永遠の終わりに花束を
#07 知らない横顔と紫煙
見晴らしのいい窓の外は快晴だ。
落ち着いた空間には優しいジャズが流れている。
上品できらびやかなシャンデリアに見下ろされるホテルのラウンジで、少し緊張しながら、熊谷と向かい合って話をする。私は微かに冷たくなった指先をテーブルの下ですり合わせながら、懸命に無難な言葉を探した。
「大学は文学専攻だったんですか」
「はい、専門は一応英米近現代文学が主で」
「なら英文を読むのは得意なんですね。俺は読み書きは結構苦手なほうで」
これでも話すほうは随分マシになったんですがと熊谷は気さくに笑う。少しカジュアルダウンした綿のジャケットをさらりと羽織った熊谷は、特に取り立てて何かおしゃれをしているという風でもないのに、どこか品があり、些細な所作が丁寧で洗練されている。
「休日は読書をされることが多いんですか?」
「そうですね、あと最近はお料理を」
「ああ、確かひとり暮らしをされてるとかって」
「最近猫とふたりになりました」
今時珍しいことに公園で捨て猫を拾ったという話の流れで、ハナの写真を見せる。もし猫が嫌いな人だったらどうしようと内心思っていたが、待ち受け画面に設定しているハナの写真を覗き込んだ熊谷は、「うわ、小さくて可愛いですね!」と優しい笑顔を見せる。
「俺、昔から動物大好きなんですよ」
「ご実家で何か飼ってらっしゃったんですか?」
「子供の頃は犬を飼ってて、シェパードって警察犬によくいるの、わかります?」
「え、あの、すごく大きくて賢い犬ですよね?」
「それですそれです」
こっちに写真移してたかな?と言ってジャケットの胸ポケットから携帯を取り出し、カメラロールを遡って探し出された昔の写真を見せてくれる。
随分昔に撮影されたと思しき低画質なその写真には、まだ中学生ぐらいだろう熊谷が、自分とそう変わらないほど大きく凛々しい犬を抱き締めながら映っていた。無邪気に笑ってピースをしている熊谷は、まだ少年らしいあどけなさを残していて可愛らしい。
「ふふ、宗輔さんもわんちゃんも可愛いですね」
「俺にも可愛い時代があったんです」
「この写真って中学生ぐらいの頃のですか?」
「あー、多分そうかな?俺が高校に上がった年に死んじゃったんで、この時はまだ元気そうだから中一とかじゃないですかね」
まだまだ少年時代です、と少し照れ臭そうに目を細めて並びのいい歯を見せた。熊谷のほうもやや手探りで話題を探しながら、この微妙な空間の均衡を保ってくれているのがわかる。
これが社交の場であれば、お互いにそれなりに場数を踏んでいるし、自分の立ち振る舞いはそこそこわかる。だけどこうして一対一での縁談となればさすがに私も熊谷も初めてのことなので、当然気疲れもする。
「あー…なんかその、もう逆に白状しちゃったほうが楽になれそうなので言うんですが、ちょっと気まずいですよね」
「…それ、私も思ってました」
「縁談なんて時代遅れなこと言われてもね」
ご趣味は?からはじめて結婚まで最短で進めって結構酷なこと言ってきますよね、と困ったように眉尻を垂らした熊谷の言葉に全面的に同意した。
「…あの、こんなこと聞いていいのかわからないんですけど、どうして今回の縁談を受けていただけたんですか?」
「え?そんな、俺は別に――」
「私の過去というか……ご存じですよね?」
そして経歴が重視されるというなら、私のそれは既に多少の懸念を孕んでいる。これまで私にふたりの婚約者がいたことを、熊谷サイドが知らないわけはないのだ。
「はい、もちろん伺ってます」
「…それならどうしてわざわざ私なんかと」
「別に俺になんの思惑も野望もないというわけではありませんよ。うちは既に兄が跡を継ぐことが決まっていますから、実家で冷や飯を食うよりはと今の職場を選びましたけど、元々経営には興味があったんです」
だから国内でも最大規模のメーカーで実権を握るチャンスは正直とても魅力的でした、と率直に自分の考えを語る熊谷は、私を真っすぐに見つめるから緊張が増す。
熊谷の瞳は、深い黒をしていた。
吸い込まれてしまいそうな、どこか野性的な瞳。
「でも、別にそれだけで結婚を決めるつもりもありませんでしたよ。佳乃さんと実際に話して苦手なタイプだったら断ろうかなって、正直頭の片隅にはありましたから」
「…苦手なタイプだったんじゃないですか?」
「なんでそう思うんですか?」
