サルビアの育てかた
──だが、この時。
俺の心臓が、ドクンと音を立てて激しく唸り声を上げた。思わず足を止める。昨夜の出来事を思い出し、ぎこちなく周囲を見渡した。
……大丈夫。奴はいないようだ。
レイは俺の顔を覗き込んで小首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや……なんでもないよ」
俺はこれから、毎日のようにこうして警戒してしまうのだろうか。
「早く引っ越したいな……」
ポツリと呟く俺の前に立つと、レイは不思議そうな顔でこちらを見上げてくる。
「ヒルス、大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫。引っ越し先、早く決めたいなと思って」
「そっか。朝からずっと物件探してるもんね」
「いくつか気になるのはあったよ。オートロックつきの建物で住人が自由に使える庭もあるんだ」
「庭があるの?」
「そこでダンスの練習も出来るみたいでさ」
「へぇ。そんな所あるんだね!」
「見てみるか?」
「うん、見せて見せて!」
「じゃあ部屋でじっくり」
レイが楽しそうにしているのを見て、俺は少しだけ安心した。引っ越しの件について前向きになってくれたようだから。
フラットのエントランスドアを開け、二人で中へ入ろうとした時──
後ろの方からコツコツと、ヒールの高い靴の音が鳴り響いてきた。それだけなら特に違和感はない。
だがその足音と共に、ひとつ気になるものも混じっていた。
「はぁ……はぁ……ううぅ……」
息遣いが異様に荒く、小さく唸っているような奇妙な声だった。
振り向いてはいけない。立ち止まってはいけない。さっさと中へ入るんだ。