恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「ひとりでため息つくなよ」

 声をかけると、橘は少し驚いたように振り返った。それから誤魔化すように笑う。

「……バレてました?」
「思いっきり聞こえた」

 橘は苦笑しながら、そういえば、と話を切り替える。

「昨日はありがとうございました。あのあと大丈夫でしたか?」
「ああ、問題なかった」
「よかった。やっぱり成川さんが一緒でよかったです。あんなに綺麗な人なら、世の男性方は放っておけませんから」

 ……この口調だと、どうやら気付いていないらしい。
 察してほしいなんて都合がいいか。

「言っとくけど、あれは男だから」
「わかってますよ。男……男?」
「ああいう格好が好きな男。アレもついてるしな」
「アレ……えっ⁉」

 よほど信じられないのか「私よりも女性でしたよね?」と疑っている。

「それと力は俺よりある。だからひとりで送っても大丈夫だった」
「そ、うだったんですか……それは、余計なお節介をしてしまいました」

 男性の方だったんですね、としみじみ呟くその横顔にふっと口角が緩む。

「すげえ頑張ってたな、今日」

 経理部で見た姿に触れれば、橘は「ああ」と苦しそうに、無理に微笑んだ。

「強くあろうと思ったんです。動じない自分で。だけど、慣れていないからか心臓はびくびくしてて、ひとりになると気が抜けそうになります」
「うん」
「だから、見た目だけです。中身はそんなに変わってないです。めちゃくちゃ疲れてます」

 そう言って、軽く肩をすくめた。

「でも、そうしないとやっていけなくて。誰かがちゃんとしないと、回らないってわかってたので。今ごろ、とんでもなく悪口言われるはずです」

 痛みを知っていて、それでも立っている。そんな強さだった。

「あ、でも大丈夫ですよ。まだ成川さんの出番はなさそうのでご安心ください」
「みたいだな」

 橘は、少しだけ胸を張るようにして笑っていた。
 その笑顔の下に無理があることも、もうわかっている。
 だけど、それを言ってしまえば、また「バレました?」とごまかすんだろう。
 だから――言わない。流す。
 代わりに、次の言葉を待っていた。

「やっぱりごめんなさい、少しだけ撤回してもいいですか?」
「ん?」
「弱ってるからという意味ではなく、単純に成川さんのご飯が食べたいです。甘えた発言だと思ったら、ぶっ飛ばしてもらって大丈夫です」

 できるわけないだろ。ぶっ飛ばすなんて。
 それに、そんなの甘えた発言でもなんでもない。

「いいよ、じゃあ今晩。でもこれから外回りだから、自宅集合で」

 そう言って、ポケットから鍵を取り出す。
 橘の手のひらにそれを置くと、目をぱちぱちと瞬かせて、しばらく固まっていた。

「な、なんでしょうか?」
「少し遅くなるから、先に入ってて」

 だから鍵。
 それ以上でも以下でもない、単純なこと。
 ……のはずなのに、自分の心臓が、少しだけ速くなっているのがわかった。

「う、受け取ってしまっていいんでしょうか?」
「信用してない人間に渡さない」
「……ではお言葉に甘えまして、お邪魔します」
「テキトーに過ごしてていいから」

 橘は鍵を両手でうやうやしく持ち上げると、ぴしっと背筋を伸ばした。

「御意です」

 大げさな口調に、思わずふっと笑ってしまった。
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