どこか諭すように、穏やかな声に尋ねられる。
私は思わず言葉に詰まって俯いた。
店内を流れるBGMがピアノの演奏へとゆるやかに移り変わった。甘い旋律。それなのにどうして私はずっと、こんなにも後ろめたくて、熊谷の顔が見れないのだろう。
「佳乃さんこそ、今日ずっと俺の目の前から逃げ出したがってるみたいでしたよ」
「そ、そんな、つもりは…」
「もしかしてこの前の彼のせいですか?」
唐突に核心を突かれて、ひゅ、と喉が鳴った。
そんな私を見透かしたように熊谷は少し苦笑いを浮かべながら、ゆったりと余裕のある口調で話を続ける。微かな息苦しさが喉に絡みついて、照明のひかりに目が痛む。
「実はあの日、本当はもう少し前からおふたりに気付いてたんですよ、俺。でも、佳乃さんがあんまり楽しそうな顔で彼を見つめるから、ちょっと邪魔したくなって」
嫌な男ですね、と恥ずかしそうに目尻を垂らした熊谷の耳がほんのり赤い。精悍な顔つきの熊谷がそんな顔をすると、意外に幼く見えて、何故だか胸の奥が痛んでしまう。
「俺は、むしろ苦手とは真逆でしたよ」
その時、鼻先にツンと苦い煙草の匂いが蘇った。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
今度はどこかゆっくり出掛けませんかと誘ってくれた熊谷と別れたあと、タクシーで恵比寿まで移動した私は駅前の通りで車を降りた。今日はこれから柑菜と飲みに行く予定があったので、集合時間までぶらぶら時間を潰そうと、適当に駅前を散策してまわる。
土曜日の恵比寿は、さすがに人が多い。
雑踏に埋もれるまいと私は道の端を選んで歩く。
(あ、これって…)
駅前にある商業施設の通路に張り出されている巨大なポスターに、菫が映っていた。どうやら化粧品の広告らしいそれを見ながら、こんな仕事もされてるんだと感心して、本当に綺麗な人だな、と今さらな劣等感が胸の奥にぶり返す。
どこまで烏滸がましいんだろ、私って。スタート地点以外は天と地ほども立場の違う相手と自分を比較しても虚しくなるだけなのに。愚かな卑屈をこじらせながら、菫のポスターから目を逸らしてまた歩みを再開する。
滝沢さんは、菫さんが好きなのかな?
そんなの聞けるわけもないのに、馬鹿みたいだ。
「え、なんなの、負のオーラすご!」
死体でも今の佳乃ほど悲壮感背負ってないわよと酷いことを言ってくる柑菜が、予約していた店のドアを開けて入店する。最近すっかりカジュアルダウンした服装を好むようになった柑菜は、今夜もワイドデニムに白のシャツをさらりと羽織ったシンプルな出で立ちだ。
「あ、そっか、今日が縁談か!」
「…一緒にランチしてコーヒー飲んできた」
「それでそんな顔してるってことは財閥御曹司が最悪だったの?甘やかされたナルシスト坊ちゃんとかで鬱陶しかった?」
案内された席に着くなりすぐにビールを注文した柑菜が思い出したように話を切り出して、何故か悪意に満ちた方向に話を転がすので慌ててそれを否定した。
「全然、違って、むしろ凄くいい人で」
「はあ?それならなんでそんな今にも死にかけの魚みたいな顔してんの?」
「…死にかけの魚みたいって酷い」
「佳乃は考えてること全部顔に出すぎなのよ」
「表情豊かと言ってください」
とはいえ酷い顔をしている自覚はあったので反論の声も弱々しい。早速運ばれてきたグラスビールを軽くぶつけて乾杯し、柑菜は黄金色のそれを景気よく呷った。いい飲みっぷりだ。
「冗談だって、それで?」
「…熊谷さんはね、すごく素敵な人で」
「それなら別になんの問題もないんじゃないの」
「それは、そう……なんだけど、なんて言ったらいいのかわからなくて、……ハナのこと、一緒に拾った人のこと覚えてる?」
私の問いに柑菜が首肯して応える。
その顔は既に私の言いたいことを悟ったようで。
なのに、私の臆病だけがずっと舌の上で惨めにこんがらがって、上手く言葉にならない。だってそれを認めてしまったら、また苦しみが増すだけだと知っているから。
――朝のひかりの中で彼と出会った。
柔らかに透き通った琥珀の瞳を春だと思ったの。
何も救えなかった無力で卑小な私をそれでも彼が抱き締めてくれた時、あの瞬間に胸の奥に灯ったあまやかなひかりがあまりに綺麗で、焦がれずにはいられなかった。
ああ、どうして――、
「好きに、なっちゃ、たんだろう……」
