昔から姉妹に憧れがあってね」
「佳乃さんひとりっ子だもんね」
「だからこんな風に万緒ちゃんが私と仲良くしてくれるのほんとに夢みたいで、何回お礼言っても足りないぐらい」
勝手な願望だって、わかっているんだけどね。
それでもこんな風に妹と並んで料理をするような日常をずっと羨んできたから、今、こうして万緒と一緒にキッチンに立って料理をしていることが私にとっては快挙で。
「…佳乃さんってほんと時々狡い」
「え、うそ、私、なんか嫌なこと言った…?」
「違うよおおお、そんな真っ直ぐな笑顔でそんな可愛いこと言われたら太刀打ちできないじゃん!尊死まっしぐらだよ!」
うああー…、と頭を抱える万緒に、「トウトシってなに?」と驚きながら尋ねていたら、ちょうど玄関で鍵穴の回る音がしたので、もうひとりの家主が帰宅したらしい。
「あ、夕鷹、おかえりなさい」
「佳乃、滝沢さんと会ってるってまじなわけ?」
そんな開口一番、何かと思えば。
夕鷹も滝沢から私のことを聞いたんだろうか?
ただいまの一言すらもなく怖い顔をしてキッチンに顔を出した夕鷹にきょとんとしていると、横で万緒が「ほらね」と呆れたように表情を曇らせながら私の肘を引っ張る。
「嫉妬ですよ、嫉妬。あーやだやだ」
「おいこらそこ!うるせえな!俺は純粋に大事な幼馴染みが悪い男に引っ掛かって悲しまないようにって心配してんだろ!」
「アンタは一体どの立場から物言ってるわけ?」
「だから幼馴染みの立場だろ!」
夕鷹がスーツを着てると未だに七五三の時を思い出すなあとしみじみしながら、私は万緒の言い付け通りにブロッコリーを丁寧にゆすぎ、根本から包丁を入れる。
「てか万緒はいいんだよ!佳乃は無視すんな!」
「え?別に無視はしてないけど」
「ブロッコリー切ってんじゃねえよ、今!」
「声大きいよ、夕鷹」
ご近所迷惑、と窘めるようにブロッコリーから不機嫌そうな夕鷹の顔に視線を戻すが、そんな怖い顔で睨まれる覚えはない。
「滝沢さんと会ってるってまじなのお前」
「職場で聞いたの?ほんと、すごい偶然だよね」
「絶対あんな腹黒野郎は佳乃の手に負えねえから絶対やめとけよ!優しそうな顔してあんなもん詐欺師みてえなもんだからな!絶対騙されて痛い目見るだけだからな!」
何を根拠に、と隣で万緒がうんざりと息をつく。
ほんと、さすがに酷い言い草だ。私も万緒と同様に冷ややかな目を夕鷹に向けて「今ここにいない人の悪口言うのはフェアじゃないよ」と取り合わないことにした。
私はできる限り夕鷹の不満そうな顔を視界に入れないよう、まな板の上のブロッコリーに集中するが、無駄に距離を詰められてすごく不愉快だ。右隣では万緒が「佳乃さんが見るからに嫌そうな顔してんでしょ!離れろ!」と怒号を飛ばし、だが夕鷹は意に介さない。
「まじでお前らなんもないわけ?」
「だからただのご近所さんだよ、それがなに?」
「ただのご近所さんが一緒に美術館行って絵画鑑賞とかしねえだろ!なーにがルノワールだ、意味不明な絵画なんぞ見て『あ、この絵素敵!』とか気色の悪いキャッキャウフフしてきたんじゃねえのかよ、クソが!」
本当になにを言ってるんだろう、この子。
最早どの部分に文句を言われてるのかさえ謎だ。
そしてその横では万緒が「え、美術館なんか一緒に行ったんですか?それはちょっと話が変わってくるんですが?」と大きな瞳をキラキラ輝かせるのでつらい。
「本当にそういうんじゃないんだってば、あんな格好良いひとが私みたいなのわざわざ相手にするわけないでしょ?」
こんな虚しいこと、言わせないでよ。
言葉にしたら余計に悲しくなってしまうから。
滝沢が私になんの興味もないことぐらいちゃんと弁えてるんだから。だけど、どうして関心を持ってもらえないことがこんなに悲しいのかはあまり考えたくなくて。
