恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と

レシピ5:婚約者になりましょう

「婚約者、ですか?」
「ああ、頼めないか」

 翌日の昼休み、成川さんが経理部に顔を出したことで一瞬ざわつき、さらには私を個人的に呼び出したことでより一層騒ぎが大きくなった。
 とはいえ、今のところ私に声をかけてくるような強者はおらず、誰にも咎められることなく屋上に出たところで、予想外の話を持ち掛けられた。

「今日の夜、叔父が会社の近くに来る。そのとき橘にも同席してほしい」
「私でよければ構いませんけど……でも、私でいいんですか? その、婚約者のフリって」
「ほかに頼める人間もいない」

 成川さんの家庭が複雑だということは知っている。
 自分の意思だけで人生を決められない、そんな空気をまとっていることも。
 けれどまさか、こんなふうに巻き込まれるとは思っていなかった。
 仕事が終わると、成川さんに会社近くの料亭へと案内された。こんなところに来るなら、普段から身なりを整えておけばよかった。後悔している間に、男性がふたり現れた。
 成川さんの叔父と名乗る男性は、グレーのスーツに身を包み、品格と圧をまとった人物だった。
 その隣には、いかにも秘書という雰囲気の無表情な男性。

「いきなりですまなかったな」

 そう言いながらも、視線は私ではなく成川さんに向けられている。
 成川さんは一歩も引かず、黙って頷いた。

「それで……そちらの方が、例の婚約者かね?」
「ええ、橘です。お話したように、同じ会社に働いています」

 へえ、と品定めするように上から下へとチェックされる。
 この人が、成川さんの叔父さん……どことなく雰囲気は似ているし、この手厳しい感じも成川さんを連想させる。だけど、なんていうか、冷たい。ものすごく関わりたくないという感じの冷たさがそこにはあるような気がする。
 それは私がいるから?
 それとも成川さんは、ずっとこの空気に耐えてきたの?
 怖気づいてもいられない。ここにいる役割を思い出して背筋を伸ばす。

「橘です。よろしくお願いいたします」

 私は緊張を隠すように微笑み、深く頭を下げた。
 隣の秘書が、無言で差し出してきた一冊の分厚い冊子。

「こちら、最新のお見合い候補です。お遊び程度の関係では困りますので、そろそろ身を固めていただきませんと」

 無感情に放たれた言葉が、部屋の空気を凍らせた。

「……久しぶりに顔を合わせたかと思えばお見合いですか」
「悪いが、この話は以前からのはずだろう。ろくに返事もしてこないのはどこの誰かな」

 成川さんは、叔父さんたちに恩を感じていると言っていた。自分ができることで恩返しをしたいと。
 けれどこれは、成川さんの立場を利用して、強引に成川さんの人生を決めてしまっているような気がする。
 私のことが気に入らないのは別にいい。でも、成川さん自身との対話を軽んじているような気がする。

「悪いが、後継者の話は諦めていない。君がどう思っていようとね」
「何度もお断りしたはずです。結婚相手も自分で決めると」
「そうはいかない。君は私の跡継ぎだ。むしろこれまでよく我慢したほうだと思わないか? もう32だろう。フラフラ遊びまわられても困るんだよ」

 フラフラ遊びまわる……?
 成川さんを見て、本気でそう思っているのだろうか。
 そんなことはない。成川さんの仕事ぶりを見れば、そんなことは言っていられないはずだ。

「……お言葉ですが」

 私はどう思われてもいい。今回限りかもしれないのだから。

「成川さんが跡を継ぎたくない理由、今日少しだけわかった気がします」
「……なんだと?」

 目の前にいる人間が、私に敵意を向ける。おそらくそれは私も同じだろう。
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