情けなくぽろぽろとこぼれ落ちた涙がテーブルクロスの染みを作る。どうして私はいつも身の程を弁えない恋ばかりして、自分で自分の首を絞めてしまうのかな?本当にどうしようもなくて自分で自分が嫌になる。
「ほんとなんでそんな最悪のタイミングで…」
「…たぶんばかなんだと思う」
「縁談どうすんのよ」
「だ、って、別に、向こうはわたしのことなんかなんともおもってない、もん」
はぁー…と深いため息を漏らしながら頭を抱える柑菜を前に、申し訳なくなりながら縮こまる。ナプキンに付着したアイシャドウのラメがきらきらとやけに滑稽で。
「そ、それに、また結婚だめだったら、ほんとに見放されるかもしれない…」
「佳乃のご両親が?あり得ないでしょ」
「でも、親戚とか、みんな」
「他人のために結婚するの?佳乃の人生だよ?」
「そ、う、だけど、でも」
私のせいで色んな人に迷惑ばかりかけてしまう。
それにもう白い目で見られるのも辛い。
昔から、そういう選択肢以外のものを考えたことすらない人生だった。窮屈な箱庭の中では当然の道理として存在していたそれを、失敗するまでは疑うことさえなくて。
「ならもうその人のことは諦めるの?」
「…だって、どうせ好きでいても、相手になんかされるわけないもん」
「そんなのわかんないでしょ」
「わかるよ、絶対、私じゃダメだから」
あの夜の寂しい旋律が今も耳に残っている。
彼の恋がどんなものだったのかを私が知ることは永遠にないだろうけど。それでも、ほんのひと欠片の断片に触れただけで、あんなに苦しくなる音色は他に知らない。
薄い紙の淵で指先を切るみたいに。
ただ、ヒリヒリとして虚しい痛みだけが残って。
「…大丈夫、ちゃんと引き返すから」
「正しさの矛先間違ったらあとで苦しい思いするのは佳乃なんだからね」
うんざりしたように柑菜がビールを飲み干した。
私は近くを通りかかった店員さんを呼び止めて追加のお酒と料理を注文し、あまり得意でないビールの炭酸を無理やり喉に流し込む。冷たい液体が胃に落ちて、少し寒い。
「あー、もうほんっと腹立つわね!」
「エンジン掛かってきたねえ、柑菜」
「血筋がナンボのもんじゃい!戦国の世じゃあるまいし考えが古いのよ!」
酔えない私の代わりを買って出てくれたのかどうか、さっきのお店で次から次にと注文したお酒を胃に流し込んでいた柑菜は、通常運転にすっかり悪酔いしている。
「ほんとクソ、この世のジジイは全員クソ!」
「お願いだから道の真ん中でやめて」
「あー…もう、ほんっと」
なんで佳乃ばっかり理不尽な目に遭うの。
珍しく駄々を捏ねる子供みたいにつたない呂律で呟いて、不意に私の肩に額を乗せた柑菜は、少し拗ねてるみたいだった。
飲食店の多い通りの真ん中で柑菜に腕を掴まれたまま身動きが取れない私は、苦笑いをこぼす。今が夜なことを忘れてしまいそうなほど賑やかな都会の片隅で、それでも触れた友人の体温が優しいことに救われているから単純だ。
人工的な明度に慣れてしまった目では、夜空の星を見つけることもかなわない。雑踏の中を早足に歩く人の背中に隠した苦悩の分だけ、東京は輝く街だ。紺色の夜にきらめく色とりどりのネオンがまぶしい。
「――あれ、佳乃?」
その時、ふと背中から聞き慣れた声がした。
驚きながら振り返ると、そこには土曜日の夜だというのにスーツを着た夕鷹の姿があって、思わず間抜けな声を上げた。
「え、夕鷹?こんなところでなにしてるの?」
「俺は展示会の打ち上げで――」
「夕鷹ぁ?!」
と、私の右肩で項垂れていた柑菜が突如覚醒して顔を上げると、般若のような形相でいきなり夕鷹の脛を蹴り飛ばした。
「どの面下げて出てきてんだこのクソ野郎が!」
「痛ってえ!――って柑菜さん?!」
「あんたが散々好き勝手やりやがった皺寄せで佳乃がどんだけ苦労してると思って…!」
「それは!まじで!申し訳ないと――痛ぇッ!」
「ちょ、柑菜!待って待って!」
今にも夕鷹に掴みかかる勢いで、手に持っていたハンドバッグを振り回す柑菜を必死に止める。柑菜は昔から気が強いが、酔うとさらに狂暴性が増すので取り扱いに注意が必要なのだ。
容赦ない柑菜にからの暴力に晒されている夕鷹は怯えた犬のような顔で逃げ惑っていて、徹底的にカオスだ。数秒前までの感傷を返してほしい。悲痛な叫び声が恵比寿の繁華街に響き、道ゆく人が私たちを振り返る。
「柑菜、おちっ、落ち着いて…!」
「おいコラそこのクズ今すぐそこに正座しろよ」