「…そんな面して何言ってんだよ」
「別に夕鷹には関係ないんだから放っといてよ」
「あとで泣いても絶対慰めてやんねえからな!」
「万緒ちゃん、夕鷹がイジめてくる」
「了解、殺しときますね」
本気でいい加減にしな、と万緒にワイシャツの首根っこを掴まれた夕鷹が文句を叫びながら寝室のほうへと連行されてゆく。私は静かになったキッチンで、切りかけのブロッコリーの根本に包丁の先を入れた。
ざくり、と小気味の良い音がする。
鮮やかな緑がまな板の上に無造作に散らかって。
――『柚原さんはなにも悪くないよ』
大丈夫、もうその言葉だけで生きていけるから。
上野駅前は、朝から随分な賑わいを見せていた。
駅の改札を出てすぐのところにある美術館の看板には、モネの睡蓮の絵を背景にしたポスターが貼られており、その前で観光客とおぼしき白人の女性が写真を撮っている。
「え、あれって物品販売の行列?」
上野駅からすぐの美術館の前には朝から既に長蛇の列が出来ていた。それを見つけた滝沢は怪訝そうに、「なんで展覧会よりショップのが列長いんですかね?」と首をひねり、展示会の入場ゲートに足を向ける。
「印象派の展示会グッズは人気なんです」
「へえ、ネットで買えないの?」
「買えるものもあるんですけどショップでしか手に入らないものもあって」
「それであんな並んでるわけですか」
よくわかんねえな、と呟いた最後の言葉は多分ひとり言だろう。最近少しだけ敬語がゆるんできている滝沢をこっそりと見上げたら、ん?とすぐに気付かれて、慌てて居住まいを正す。
何故私と滝沢がこうして一緒に印象派の展示会を訪れているかというと、話は一週間前に遡る。事故寸前の現場を目撃して動揺してしまった私のことを滝沢が自宅に連れ帰ってくれたあと、過呼吸の疲れからか、そのまま滝沢の腕の中で寝落ちてしまったらしい私が次に目覚めると、綺麗な顔が呆れてこちらを見ていて、
『男の部屋で寝落ちるのはさすがにダメです』
『…はい、すみません』
『今回は体調不良だったのでやむを得なかったですけど、本来ならいくら友人でもひとり暮らしの男の家なんかにひとりでホイホイついて行ったら痛い目見ますからね。俺が今、変な気起こしたら柚原さんは絶対そんな小さい体で大の男相手に敵わないんですよ』
と、懇々と叱られてしまったのだ。
確かにいくら何でも警戒心がなさすぎた、反省。
珍しく機嫌の悪い滝沢に平身低頭謝罪を繰り返すほかなかった私が、今日のお詫びをと申し出たところ、それなら今回は印象派展のチケットで手を打ちましょう、と滝沢からのお許しを得たのだ。
だけど自分ひとりでは絵画なんてさっぱりわからないから、本当に今日のことを悪いと思うなら誠心誠意俺のガイドをするように――そう言って悪戯っぽく笑う滝沢は、もうこれっぽっちも怒ってなんかいなかった。
「音声ガイド使われますか?」
「俺は柚原さんのガイドで回るので」
「ええ、でも、私も知らない絵がいっぱいで…」
今回の展示の目玉となる作品はモネの『睡蓮』とルノワールの『陽光の中の裸婦』、そしてなんと言ってもドガの『エトワール』だろう。過去を振り返っても、ここまで有名作品が勢揃いして来日した展示会はなかなかない。
しかし、そうは言っても、古今東西のありとあらゆる名画に精通していると胸を張れるほど私の造詣は深くない。展示作品の目録にはざっと目を通したけど、当然ながらそのほとんどは知らない画家と作品で埋め尽くされており、ガイド役には心許ない人選だ。
「柚原さんってバレエとかもしてました?」
「え、なんでわかるんですか?」
「プリマっぽいので」
それは、どの部分がなんだろう?
