恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「もしかして、長いことお待たせしてしまいましたか?」
「いや、今来たところだ」

 それは、待っていた人の常套句だと思うけれど、どんなことを言っても成川さんは答えてはくれないのだろう。
 車内はほんのりとレザーの香りが漂い、整えられたダッシュボードや足元に散らかりは一切ない。
 落ち着いたブラウンのシートに背中を預ければ、すーっと眠れてしまう居心地がいい。

「それで、今日向かう場所は」
「着いたらわかる。眠かったら寝てもいい」
「そ、そういうわけにはいきません」

 たしかに仕事よりも早い時間に起きるのは久しぶりだ。何年ぶりだろう。それだけ惰性的な休日を過ごしていたわけだけど。
 緩やかに発進した車は、静かに道路を進んでいく。休日の朝は、平日とは違い穏やかで人も少ない。
 それにしても、と隣を盗み見する。
 前にも一度、成川さんが運転する車に乗せてもらったことはあったけど、……やっぱりかっこいい。
 ハンドルを握る手元は余裕そのもの。片手で扱うその動作に、無駄な力が入っていない。
 信号で停車するたび、とん、とん、と指先でリズムを取るようにハンドルを軽く弾く仕草も、なぜだか妙に絵になる。
 サイドミラーをちらりと確認する横顔。ウインカーを出すまでの滑らかな動き。車線変更のタイミングもスムーズで、加速も減速も静か……って、さすがに見過ぎだし気持ち悪い。
 でも、こんなふうに、運転そのものに色気をまとわせる人がいるなんて知らなかった。
 ただ走っているだけなのに、その姿を隣で見られることが、とても特別なことのように思えてしまう。

「成川さん、運転お好きなんですか?」
「まあ嫌いじゃないな。出勤は電車だけど」
「そうですよね。だから前に乗せてもらったときは、車持ってたんだと思ったり……あ、誰にも言ってないですからね?」

 こんな情報を広めてしまえば、成川さん人気がさらに上昇してしまう。本人が望んでいるなら口にしてもいいとは思うけど、料理すら知られたくないのだから、車はもっと避けたいかもしれない。

「疑ってない。そもそも、言いそうな奴は乗せない」

 それもそうか。一応は信頼してもらっているらしい。それならより一層、お口はチャックだ。

「橘は免許持ってるのか?」
「はい! とはいえ、ペーパードライバーですけど。運転する機会がほとんどないので、ただ免許を更新するだけです」

 むしろ免許を維持するためだけに更新しているようなもの。だから、もし成川さんに何かがあって、代行で運転するとなれば、無事に帰れる自信はない。迷わず代理の方を探させてもらおう。

「着いたぞ」

 そう言われて車を降りると、目の前に広がっていたのは、朝の市場だった。
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