恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
 だけど、そういう当たり前のような言葉や行動が、今の私には何よりも温かくて。

「……じゃあもう少しだけ、お邪魔します」

 それがどれだけ嬉しかったかは、うまく言葉にできなかった。
 寝顔を見られたかもしれない恥ずかしさも、ベッドを借りてしまった申し訳なさも、その一言ですべて柔らかくなっていく気がした。 




「……はあ」
「橘さん、大変ですよね」

 声をかけられて顔を上げると、小林さんがにこにこと覗き込んでいた。
 今日もメイクは完璧で、髪も巻きがきれいに決まっている。どこから見ても、愛嬌のある〝かわいい後輩〟だ。
 でも、今の私にはその笑顔すら少し眩しく感じた。
 成川さんと過ごした週末は、楽しくて、穏やかで、あまりにも居心地が良すぎた。
 だからこそ、月曜の朝が容赦なく現実を突きつけてくる。

「ううん、大丈夫」

 そう返した私の声は、思っていたよりも軽く乾いていた。
 午前中から仕事が次々と押し寄せてきた。
 請求書の確認、支払いの処理、数字のずれの原因調査。気を抜けば一つのミスが信用問題になる。
 そんな中、小林さんが入力した数字に明らかなミスがあり、得意先に訂正の連絡を入れる羽目になった。

「すみません、橘さん……私、またやっちゃったみたいで」

 その声には悪気はなかった。だけど、こちらはその処理に午前中の大半を費やしていた。

「いいよ。もう対応は終わったし、それにわざとじゃないんだから。こういうミスぐらい誰でもあるものだから」

 と微笑んで見せながらも、胃のあたりが重たく痛んでいた。
 午後、ようやく処理を終えた頃、先輩の七海さんがプリントを手に、明らかに不機嫌な顔で近づいてきた。

「この処理どうなってるの? 見直してって言ってたよね、小林さん」

 その言葉にかぶせるように、小林さんも口を開いた。

「えっ、それって橘さんが確認するものじゃないんですか?」

 一瞬、空気がピリついた。ふたりの視線が、交差する。

「私は小林さんに渡したって言ってるんだけど」
「でも、私は橘さんの後輩なので、橘さんからの指示でしか動けないです」

 気づけば、ふたりの視線が私に向いていた。
 どちらもはっきりとは言わないけれど、最後に落ち着く先は、やはり私だった。
 七海さんからすれば、「この新人をどうにかしてよ」という怒りがあるのだろうし、小林からすれば「最低限の仕事しかしたくないし、橘さんなら仕事は振ってこない」と言いたいのだろう。
 どちらの気持ちもわかる。いつもなら謝り、穏便に済ませる。そうすることが一番楽だったはず。だけど、楽しかった反動からなのか、それとも成川さんのご飯で体力がついたのか。ふつふつと怒りが湧いてくる。
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