例の如くバレエもまったく才能がなかったのに。
思わず首をかしげると、展示会のパンフレットで口元を隠した滝沢がくすくす笑うので、なんだか揶揄われたみたいだ。
「え、なんで笑ってますか?」
「ほんといちいち可愛いなあと思いまして」
「かわ、かわいくないです、もう三十も過ぎてますから年齢的にも……」
「俺ら同い年だったのビビりましたよね」
「…そんなに幼く見えますか」
「はい、完全に」
この間発覚したのだが、滝沢と私は同い年だ。
私のほうはなんとなく同世代かなと思っていたんだけど、滝沢は『え、嘘でしょ?絶対4~5歳は下だと思ってたわ』と目を丸くされて、ちょっと心外だった。
「若々しいってことじゃないですか」
「でも、滝沢さん、さっき幼いって言いました」
「幼いって言葉を選んだのは柚原さんで、俺はそれを訂正しなかっただけです」
ほんと、ああ言えばこう言うんだから。
口達者な滝沢に私は言い負かされてばかりだ。
入場口から地下に降りる階段を降りながら仏頂面を晒していると、滝沢はどこか得意げに、軽く私の背中を叩いてくる。
「それにあれは少女のように清らかで純粋な柚原さんの心根が透けて見える、という敬意を込めた褒め言葉ですから」
「絶対適当なこと言ってるじゃないですか」
「はは、バレてた?」
どこか子供じみて滝沢が歯を見せた。
それに私は一瞬固まって、咄嗟に目を逸らす。
砕けた口調と邪気のない笑顔を不意に向けられると、最近はなんだか胸のあたりがそわそわとして落ち着かない。
展示会初日というだけあって展示室内は正しく順路を進むだけでも苦労するほどの人混みで、特に背の低い私にはしんどい。一方の滝沢は人混みの中でも頭半分ほど飛び出ているおかげで割りと快適そうにしていて、「大丈夫ですか?」と私を気遣う余裕まである。
「多分、少しずつ人もまばらに散らばっていくと思うので少しの間の我慢です」
「女の人は埋もれちゃうから大変ですよね」
「ほんと背が高いの羨ましいです」
「あ、危ないですよ」
滝沢の顔を見上げながら話していたせいで、前に並んでいた男性の背中にぶつかりそうになった私の腰に滝沢の腕が回される。そのまま引き寄せられると、不意に近づいた滝沢の体から石鹸と煙草が混じったような匂いがして、どきん、と大きく心臓が跳ねた。
ああ、なんだろう、最近おかしい。
心臓が今までとは全然違う音を立てて鳴るから。
「ちゃんと前見なきゃ危ないですよ」
「あ、ご、ごめん、なさい、助かりました…」
呆気なくするりと離された腕と距離をどこか少し物足りなく思うなんて、どうかしてる。思わず火照った顔を隠すように俯けながら、絵画の前の道が開くのを待つ。
「お、これがかの有名な睡蓮ですか」
「綺麗ですよね、特にこの青っぽいのが好きで」
「これ以外にもあるんですか?」
「モネの睡蓮は250点ぐらいありますよ」
晩年、ジヴェルニーに邸宅を建てたモネは美しい庭造りにも情熱を傾け、そしてその風景をさまざまな季節、天気、時間、構図、そして光の変化にこだわって描かれた。睡蓮の絵画は、移ろいゆく風景の変化をそのままカンバスの中に閉じ込めたように、それぞれの作品によって、まるで違う表情を見せてくれる。
「それなら色々見比べてみたかったな」
「モネ展とかなら、何点も一気に来日しますよ」
「ならまたその時に案内してください」
「え?あ、私で良ければ…」
これは、単なる社交辞令だろう。
滝沢の横顔を盗み見ながら自分に言い聞かせる。
どうしてこんなに必死で予防線を張るようなことしているんだろう?ふわりと揺れるフレアスカートの裾を握り締めながら、さっきからずっと変な自分に気付かない振りをした。
のんびりと絵画を眺めながら順路を進んでゆく間に少しずつ人もまばらになってゆき、私たちは時折小声で会話をしながら、今回の展示の目玉でもあるドガの絵の前に辿り着いた。