「や、も、ほんと仰ることはごもっともなんですけど今俺も職場の飲みで……」
どうかここは穏便に、と可哀想なくらい恐縮する夕鷹が柑菜にペコペコしている。まだ夕鷹が高校生の頃、私と柑菜の通っていた大学にしょっちゅう忍び込んでいたおかげで元々面識のあるふたりだが、当時から夕鷹は何故か、柑菜にはまったく頭が上がらないのだ。
「ほんと婚約破棄の件は、あの、はい」
「そもそもあんたが婚約言い出して海外赴任中も散々佳乃のこと待たせて花の盛りの時期も無駄にさせて、それで結局他に好きな相手ができたから婚約破棄しますってそれは筋が通らないでしょ?この落とし前はどうつけてくれんの?十秒以内に説明しろよオラ」
最早その筋の人も顔負けの迫力で滾々と詰め寄る柑菜に、夕鷹は顔面蒼白で平謝りしている。延々と下腹のあたりを小突かれ続けて声が掠れてきている夕鷹がさすがにあわれで、なんだかもう私のほうが居た堪れない。
「柑菜、今日のところはもうその辺で…」
「あんたがそうやって甘やかすから調子に乗って付け上がんのよ、この馬鹿が」
「夕鷹も悪気があったわけじゃないし、ね?」
「ウン、オレ、ワルギナカッタ」
もうロボットみたいになってるよ、夕鷹。
しかし柑菜はそれすら苛立たしいと言いたげに盛大な舌打ちを吐き捨て、情けなく地面を見つめる夕鷹を睨み上げる。柑菜より夕鷹のほうが随分と背が高いのに、その体格差すら凌駕する友人の迫力に恐れ入るしかない。
「てかあんた会社の飲み会じゃないわけ?」
「ソウ、オレ、タバコキュウケイ」
「腹立つ喋り方すんな!」
バシン!とまたお尻をハンドバッグで叩かれた夕鷹が半泣きで私の背後に逃げてくるので、本当に子供じゃないんだから。煙草を吸うために店の外に出てきたらしい夕鷹からすれば、突然の災難に見舞われて不憫だけど。
「あれ、豊川くーん?」
なにしてるのぉ?と酔いを孕んだ甘ったるい声がして、そちらを振り返る。するとお店のドアから出てきた女性が夕鷹に手を振って、そしてその女性に腕を引かれるように出てきた滝沢と、すぐに目が合って驚いた。
「…え」
「豊川くん、どうしたのぉ?」
「あー、偶然ここで知り合いとバッタリ会って」
ごめん俺戻るわ、と声を潜めた夕鷹が私の背中に軽く触れてから滝沢と女性のほうに戻ってゆく。
どうやら滝沢も同じ会社の人らしい女性に連れられて煙草を吸いに外まで出てきたらしく、酔って機嫌のいい彼女に腕を組まれながら、ニコニコと話し掛けられるのを一旦制し、夕鷹と入れ違いでこちらに向かってくる。
「柚原さん、何してるんですか?」
「え、と、あの、偶然、私も近くで飲んでて…」
飲み会の最中に着崩れたのかどうか、気だるげにゆるんだネクタイの裾をワイシャツのポケットに突っ込んだ滝沢からは酒精の匂いがした。ワックスで固められた前髪は既に重力に負けはじめており、普段朝に会う滝沢よりもどこか粗野な感じに緊張してしまう。
「ほんとに豊川くんと知り合いだったんですね」
「あ、はい、滝沢さんも……」
「なんか変な感じしますよね」
そう言いながら、滝沢の代わりに同僚の女性の相手を務めている夕鷹を振り返る。私はついさっきまで女性に組まれていた滝沢の腕を見つめて胸の底がざわりとした。
「すみません、じゃあ俺も戻りますね」
「こちらこそお仕事中にお邪魔してしまって…」
「いえ、仕事じゃなくてただの飲み会ですから」
お邪魔してすみません、と隣にいた柑菜に目配せをして他人行儀に頭を下げた滝沢が、お店の前に設置された灰皿の前で待っていた夕鷹たちの元に戻ってゆく。滝沢の帰還にはしゃいだような声を上げた女性と一瞬目が合って、酷く冷ややかな視線を向けられたのでびっくり心臓が跳ね、慌てて顔を背けた。
「すごい睨まれたわね、あんた」
「や、やっぱり?今なんか殺気がぶわって…」
「そりゃあんな美男子、横からトンビに掻っ攫われたんじゃ腹も立つわよねえ」
飲み会の争奪戦でようやく勝ち上がってきたんでしょうからね、と面白がるように喫煙所の風景を観察し、ふんと鼻を鳴らしている柑菜はちょっと悪趣味だと思う。
ふわりと軽い足取りで夜の飲食店街を進んでゆく柑菜の後を追いかけながら、私は未練がましく一瞬だけ後ろを振り返り、灰皿の前で煙草をくゆらせる滝沢の横顔を盗み見た。堂に入った仕草で口に煙草を当てる滝沢は、知らない男の人みたいでやけに寂しい。
ほんと、なにを驕ってたんだろう?
