恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「……ありがとうございます」

 深くお辞儀をする私の頭に、そっと彼の手が乗せられる。
 一昨日と同じ、あの撫でる手の感触が、また私の中を静かに確かに揺らしていく。

「たまには飲みに行くか」
「え?」
「家で食べるのも悪くないけど、外の空気が必要なときもあるから」

 それだけ言って、成川さんはもう歩き出していた。
 背中を追いかけながら、自然と気持ちが少しずつ軽くなっていくのを感じた。
 連れてこられたのは、オフィス街から少し外れた小さな居酒屋だった。
 入り口には提灯がゆれていて、中からはにぎやかだけどどこか懐かしい笑い声が漏れてくる。
 こぢんまりとしたカウンター席に並んで腰を下ろすと、湯気の立つお通しが目の前に置かれた。

「お疲れさん」

 成川さんが差し出したグラスを、そっと受け取る。

「……ありがとうございます」

 グラスを合わせながら、自然と出た言葉だった。
 でも、時間が少しずつ進むにつれ、私の胸にじわじわと湧き上がってくるものがあった。
 昼間の出来事が、思い出せば思い出すほど、じわりと不安を呼び戻す。

「……明日、会社行くの不安だな」

 気づけば口にしていて、慌てて訂正する。

「あ、いや、ネガティブな意味ではなくてですね。先輩にも後輩にも、はっきり言ってしまったので……正直、ちょっと怖かったりして。あはは、やっぱりネガティブでしたね」

 成川さんは、それでも何も言わず、酒を少し飲んでから静かに言った。

「いざとなったら俺を頼ればいい」

 その声は思っていたよりも近くて、あたたかかった。
 冗談めいて笑うでもなく、あくまでまっすぐに、そう言ってくれた。

「頑張りすぎなくていい。全部ひとりで背負う必要なんてない」

 店内の賑わいが、どこか遠くのものに聞こえる。それなのに成川さんの声だけは鮮明で、ひとつも聞き逃したくない。

「自分を守ることも、ちゃんと優先しないと。潰れたらおしまいだ」

 カウンター越しに置かれたコースターの上、グラスの水滴が静かににじんでいく。
 言葉では何も返せなかったけれど、喉の奥が熱くなるのを感じた。
 誰かが自分の味方でいてくれる。そのたった一つの事実が、これほどまでに心強いなんて、思いもしなかった。

「幸いにも一緒の会社だしな。何かあれば経理部乗り込んでやるよ」

 冗談めかしたその言葉に、思わずくすっと笑ってしまう。

「ふふ、大丈夫です。……今の言葉で、十分力もらえました」

 グラスの中の氷がカランと鳴る。
 少し酔いが回ってきたせいか、さっきまであんなに重たかった肩が、今ではふわりと軽い。

「明日からも、ちゃんと戦えそうです」

 不安がなくなったわけじゃない。明日の朝にはまた胃が重くなっているかもしれない。
 それでも、この人が同じビルのどこかにいてくれる。味方でいてくれる。
 そう思うだけで、心の奥にぽっと灯りがともるようだった。

「じゃあ、ほどほどに戦え。逃げるも勝ちだ」

 言葉の端に、優しさがにじんでいた。だからだろうか。お酒のせいもある。解放された空気の中で、いつもなら飲み込むような言葉が、つるりとこぼれてしまった。
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