オペラ座に通い詰めたドガはバレエの練習風景や舞台の絵を何枚も描いている。フランス語で星を意味するエトワールは、そのバレエ団でトップの踊り子だという称号でもある。しかし絵画の中で踊るエトワールの姿は優美でありながら、どこか孤独と悲壮を感じさせる。
「当時フランスのバレエは凋落気味で、オペラの添え物のような扱いだったんです。だから上流階級の男性が愛人を見つけるための品定めに来るような場になってしまっていて、バレリーナは大抵身分の低い貧しい少女がなるものでした。ドガの絵にはそういう社会的なメッセージの強い作品が多いんです」
ドガが生涯で描いた作品のうち半分以上はバレエにまつわるものだと言われている。毎週のようにオペラ座に通い詰めたドガは、舞台の上で踊るバレリーナの姿を綿密に描き出した。
階級意識の強かった時代に労働者階級の女性は差別や偏見に苦しみ、ゆえにバレリーナとして華やかな舞台に立つその裏では、お金持ちの男性の愛人となるしかなかった。そういう光と影、理想と現実の対比がドガの作品には色濃く映し出されている。
「確かに、綺麗だけどちょっと怖いですね」
「ドガは印象派の代表的な画家として知られてますけど、他の画家とは少し違って、人間の生々しさとか、社会の矛盾とか、そういう現実的なものを描いたそうです」
へえ、と隣で滝沢が興味深そうに呟いた。
その間も滝沢の視線はエトワールに独占されており、他の絵よりも随分と長い間、私たちはその柄の前に佇んでいた。
それから美術館を出ても昼食を摂るには少し早い時間だったので、なんとなく上野公園を通って浅草までぶらぶらとお散歩してみることになった。
「滝沢さんってクワタにお勤めなんですか?」
「そうですよ、一応営業にいます」
「私の知り合いもクワタで営業をしてて…」
「へえ、今東京ですか?」
話の流れで何気なくなんの仕事をされているのか尋ねてみたら、随分と馴染み深い社名が出てきて少しびっくりしてしまう。何を隠そう、自動車業界最大手であるクワタ自動車は、私の元婚約者の勤め先なのだ。
「そうなんです、豊川って名前ご存じですか?」
「…え、まさか下の名前が夕鷹?」
「そうです!」
本当にご存じなんですか!と驚いて滝沢のほうを見上げたら、形のいいアーモンド形の瞳が同様に見開かれている。
「知ってるも何も、直属の部下ですよ」
「え、なら一緒に働いてるってことですか…?」
「そうですよ、昨日も夜遅くまで豊川くんの残業手伝わされてましたし、俺」
どうやら同じ海外事業部の中の営業部門で夕鷹の上司をされているらしい滝沢は、「俺の残業の半分は彼のせいですから」とうんざりした顔で呟くので、お門違いながら妙に申し訳ない。
「てか豊川くんとなんの知り合いなんですか?」
「え、あ、普通にただの幼馴染みで!」
「東洋ガラスのご令嬢と幼馴染みって、アイツ何者ですか?柚原さんはずっと女子校育ちだってこの前言ってましたよね?」
うわああ、どうしよう、と当惑する。
夕鷹は今の会社でまだ素性を隠しているのに!
しかし訝しがるような視線を滝沢に向けられると上手い言い逃れも出てこなくって、私はまるで蛇に睨まれた蛙の如く、滝沢と目が合ったまま硬直するほかない。
「豊川くんってなんかちょっと謎の経歴だなって思ってたんですよねえ、俺。普通は新卒で海外支社に速攻飛ばされるなんてまずないし、しかも赴任先がドイツって、北米・中国と並んで世界でもトップシェアの市場に」
「え、あ、わたしは、お仕事のことは……」
「柚原さん?」
にっこり微笑みかけてくる滝沢の目の奥が好奇にあふれている気がして、咄嗟に顔を背けると、無遠慮に私の頬を両手で掴んで「ねえ、なんで目逸らすんですか?」とにじり寄ってくるから心臓が痛いくらい跳ねた。
「ふたりのこと知りたいなあ、俺」
「そ、んな、人様にお話しするようなことは!」
「あのですね、俺の座右の銘って『握れる弱味は全部握る』なんですよ」
だから降参して全部吐いちゃおうか?