私が知る彼のことなんてほんのひと欠片なのに。
他の人よりも少しだけ滝沢のことを知っているつもりでいた自分が恥ずかしい。私は所詮、週末の朝の散歩のときによく見掛けるご近所さん程度の存在でしかないのに、勝手に浮かれて、図々しく好きになって。
私に、彼の隣が似合うはずないのにね。
惨めな恋を夜に隠して私はそこから逃げ出した。
落ち着いた空間には優しいジャズが流れている。
上品できらびやかなシャンデリアに見下ろされるホテルのラウンジで、少し緊張しながら、熊谷と向かい合って話をする。私は微かに冷たくなった指先をテーブルの下ですり合わせながら、懸命に無難な言葉を探した。
「大学は文学専攻だったんですか」
「はい、専門は一応英米近現代文学が主で」
「なら英文を読むのは得意なんですね。俺は読み書きは結構苦手なほうで」
これでも話すほうは随分マシになったんですがと熊谷は気さくに笑う。少しカジュアルダウンした綿のジャケットをさらりと羽織った熊谷は、特に取り立てて何かおしゃれをしているという風でもないのに、どこか品があり、些細な所作が丁寧で洗練されている。
「休日は読書をされることが多いんですか?」
「そうですね、あと最近はお料理を」
「ああ、確かひとり暮らしをされてるとかって」
「最近猫とふたりになりました」
今時珍しいことに公園で捨て猫を拾ったという話の流れで、ハナの写真を見せる。もし猫が嫌いな人だったらどうしようと内心思っていたが、待ち受け画面に設定しているハナの写真を覗き込んだ熊谷は、「うわ、小さくて可愛いですね!」と優しい笑顔を見せる。
「俺、昔から動物大好きなんですよ」
「ご実家で何か飼ってらっしゃったんですか?」
「子供の頃は犬を飼ってて、シェパードって警察犬によくいるの、わかります?」
「え、あの、すごく大きくて賢い犬ですよね?」
「それですそれです」
こっちに写真移してたかな?と言ってジャケットの胸ポケットから携帯を取り出し、カメラロールを遡って探し出された昔の写真を見せてくれる。
随分昔に撮影されたと思しき低画質なその写真には、まだ中学生ぐらいだろう熊谷が、自分とそう変わらないほど大きく凛々しい犬を抱き締めながら映っていた。無邪気に笑ってピースをしている熊谷は、まだ少年らしいあどけなさを残していて可愛らしい。
「ふふ、宗輔さんもわんちゃんも可愛いですね」
「俺にも可愛い時代があったんです」
「この写真って中学生ぐらいの頃のですか?」
「あー、多分そうかな?俺が高校に上がった年に死んじゃったんで、この時はまだ元気そうだから中一とかじゃないですかね」
まだまだ少年時代です、と少し照れ臭そうに目を細めて並びのいい歯を見せた。熊谷のほうもやや手探りで話題を探しながら、この微妙な空間の均衡を保ってくれているのがわかる。
これが社交の場であれば、お互いにそれなりに場数を踏んでいるし、自分の立ち振る舞いはそこそこわかる。だけどこうして一対一での縁談となればさすがに私も熊谷も初めてのことなので、当然気疲れもする。
「あー…なんかその、もう逆に白状しちゃったほうが楽になれそうなので言うんですが、ちょっと気まずいですよね」
「…それ、私も思ってました」
「縁談なんて時代遅れなこと言われてもね」
ご趣味は?からはじめて結婚まで最短で進めって結構酷なこと言ってきますよね、と困ったように眉尻を垂らした熊谷の言葉に全面的に同意した。
「…あの、こんなこと聞いていいのかわからないんですけど、どうして今回の縁談を受けていただけたんですか?」
「え?そんな、俺は別に――」
「私の過去というか……ご存じですよね?」
そして経歴が重視されるというなら、私のそれは既に多少の懸念を孕んでいる。これまで私にふたりの婚約者がいたことを、熊谷サイドが知らないわけはないのだ。
「はい、もちろん伺ってます」
「…それならどうしてわざわざ私なんかと」
「別に俺になんの思惑も野望もないというわけではありませんよ。うちは既に兄が跡を継ぐことが決まっていますから、実家で冷や飯を食うよりはと今の職場を選びましたけど、元々経営には興味があったんです」
だから国内でも最大規模のメーカーで実権を握るチャンスは正直とても魅力的でした、と率直に自分の考えを語る熊谷は、私を真っすぐに見つめるから緊張が増す。
熊谷の瞳は、深い黒をしていた。
吸い込まれてしまいそうな、どこか野性的な瞳。
「でも、別にそれだけで結婚を決めるつもりもありませんでしたよ。佳乃さんと実際に話して苦手なタイプだったら断ろうかなって、正直頭の片隅にはありましたから」
