恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
 仕事を終えて帰宅すると、玄関の灯りがすでに点いていた。
 ドアを開けた瞬間、バタバタと走ってくる音が聞こえる。それから橘が見えて。

「おかえりなさい」

 その言葉に、足が止まった。
 ──おかえりなさい。
 久しぶりに聞いた。
 誰もいない家に帰るのが当たり前になっていたから、耳が、心が、追いつかない。

「……ただいま」

 そう返したあと、ふと鼻をくすぐる香りに気づく。
 味噌と出汁の優しい香り。

「ええと、匂いでわかると思うんですけど……」
「豚汁?」
「そうです、また豚汁です。ふたりでこの前作ったばかりですけど」

 言ってから気付いたのか、橘がハッとする。

「勝手にキッチンをお借りしました。あの、使うものは全部調達してきたので、成川さんが持っているものは触れてないです。あ、嘘です、調理器具はお借りしました」
「いいよ、そんなの。むしろ買ってこなくてよかったのに」
「許可もらってないので」

 テーブルには、ふたり分の豚汁と、ご飯と、浅漬けと唐揚げのお惣菜。

「すみません、成川さんにお惣菜を食べてもらうことになって……あ、でもここのお惣菜美味しいんです」
「なんで? 楽しみだけど」

 橘の手には、あの箸が握られている。

「いただきます」

 合わせた声が重なる。

「豚汁うまいな」
「ですよね! 成川さん直伝なので美味しいに決まってるんです。私、配合は得意みたいで」
「料理に配合って使う奴、初めて見た」
「えっ、そうですか? 大事じゃないですか、適量とか言われると一番わからないので厄介ですけど」

 箸の音、ご飯の湯気、味噌と野菜の甘い匂い。
 黙って食べる時間さえ、どこか穏やかで。
 ──ああ、こんなふうに暮らせたらいいのかもしれない。
 ふと、そんな考えが浮かぶ。そんなこと、考えすぎだ。
 けれど、橘と一緒に過ごすこの今が、悪くないと思っている自分がいる。

「今度、ここの総菜買いに行く」
「ぜひ! どれもオススメですよ」



 翌朝。会社に出社してまもなく、後輩が声をかけてきた。

「成川さん、ちょっといいですか?」
「どうした?」
「八代会社から連絡があったみたいで。今日、こちらに向かうとだけ言われて電話が切れて」

 思わず足が止まる。
 八代は叔父の苗字だ。婿入りしたこともあり、成川の名は使っていない。

「今日?」
「はい。本日中にとのことで……少し緊急みたいで」

 コーヒーの温度も、机に広げた書類も、すっと遠くなる。
 平穏な時間は、そう長くは続かない。
 そう、頭ではわかっていたはずなのに──昨夜の幸せが、わずかに胸を痛めた。
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