三日月形に細められた滝沢の瞳がそれは怖くて。
少し泣きそうになりながら、結局夕鷹にまつわる情報を洗いざらい白状させられたあとで、どうか後生ですからこれは社内で内密にと切実な懇願をする羽目になった。
「豊川くんが野木自動車の跡取り息子で柚原さんの元婚約者ねえ、なるほど」
「あ、あの、これは本当に秘密の話で…」
「わかってますよ、そんなこと」
別にこんなこと社内で暴露したって俺になんのメリットもないから安心してください、と私の背中を励ますように滝沢が叩いたけど、今回に関しては滝沢のせいで私の寿命が縮まっているので全然嬉しくない。
「それであんな深山さんに二の足踏んでたのか」
「あ、万緒ちゃんもご存じですか?」
「同僚でしたからね」
それでなくとも彼女は我が社の高嶺の花として有名でしたから、という滝沢の言葉に感心しながら知られざるクワタ自動車の社内事情について、根掘り葉掘りと聞いてみる。
「ちなみに彼は今クワタの王子様らしいですよ」
「夕鷹が王子様!柄じゃない!」
「ほんとにねえ、でも誰彼構わず愛想振るなんて豊川くんらしくもないと思ってたけど、確かに今後野木で後継ぐなら社内に良い噂だけ残しといたほうが得策ではあるか」
煩雑だな、と滝沢が小さく呟いた。
私はそれを聞こえなかったふりでやり過ごす。
新緑の葉の向こうに広がる空は青を濃くしだしていた。夏の気配がゆっくりと忍び寄っている。でも私はまだもう少しだけ、この儚い若葉の季節に留まっていたくて、瑞々しい香りの立ち込める道をわざとゆっくり歩いた。
そのまま浅草のあたりまで抜けると、かっぱ橋に出た。さまざまな専門店の並んだ通りを少し散策しながら雷門のほうに向かうと、周辺一帯に外国人観光客があふれていて日本じゃないみたいだ。
さすがにちょっと歩き疲れたから帰る前にお茶でもしましょうかと滝沢が言うのに頷いて、近くで空いていそうなカフェを探した。するとその時に背中から「佳乃さん?」と声を掛けられて、咄嗟に振り返る。
「え、あ、宗輔さん!」
「こんなところで奇遇ですね」
「ええ、ちょっと、美術館に行った帰りで…」
「俺は今から公会堂のほうで歌舞伎の公演があるのに付き合わされる予定で」
母が好きなんですよ、と爽やかに笑う。
そこでふと熊谷が私の隣にいた滝沢に気付いた。
すると滝沢はにっこりと口端を持ち上げながら熊谷に会釈をした。それに熊谷も「こんにちは」と礼儀正しく頭を下げ、すぐに私のほうへと視線を戻した。
「すみません、お連れの方といらっしゃる時に」
「いえ、そんなお気になさらず…」
「では俺はこれで」
突然失礼しました、と滝沢のほうにも簡単な謝罪を述べてすぐに熊谷は踵を返した。引き締まった背中が雑踏にまぎれてゆくのを見送ったところで滝沢が声を発した。
「今の紳士はご友人ですか?」
「えっ?あ、いえ、その、まあ、そのような…」
「はは、絵に描いたようなしどろもどろですね」
にこやかに微笑んで私を見下ろす滝沢の顔を見るのが、なんだか辛くて。私はきゅっと指先を握り締めながら、舌の上で転がった嘘を、口にするのは躊躇われて。
だって、嘘をつく理由がない。
滝沢はもう私の境遇も、ある程度は知っている。
――でも、
「……ご縁談の、話が、挙がってる方で」
何故だろう、舌先が震えた。青空の波間に漂った白雲が気まぐれに太陽の光を遮ると、滝沢の手が不意に私の背中を押した。
「ここ、立ち止まってると危ないので」
そう言って私を人波から避けるように歩き出した滝沢の横顔は、こちらを見ていなかった。滝沢はこんな話をされても興味もないだろうからこれは当然の反応だ。
そう、頭ではわかっているのに。
今までこころの奥に燻ぶっていたのとはまた別の痛みが、虚しく灯る。
皐月の風に長く伸ばした髪が靡いた。
色彩を取り戻した世界が、ほんの僅かにくすむ。
(ああ、なにを期待してたんだろう?)