「…苦手なタイプだったんじゃないですか?」
「なんでそう思うんですか?」
どこか諭すように、穏やかな声に尋ねられる。
私は思わず言葉に詰まって俯いた。
店内を流れるBGMがピアノの演奏へとゆるやかに移り変わった。甘い旋律。それなのにどうして私はずっと、こんなにも後ろめたくて、熊谷の顔が見れないのだろう。
「佳乃さんこそ、今日ずっと俺の目の前から逃げ出したがってるみたいでしたよ」
「そ、そんな、つもりは…」
「もしかしてこの前の彼のせいですか?」
唐突に核心を突かれて、ひゅ、と喉が鳴った。
そんな私を見透かしたように熊谷は少し苦笑いを浮かべながら、ゆったりと余裕のある口調で話を続ける。微かな息苦しさが喉に絡みついて、照明のひかりに目が痛む。
「実はあの日、本当はもう少し前からおふたりに気付いてたんですよ、俺。でも、佳乃さんがあんまり楽しそうな顔で彼を見つめるから、ちょっと邪魔したくなって」
嫌な男ですね、と恥ずかしそうに目尻を垂らした熊谷の耳がほんのり赤い。精悍な顔つきの熊谷がそんな顔をすると、意外に幼く見えて、何故だか胸の奥が痛んでしまう。
「俺は、むしろ苦手とは真逆でしたよ」
その時、鼻先にツンと苦い煙草の匂いが蘇った。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
今度はどこかゆっくり出掛けませんかと誘ってくれた熊谷と別れたあと、タクシーで恵比寿まで移動した私は駅前の通りで車を降りた。今日はこれから柑菜と飲みに行く予定があったので、集合時間までぶらぶら時間を潰そうと、適当に駅前を散策してまわる。
土曜日の恵比寿は、さすがに人が多い。
雑踏に埋もれるまいと私は道の端を選んで歩く。
(あ、これって…)
駅前にある商業施設の通路に張り出されている巨大なポスターに、菫が映っていた。どうやら化粧品の広告らしいそれを見ながら、こんな仕事もされてるんだと感心して、本当に綺麗な人だな、と今さらな劣等感が胸の奥にぶり返す。
どこまで烏滸がましいんだろ、私って。スタート地点以外は天と地ほども立場の違う相手と自分を比較しても虚しくなるだけなのに。愚かな卑屈をこじらせながら、菫のポスターから目を逸らしてまた歩みを再開する。
滝沢さんは、菫さんが好きなのかな?
そんなの聞けるわけもないのに、馬鹿みたいだ。
「え、なんなの、負のオーラすご!」
死体でも今の佳乃ほど悲壮感背負ってないわよと酷いことを言ってくる柑菜が、予約していた店のドアを開けて入店する。最近すっかりカジュアルダウンした服装を好むようになった柑菜は、今夜もワイドデニムに白のシャツをさらりと羽織ったシンプルな出で立ちだ。
「あ、そっか、今日が縁談か!」
「…一緒にランチしてコーヒー飲んできた」
「それでそんな顔してるってことは財閥御曹司が最悪だったの?甘やかされたナルシスト坊ちゃんとかで鬱陶しかった?」
案内された席に着くなりすぐにビールを注文した柑菜が思い出したように話を切り出して、何故か悪意に満ちた方向に話を転がすので慌ててそれを否定した。
「全然、違って、むしろ凄くいい人で」
「はあ?それならなんでそんな今にも死にかけの魚みたいな顔してんの?」
「…死にかけの魚みたいって酷い」
「佳乃は考えてること全部顔に出すぎなのよ」
「表情豊かと言ってください」
とはいえ酷い顔をしている自覚はあったので反論の声も弱々しい。早速運ばれてきたグラスビールを軽くぶつけて乾杯し、柑菜は黄金色のそれを景気よく呷った。いい飲みっぷりだ。
「冗談だって、それで?」
「…熊谷さんはね、すごく素敵な人で」
「それなら別になんの問題もないんじゃないの」
「それは、そう……なんだけど、なんて言ったらいいのかわからなくて、……ハナのこと、一緒に拾った人のこと覚えてる?」
私の問いに柑菜が首肯して応える。
その顔は既に私の言いたいことを悟ったようで。
なのに、私の臆病だけがずっと舌の上で惨めにこんがらがって、上手く言葉にならない。だってそれを認めてしまったら、また苦しみが増すだけだと知っているから。
――朝のひかりの中で彼と出会った。
柔らかに透き通った琥珀の瞳を春だと思ったの。
何も救えなかった無力で卑小な私をそれでも彼が抱き締めてくれた時、あの瞬間に胸の奥に灯ったあまやかなひかりがあまりに綺麗で、焦がれずにはいられなかった。
ああ、どうして――、
「好きに、なっちゃ、たんだろう……」
