恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
 リビングの明かりを点けて、スーツの上着をソファに放り投げる。そのとき、ふと視界に何かが引っかかった。
 ダイニングの端に、細長い木箱がぽつんと置かれていた。
 覚えがある。
 先週の朝市で、自分が選んだ、あの箸。

「ちゃんとしたのを使ったほうが味も変わる」と言って、橘に渡したものだ。

 何の気なしにそれを手に取る。
 滑らかな木肌。細くて、軽くて、橘の小さな手にちょうど良かった。
 そもそも、これを置いていけと言ったのは、俺だ。
 そう言ったのは、気まぐれじゃない。あのとき、もう一度来る理由を、俺が作った。
 意図してやったことだ。
 それくらいのことは自分でもわかっていた。
 彼女が、またこの部屋に足を運ぶ口実になるように。そう仕向けたのは、紛れもなく自分だ。
 それなのに、恋愛じゃないなんて顔をする。
 ただの後輩。飯を一緒に食う程度の関係。
 そう言い張るには、あまりにも矛盾している。

「面倒だって、言い聞かせてんのに」

 吐き出すように呟いた声が、部屋にやけに響いた。
 たしかに一人は楽だ。でも、気がつけば彼女の存在が、この部屋に自然に馴染んでいた。
 たった一膳の箸なのに、それがあるだけで、ひとりだとは思えなくなる。
 その証拠を、わざわざ自分の手で残した。

「……馬鹿だな、ほんと」

 言葉にするたび、図星を突かれたような気分になる。
 誰かに言われるより、自分で気づくほうが、よほどタチが悪い。
 テーブルの上に箸を戻し、そっと指先で揃える。
 橘が戻ってくる理由を作ったのは、自分。
 けれど、それを「好きだ」と認めるのは、まだ怖かった。



 翌日、橘は強かった。
 気になって、たいした用もないのに経理部へ足を運んだ。
 そこで目に入ったのは、デスクを軽やかに移動しながら、新人に的確に指示を出している橘の背中だった。
 キビキビと指を動かし、ミスの多かった後輩に対しても、冷静に対応をしている。
 その態度に、周囲もいつの間にか言葉を飲み込むようになっていた。先輩にも容赦なく業務を振り分ける彼女の姿に、誰も反論を挟めない。
 そうして気づく。
 ここにいる全員が、橘に甘えていた。
 自分が楽になるぶん、無意識に押しつけていた。それが、ようやく明るみに出た形だった。
 ──逞しい。
 だけど、それが逆に引っかかる。
 昨日まで、あんなふうに揺れていたのに。
 ……橘は、ちがうんだよな。
 簡単に「大丈夫」って笑うくせに、目の奥では何かを隠してる。
 その直感は、昼休みに確信に変わった。
 屋上に出たとき、風に吹かれながらフェンスにもたれていたのは、ひとりの橘だった。
 スーツのジャケットが風で揺れていて、髪が頬にかかっていた。背筋は伸びていたけど、その背中にはどこか寂しさが見えるような気がする。
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