私の世界はこの先も永遠に不自由なままなのに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
創業記念の式典に出席するために久しぶりに出勤した私は、その足で新宿にあるカフェを訪ねた。
大型の観葉植物がたくさん置かれている自然的でお洒落なそのお店で、今万緒がアルバイトをしていると前に聞いたからだ。私は外から少し店内の様子を物色し、ちょうど万緒がレジに立っているのを見掛けて店に入った。
「あ、佳乃さん!」
「お疲れ様、近くまで来たから覗いちゃった」
「えー!嬉しい!てかちょうどもうすぐ上がりなのでどこか座って待っててください!一緒に軽くお茶しましょう!」
ニコニコの笑顔で出迎えてくれる絶世の美女に癒されながら、私は万緒の言う通りにコーヒーを注文し、とりあえず窓際の席に座って万緒の退勤を待つことにした。
「え、滝沢さんと知り合いなの?!」
「そうなの、私もこの前聞いてびっくりして」
「実はなんですけどクワタにいた頃から滝沢さんのことめちゃくちゃ大好きなの、だって死ぬほど格好良くないです?もう完全に推しですよ、もし滝沢さんが付き合ってくれるなら夕鷹とは二秒で破局するレベル」
神妙な顔で酷いことを言う万緒に笑ってしまう。
夕鷹、もうちょっと頑張らないとだね。
万緒は公認会計士を目指す勉強のためにクワタを数か月前に退職しているのだけど、在籍時は広報部に所属していて、新作自動車のプロモーションのことなどで当時滝沢とも色々と連携を取る立場にあったらしい。
「でも、物腰柔らかくて人当たりもいいんだけどたまーに何考えてるのかよくわかんないとこありますよねあの人って」
「そうかな?あんまり感じたことなかった」
「えー、ちょっとミステリアスじゃない?」
「ミステリアス、かな…?」
私は思わず首を捻って考え込む。まあ、確かにあまり自分の話を率先してするタイプの人ではないかもしれないけど、とはいえミステリアスというほど謎めいている感じもしない。
私の知る滝沢直樹という男の人は、吉祥寺に住む愛犬家で、スーツを着るとすごく格好良くて、実はピアノがとっても上手で、なのに演奏家になる夢は諦めてしまった過去があって、絵画にはあまり興味がなくて、小説も映画も古典派で、気障な台詞をさらりと言えて、それで時折――寂しげな横顔で笑って。
(それで、私には少しも気がない)
この前もあれから空席のありそうなカフェを見つけてお茶をしてから帰ったけど、結局滝沢から熊谷との縁談について触れられることはなかった。
滝沢は聡い人だから、私に気を遣って掘り下げずにいてくれただけだろう。そんなのわかってるのに、ひとりで馬鹿みたいに気にして、私は滝沢に一体なにを期待してるんだろう?本当に身の程も知らないで嫌になる。
「ちなみに滝沢さんとLoveの予感とか」
「ないない、私なんか相手にされるわけないよ」
「は?佳乃さんの魅力に気付かない男がこの世に存在します?未だに夕鷹なんか絶対俺の見込んだ男じゃないと佳乃とは結婚させないとか言ってるの普通に初恋拗らせすぎててきもいし今のうちに殲滅しとかないと」
ほんと、万緒ちゃんって夕鷹に厳しいな。
初恋と言ったって夕鷹がまだ中学生ぐらいの頃に何度か告白されたことがある程度の話で、単なる身近にいる年上の異性に対する憧れみたいなものを恋と混同しただけの、幼くて可愛らしい子供の恋物語なのに。
「万緒ちゃん、私も何か手伝うよ」
結局あれから万緒が『せっかく会えれたから一緒に夕飯でも』と誘ってくれたのに甘えて、私はふたりの愛の巣にお邪魔した。そしてハンバーグを準備してくれるという万緒の手伝いをするために服の袖をまくる。
「え、そんなお客様の手を煩わせるわけには…」
「働かざる者食うべからずですからね」
「…なら付け合わせの野菜切ってもらえます?」
「もちろん!このブロッコリーでいい?」
「うん、お願いします」
万緒とあれこれお喋りをしながら料理をする日が来るなんて、少し前までは想像もしなかった。最初は奇妙な始まりだったけど、でも、今こうして万緒が私なんかと仲良くしてくれるのは、本当に心から嬉しくて。
「あのね、私、昔から姉妹に憧れがあってね」
「佳乃さんひとりっ子だもんね」
「だからこんな風に万緒ちゃんが私と仲良くしてくれるのほんとに夢みたいで、何回お礼言っても足りないぐらい」
勝手な願望だって、わかっているんだけどね。
それでもこんな風に妹と並んで料理をするような日常をずっと羨んできたから、今、こうして万緒と一緒にキッチンに立って料理をしていることが私にとっては快挙で。
「…佳乃さんってほんと時々狡い」
「え、うそ、私、なんか嫌なこと言った…?」
「違うよおおお、そんな真っ直ぐな笑顔でそんな可愛いこと言われたら太刀打ちできないじゃん!尊死まっしぐらだよ!」
うああー…、と頭を抱える万緒に、「トウトシってなに?」と驚きながら尋ねていたら、ちょうど玄関で鍵穴の回る音がしたので、もうひとりの家主が帰宅したらしい。
「あ、夕鷹、おかえりなさい」
「佳乃、滝沢さんと会ってるってまじなわけ?」
そんな開口一番、何かと思えば。
夕鷹も滝沢から私のことを聞いたんだろうか?