情けなくぽろぽろとこぼれ落ちた涙がテーブルクロスの染みを作る。どうして私はいつも身の程を弁えない恋ばかりして、自分で自分の首を絞めてしまうのかな?本当にどうしようもなくて自分で自分が嫌になる。
「ほんとなんでそんな最悪のタイミングで…」
「…たぶんばかなんだと思う」
「縁談どうすんのよ」
「だ、って、別に、向こうはわたしのことなんかなんともおもってない、もん」
はぁー…と深いため息を漏らしながら頭を抱える柑菜を前に、申し訳なくなりながら縮こまる。ナプキンに付着したアイシャドウのラメがきらきらとやけに滑稽で。
「そ、それに、また結婚だめだったら、ほんとに見放されるかもしれない…」
「佳乃のご両親が?あり得ないでしょ」
「でも、親戚とか、みんな」
「他人のために結婚するの?佳乃の人生だよ?」
「そ、う、だけど、でも」
私のせいで色んな人に迷惑ばかりかけてしまう。
それにもう白い目で見られるのも辛い。
昔から、そういう選択肢以外のものを考えたことすらない人生だった。窮屈な箱庭の中では当然の道理として存在していたそれを、失敗するまでは疑うことさえなくて。
「ならもうその人のことは諦めるの?」
「…だって、どうせ好きでいても、相手になんかされるわけないもん」
「そんなのわかんないでしょ」
「わかるよ、絶対、私じゃダメだから」
あの夜の寂しい旋律が今も耳に残っている。
彼の恋がどんなものだったのかを私が知ることは永遠にないだろうけど。それでも、ほんのひと欠片の断片に触れただけで、あんなに苦しくなる音色は他に知らない。
薄い紙の淵で指先を切るみたいに。
ただ、ヒリヒリとして虚しい痛みだけが残って。
「…大丈夫、ちゃんと引き返すから」
「正しさの矛先間違ったらあとで苦しい思いするのは佳乃なんだからね」
うんざりしたように柑菜がビールを飲み干した。
私は近くを通りかかった店員さんを呼び止めて追加のお酒と料理を注文し、あまり得意でないビールの炭酸を無理やり喉に流し込む。冷たい液体が胃に落ちて、少し寒い。
「あー、もうほんっと腹立つわね!」
「エンジン掛かってきたねえ、柑菜」
「血筋がナンボのもんじゃい!戦国の世じゃあるまいし考えが古いのよ!」
酔えない私の代わりを買って出てくれたのかどうか、さっきのお店で次から次にと注文したお酒を胃に流し込んでいた柑菜は、通常運転にすっかり悪酔いしている。
「ほんとクソ、この世のジジイは全員クソ!」
「お願いだから道の真ん中でやめて」
「あー…もう、ほんっと」
なんで佳乃ばっかり理不尽な目に遭うの。
珍しく駄々を捏ねる子供みたいにつたない呂律で呟いて、不意に私の肩に額を乗せた柑菜は、少し拗ねてるみたいだった。
飲食店の多い通りの真ん中で柑菜に腕を掴まれたまま身動きが取れない私は、苦笑いをこぼす。今が夜なことを忘れてしまいそうなほど賑やかな都会の片隅で、それでも触れた友人の体温が優しいことに救われているから単純だ。
人工的な明度に慣れてしまった目では、夜空の星を見つけることもかなわない。雑踏の中を早足に歩く人の背中に隠した苦悩の分だけ、東京は輝く街だ。紺色の夜にきらめく色とりどりのネオンがまぶしい。
「――あれ、佳乃?」
その時、ふと背中から聞き慣れた声がした。
驚きながら振り返ると、そこには土曜日の夜だというのにスーツを着た夕鷹の姿があって、思わず間抜けな声を上げた。
「え、夕鷹?こんなところでなにしてるの?」
「俺は展示会の打ち上げで――」
「夕鷹ぁ?!」
と、私の右肩で項垂れていた柑菜が突如覚醒して顔を上げると、般若のような形相でいきなり夕鷹の脛を蹴り飛ばした。
「どの面下げて出てきてんだこのクソ野郎が!」
「痛ってえ!――って柑菜さん?!」
「あんたが散々好き勝手やりやがった皺寄せで佳乃がどんだけ苦労してると思って…!」
「それは!まじで!申し訳ないと――痛ぇッ!」
「ちょ、柑菜!待って待って!」
今にも夕鷹に掴みかかる勢いで、手に持っていたハンドバッグを振り回す柑菜を必死に止める。柑菜は昔から気が強いが、酔うとさらに狂暴性が増すので取り扱いに注意が必要なのだ。
容赦ない柑菜にからの暴力に晒されている夕鷹は怯えた犬のような顔で逃げ惑っていて、徹底的にカオスだ。数秒前までの感傷を返してほしい。悲痛な叫び声が恵比寿の繁華街に響き、道ゆく人が私たちを振り返る。
「柑菜、おちっ、落ち着いて…!」
「おいコラそこのクズ今すぐそこに正座しろよ」
「や、も、ほんと仰ることはごもっともなんですけど今俺も職場の飲みで……」
