恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
『大丈夫、私が間に入るから』

 以前、会社のカフェスペースで、橘が新入社員からの相談にのっているのを聞いたことがある。
 そのときも橘は、自分が盾になるという選択を取った。

「今も変わらないけどな」

 小林の指導係となり、橘によるミスが急増。それもこれも、あのとき新入社員にかけた言葉通り、間に入ってしまっているのだろう。
 事情を知らない人間たちは、橘のことを知ろうともしないで一方的に彼女を責め立てる。それを遠くから見ている小林と、野次馬のように適度な距離感で一番楽しめるような場所から見物している古株たち。
 だから経理部の、特に担当者が橘になっている場合は俺が出向くようにした。
 これは自分のミスではない、と言えばいいのに、橘はしきりに「申し訳ございません」と繰り返すばかりだ。問題を大事にしたくない気持ちは分かる。
 それでも顔色が悪いことが気になって仕方がない。ちゃんと食事は摂っているのか。そんなお節介も焼けるほどの関係性でもない。
 どうにかできないかと考えていた矢先で、橘が俺の前で貧血となり倒れかけた。
 ああ、これでやっと手が伸ばせると思った。
 助けを求めていない相手に、いくら手を伸ばしたところで、手を取ってもらえるとは限らない。
 責任感の強い橘なら尚更だろう。だからこそ見守っていることしか出来なかった日々がもどかしかった。
 ただ栄養のあるものを食べさせたいという一心で料理を振舞い、美味しいと口に入れる彼女を見て安心していた。
 夜道をひとりで帰らせるわけにもいかず、まして貧血を起こしかけたのだから自宅近くまで送り届けた。
 家までにはしなかったのは、俺に家を知られることを避けたいと思っているかもしれないという配慮のつもりだったが、彼女がどう受け取ったかは分からない。
 もちろん、送ると言った俺に「そこまでしてもらうわけには!」と頑なにひとりで帰ろうとしていたし、なんとか説得して車に乗せたあとも「成川さんに車に乗せてもらえるなんて罰が当たりそう」と戦々恐々としていた。
 出てくる言葉がいちいち面白くて、ふっと和むような時間が続いていたことに気付いたのは、彼女が車から降りて、ひとりで自宅に帰っているときだった。
 妙に静かで、微かに残る橘の香りは、俺が避けたかった異性のものなのに、どうにも落ち着いた。
 昔から、変に顔が整っているせいか、異性に声をかけられることが多かった。
 彼女という存在がいなかったわけでもないが、どれも長く続くことはなく、心から好きになるという女もいなかった。
 それでよかったし、問題はなかったはずなのに。
 今では橘が食べる姿や、笑う姿が頭から離れない。
 そう思っていたとき、家に橘を連れて行ったことの意味の重大さに気付いた。
 ただ助けたい気持ちで突き動かされていたが、思えば男の家にいきなり連れていかれるなんて橘は怖かったんじゃないのか。
 しかも相手は会社の先輩で、断りたくても断れなかったのでは。
 自宅マンションの駐車場に着き、エンジンを切ってからハンドルに額をつけた。
 何やってんだ、俺。
 こんなの今まで絶対になかったじゃないか。
 しかも最後は車で送るなんて。どこも密室で逃げ場がなかったはずだ。
 それはもう、ひとりで帰りますと頑なに言われても仕方がない。橘は本当にひとりになりたかったかもしれない。
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