サルビアの育てかた
 何もかも忘れていると思っていた。父はもう、今のことも過去のこともぐちゃぐちゃになっていて、全部が分からなくなっていると俺は勘違いしていた。だけどそうじゃなかった。父はちゃんと覚えているんだ。
 そう考えると、俺は父に対して申し訳なさと、感謝の気持ちと、嬉しさと切なさと、色んな感情が入り混じって心が破裂しそうになった。声が勝手に漏れ、頬もどんどん濡れていく。

 部屋の隅で蹲り、声を抑えられずにいると静かにドアをノックする音が鳴り響いた。

「……ヒルス?」

 ドアの向こうから、レイの心配そうな声が聞こえてくる。俺は咄嗟にティッシュで顔の周りを拭き取ってから立ち上がり、ドアを開けた。
 眠たそうな顔で、それでいて眉を八の字にしながらこちらを見上げるレイがいた。

「ヒルス、大丈夫? 声が聞こえたから……」
「あ、ああ。何でもない」
「本当に?」

 じっと彼女に見つめられると、俺は目を合わせられなくなった。

「ごめん、起こしちゃったな。本当に大丈夫だから。ただちょっと……嬉しいことがあって切ない感じになっていただけだ」
「うん? どういうこと?」
「どういうことだろうな。俺にも分からない」

 レイは首を傾げるが、俺自身もこの気持ちが上手く表現できないのでそれ以上は何も話せなかった。
 それでもレイは、俺の右手を優しく握るとニコリと微笑んでくれる。

「毎日、大変だよね。ヒルスも心が折れそうになっていたのかと思ったよ」
「いや、違うよ。レイは、平気か?」
「私は大丈夫。いつもヒルスが励ましてくれるでしょう? だからもしもヒルスに何かあったとき、お返しに私が支えてあげるからね」

 半分冗談と言うように、レイは可愛らしい顔で笑った。
 今の俺の中の複雑な感情をどうにか解消したい。彼女が支えてくれると言うのなら、本当に甘えたくなってしまう。

「レイ、だったら」
「うん?」
「少しだけ、抱きしめてもいいかな……」

 兄などという自覚が微塵もない俺は、恥ずかしながらも彼女にそう言ってみた。
 するとレイは笑顔を崩すことなく、優しく答えてくれる。

「……うん、いいよ」
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