どうかここは穏便に、と可哀想なくらい恐縮する夕鷹が柑菜にペコペコしている。まだ夕鷹が高校生の頃、私と柑菜の通っていた大学にしょっちゅう忍び込んでいたおかげで元々面識のあるふたりだが、当時から夕鷹は何故か、柑菜にはまったく頭が上がらないのだ。
「ほんと婚約破棄の件は、あの、はい」
「そもそもあんたが婚約言い出して海外赴任中も散々佳乃のこと待たせて花の盛りの時期も無駄にさせて、それで結局他に好きな相手ができたから婚約破棄しますってそれは筋が通らないでしょ?この落とし前はどうつけてくれんの?十秒以内に説明しろよオラ」
最早その筋の人も顔負けの迫力で滾々と詰め寄る柑菜に、夕鷹は顔面蒼白で平謝りしている。延々と下腹のあたりを小突かれ続けて声が掠れてきている夕鷹がさすがにあわれで、なんだかもう私のほうが居た堪れない。
「柑菜、今日のところはもうその辺で…」
「あんたがそうやって甘やかすから調子に乗って付け上がんのよ、この馬鹿が」
「夕鷹も悪気があったわけじゃないし、ね?」
「ウン、オレ、ワルギナカッタ」
もうロボットみたいになってるよ、夕鷹。
しかし柑菜はそれすら苛立たしいと言いたげに盛大な舌打ちを吐き捨て、情けなく地面を見つめる夕鷹を睨み上げる。柑菜より夕鷹のほうが随分と背が高いのに、その体格差すら凌駕する友人の迫力に恐れ入るしかない。
「てかあんた会社の飲み会じゃないわけ?」
「ソウ、オレ、タバコキュウケイ」
「腹立つ喋り方すんな!」
バシン!とまたお尻をハンドバッグで叩かれた夕鷹が半泣きで私の背後に逃げてくるので、本当に子供じゃないんだから。煙草を吸うために店の外に出てきたらしい夕鷹からすれば、突然の災難に見舞われて不憫だけど。
「あれ、豊川くーん?」
なにしてるのぉ?と酔いを孕んだ甘ったるい声がして、そちらを振り返る。するとお店のドアから出てきた女性が夕鷹に手を振って、そしてその女性に腕を引かれるように出てきた滝沢と、すぐに目が合って驚いた。
「…え」
「豊川くん、どうしたのぉ?」
「あー、偶然ここで知り合いとバッタリ会って」
ごめん俺戻るわ、と声を潜めた夕鷹が私の背中に軽く触れてから滝沢と女性のほうに戻ってゆく。
どうやら滝沢も同じ会社の人らしい女性に連れられて煙草を吸いに外まで出てきたらしく、酔って機嫌のいい彼女に腕を組まれながら、ニコニコと話し掛けられるのを一旦制し、夕鷹と入れ違いでこちらに向かってくる。
「柚原さん、何してるんですか?」
「え、と、あの、偶然、私も近くで飲んでて…」
飲み会の最中に着崩れたのかどうか、気だるげにゆるんだネクタイの裾をワイシャツのポケットに突っ込んだ滝沢からは酒精の匂いがした。ワックスで固められた前髪は既に重力に負けはじめており、普段朝に会う滝沢よりもどこか粗野な感じに緊張してしまう。
「ほんとに豊川くんと知り合いだったんですね」
「あ、はい、滝沢さんも……」
「なんか変な感じしますよね」
そう言いながら、滝沢の代わりに同僚の女性の相手を務めている夕鷹を振り返る。私はついさっきまで女性に組まれていた滝沢の腕を見つめて胸の底がざわりとした。
「すみません、じゃあ俺も戻りますね」
「こちらこそお仕事中にお邪魔してしまって…」
「いえ、仕事じゃなくてただの飲み会ですから」
お邪魔してすみません、と隣にいた柑菜に目配せをして他人行儀に頭を下げた滝沢が、お店の前に設置された灰皿の前で待っていた夕鷹たちの元に戻ってゆく。滝沢の帰還にはしゃいだような声を上げた女性と一瞬目が合って、酷く冷ややかな視線を向けられたのでびっくり心臓が跳ね、慌てて顔を背けた。
「すごい睨まれたわね、あんた」
「や、やっぱり?今なんか殺気がぶわって…」
「そりゃあんな美男子、横からトンビに掻っ攫われたんじゃ腹も立つわよねえ」
飲み会の争奪戦でようやく勝ち上がってきたんでしょうからね、と面白がるように喫煙所の風景を観察し、ふんと鼻を鳴らしている柑菜はちょっと悪趣味だと思う。
ふわりと軽い足取りで夜の飲食店街を進んでゆく柑菜の後を追いかけながら、私は未練がましく一瞬だけ後ろを振り返り、灰皿の前で煙草をくゆらせる滝沢の横顔を盗み見た。堂に入った仕草で口に煙草を当てる滝沢は、知らない男の人みたいでやけに寂しい。
ほんと、なにを驕ってたんだろう?
私が知る彼のことなんてほんのひと欠片なのに。
他の人よりも少しだけ滝沢のことを知っているつもりでいた自分が恥ずかしい。私は所詮、週末の朝の散歩のときによく見掛けるご近所さん程度の存在でしかないのに、勝手に浮かれて、図々しく好きになって。
私に、彼の隣が似合うはずないのにね。
惨めな恋を夜に隠して私はそこから逃げ出した。