恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「……逃げ込む先は、成川さんでいいんですか?」

 言ってしまってから、さすがに少しだけ焦る。
 けれど成川さんは動じる様子もなく、グラスを口元に運びながら、いつもの低い声で言った。

「橘がそれを望むならな」

 何気ないようで、確かな肯定。
 酔いと一緒に、心の奥のなにかがじんわりととろけていく。
 ──望んでいいんだ。
 グラスを両手で包みながら、私は小さくうなずいた。

「じゃあ、いざというときはお願いしますね」
「ん」

 ああ、好きだ。そう自覚してしまうぐらいには、取り返しがつかないところまできてしまっている。
 このまま告白をしてしまいたい衝動に駆られて、それだけは絶対だめだと線引きをする。
 自分の気持ちを伝えるということは、この関係がなくなってもいいと覚悟を持っているということになる。
 成川さんはきっとやさしいから、お願いすればこうして飲みには行ってくれるかもしれない。
 でも二度と、家にあげてもらえなくなるような気がして。
 それは、私の中で絶対に手放したくないことだった。

「橘?」

 呼ばれて、顔を上げる。
 気づかないうちに視線が落ちていたらしい。
 私は無理にでも口角を上げて、空元気のような声を出した。

「よし、今日は飲みます! お付き合いください!」

 成川さんは一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。

「ずっと付き合ってんだろうが」

 何気ないその笑みに、胸が締めつけられる。
 その横顔を、こっそり焼き付けるように見つめて、グラスを口に運ぶ。
 冷たいはずの液体が、喉を通るたびにじんと染みる。
 ――好きだ。でも、伝えたくない。
 この関係が壊れてしまうくらいなら、ずっと黙っていたい。
 何も始まらないほうが、きっと、傷つかないから。
 そのとき、店の奥から「うわあああん」と泣き声が響いた。
 驚いて視線をやると、声の主はカウンターでひとり泣き崩れる女性。
 あれ、どこかで見たような……。

「……あ」

 高級スーパーでパプリカパウダーを教えてくれた、あの綺麗な女性だった。
 細い肩を震わせ、ワインのグラスを握ったまま、目元を拭っている。
 酔って泣いているらしく、店員も対応に困っている様子だ。
 そこへ、成川さんが立ち上がった。迷いなく女性に歩み寄り、しゃがんで声をかける。

「何やってんだよ」

 そう成川さんが声をかけると、彼女は泣き腫らした目で顔を上げ、次の瞬間、成川さんの腕にしがみついた。

「え、湊?」

 私は思わず口の中でその名前を繰り返す。
 成川さんの下の名前を、当たり前のように呼ぶ女性。
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