サルビアの育てかた
「何だこれは!」「どうしてベッドが濡れているんだ!」「ズボンもこんなにびしょびしょだぞ」

 父の叫び声が両親の寝室から連続して聞こえてきた。普段あまり大声を出さない父が珍しい。
 俺とレイは急いで寝室へと向かう。

 そこで目にしたものは──父が部屋の中を右往左往しながら狼狽える姿だった。なぜだか下半身をほぼ露出させ、足元やベッドが濡れてしまっているのだ。
 一瞬、息をするのを忘れる。だがこのショッキングな光景から目隠しさせるように、俺はさりげなく彼女の前に立った。
 レイは口に手を当て、絶句している。

 叫び続ける父の横で、母は汚れてしまった床を雑巾で必死に拭こうとしているところだった。

「あなた、落ち着いて。大丈夫だから。濡れたところは拭いて乾かせば大丈夫よ」

 母は優しく父に声をかけるが、悲しみと戸惑いを隠せない様子だ。
 しかしレイはすぐに母のそばへ駆け寄り、シーツを剥がしてベッドの濡れた部分を雑巾で拭き始める。
 父をなだめ、俺は替えの下着とズボンを取り出した。

「向こうで着替えようか」

 別室へ行き、父の着替えを手伝ってやった。
 だけど父はずっとぼんやりしている。自分のしたことが最後まで理解していないようだ。

 ──のちに聞いた話によると「トイレがない」「ここはどこだ」「トイレがなくなった!」と騒ぐ声で母が目を覚まし、急いでトイレまで連れて行こうと手を引いたが、父はベッドに座り込んで動かなくなり、そのまま粗相をしてしまったという。
 母の瞳が悲嘆にくれている。
 俺もレイも、この事態に相当な衝撃を受けた。
 
 本当はその場にいた全員が分かっていた。今、父の身に何が起こっているのかを。けれど、誰も何も口に出して話そうとはしなかった。

 その日はできる限り笑顔で過ごした。どれだけ不安を抱えても、原因が明白になるまでは希望を捨てきれなかったんだと思う。
 虚しい現実逃避だ。
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