恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「成川さんの気持ちは一度でも聞かれたことがありますか? 一人の人としての意志を尊重してほしいです」

 声が震えてしまう。だけど、悔しくて仕方ない。
 この悔しさをずっと成川さんが抱えていたのかと思うと苦しくて。

「橘」

 成川さんが、私の名を呼んだ。目が合うと、その目は柔らかく細くなった。
 それから前にまた視線を戻した。

「決心がつきました。やはり跡は継ぎません。俺は俺の人生を歩みます」

 そう言いきった成川さんはかっこよかった。
 恩を仇で返すことを恐れていた成川さんは、自分ができることを必死に考えてきたはずだ。
 だからこそ答えが出なかったのかもしれない。人のために、と考えられる人。そんな人が今は自分を優先してくれることがうれしい。

「……後悔するぞ」
「構いません。跡継ぎになったほうが、もっと後悔すると思うので」

 成川さんの手が私の肩にまわり、ぐっと力強く引き寄せられる。
 ドン、と重い音を立てて、成川さんの叔父と秘書が怒気を纏って部屋を出ていく。
 足音が遠ざかると同時に、成川さんの手は私の肩から静かに離れていった。

「巻き込んで、ごめんな」
「いや、私のほうこそ変に出しゃばってしまって」

 今になって、あの言い方は本当に成川さんのためになったのかはわからない。逆に成川さんの立場を悪くしてしまったかもしれない。

「すみません、本当に出しゃばりました」
「いな、橘が啖呵切ってくれなかったら、あのままズルズル話が続いてた」

 それは成川さんのやさしさだとはわかってはいたけど、それでもうれしかった。

「……ありがとな、橘。それに、嫌な役回りもさせて悪かった」

 それは、どちらの意味なのだろう。
 ここにいるという役回りが? それとも婚約者という役回りが?
 どちらも私にとっては、成川さんが悪いと思うほど負担にはなっていないし、むしろ私を選んでもらえてよかったとさえ思えている。

「お疲れ様でした、成川さん」
「ああ、橘も」

 答えにはなっていないけど、成川さんの役に立てたのならそれでよかったと思うことにする。




「橘さん」

 翌朝、なぜか七海さんに声をかけられた。
 もしかして成川さんのことを聞かれるのだろうか。そんなことを思っていたら、七海さんの後ろで小林さんが泣いていた。

「橘さんがいない間に、小林さんのミスが発覚して。ゼロが足りないどころの話ではなかったんだけど、そのミスを橘さんになすりつけようとしていたから、ちょっと怒ったのよ」

 ちょっと、どころではないのだろう。小林さんの泣き方を見ていたらわかる。

「だから、彼女の教育係ではないんだけど、見過ごせないから私がきつく言ったところはある」

 今までの七海さんだったら、遠くでコソコソと話しているだけだったはずだ。
 でも、七海さんもまた、自分が先輩だという自覚を持ち、後輩に指導してくれた。

「私とはあまり話したくないだろうから、小林さんのフォローしてあげてほしい」
「それは、……ありがとうございました。私の仕事なのに」
「新人は会社全体で育てていかないといけないって、最近になってわかったの。今まで橘さんに頼っててごめんなさい」
「いえ……ですが、小林さんに怒ったというのは」

 それは社長を敵に回すということだ。けれども七海さんはスッキリしたような顔をしていた。
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