ただいまの一言すらもなく怖い顔をしてキッチンに顔を出した夕鷹にきょとんとしていると、横で万緒が「ほらね」と呆れたように表情を曇らせながら私の肘を引っ張る。
「嫉妬ですよ、嫉妬。あーやだやだ」
「おいこらそこ!うるせえな!俺は純粋に大事な幼馴染みが悪い男に引っ掛かって悲しまないようにって心配してんだろ!」
「アンタは一体どの立場から物言ってるわけ?」
「だから幼馴染みの立場だろ!」
夕鷹がスーツを着てると未だに七五三の時を思い出すなあとしみじみしながら、私は万緒の言い付け通りにブロッコリーを丁寧にゆすぎ、根本から包丁を入れる。
「てか万緒はいいんだよ!佳乃は無視すんな!」
「え?別に無視はしてないけど」
「ブロッコリー切ってんじゃねえよ、今!」
「声大きいよ、夕鷹」
ご近所迷惑、と窘めるようにブロッコリーから不機嫌そうな夕鷹の顔に視線を戻すが、そんな怖い顔で睨まれる覚えはない。
「滝沢さんと会ってるってまじなのお前」
「職場で聞いたの?ほんと、すごい偶然だよね」
「絶対あんな腹黒野郎は佳乃の手に負えねえから絶対やめとけよ!優しそうな顔してあんなもん詐欺師みてえなもんだからな!絶対騙されて痛い目見るだけだからな!」
何を根拠に、と隣で万緒がうんざりと息をつく。
ほんと、さすがに酷い言い草だ。私も万緒と同様に冷ややかな目を夕鷹に向けて「今ここにいない人の悪口言うのはフェアじゃないよ」と取り合わないことにした。
私はできる限り夕鷹の不満そうな顔を視界に入れないよう、まな板の上のブロッコリーに集中するが、無駄に距離を詰められてすごく不愉快だ。右隣では万緒が「佳乃さんが見るからに嫌そうな顔してんでしょ!離れろ!」と怒号を飛ばし、だが夕鷹は意に介さない。
「まじでお前らなんもないわけ?」
「だからただのご近所さんだよ、それがなに?」
「ただのご近所さんが一緒に美術館行って絵画鑑賞とかしねえだろ!なーにがルノワールだ、意味不明な絵画なんぞ見て『あ、この絵素敵!』とか気色の悪いキャッキャウフフしてきたんじゃねえのかよ、クソが!」
本当になにを言ってるんだろう、この子。
最早どの部分に文句を言われてるのかさえ謎だ。
そしてその横では万緒が「え、美術館なんか一緒に行ったんですか?それはちょっと話が変わってくるんですが?」と大きな瞳をキラキラ輝かせるのでつらい。
「本当にそういうんじゃないんだってば、あんな格好良いひとが私みたいなのわざわざ相手にするわけないでしょ?」
こんな虚しいこと、言わせないでよ。
言葉にしたら余計に悲しくなってしまうから。
滝沢が私になんの興味もないことぐらいちゃんと弁えてるんだから。だけど、どうして関心を持ってもらえないことがこんなに悲しいのかはあまり考えたくなくて。
「…そんな面して何言ってんだよ」
「別に夕鷹には関係ないんだから放っといてよ」
「あとで泣いても絶対慰めてやんねえからな!」
「万緒ちゃん、夕鷹がイジめてくる」
「了解、殺しときますね」
本気でいい加減にしな、と万緒にワイシャツの首根っこを掴まれた夕鷹が文句を叫びながら寝室のほうへと連行されてゆく。私は静かになったキッチンで、切りかけのブロッコリーの根本に包丁の先を入れた。
ざくり、と小気味の良い音がする。
鮮やかな緑がまな板の上に無造作に散らかって。
――『柚原さんはなにも悪くないよ』
大丈夫、もうその言葉だけで生きていけるから。