サルビアの育てかた
 俺は足下に置かれた冷たい箱の中をもう一度見つめた。赤子のレイの泣き声は先程よりも明らかに弱ってしまっている。

「もうすぐレイの声が聞こえなくなっちゃう。お兄ちゃん、急いで……」

 焦る妹に、俺は大きく頷いた。

 大丈夫、俺は彼女のいる世界に絶対に帰ってみせる。どんなに体が悲鳴を上げても、精神的にも肉体的にも大きなダメージを受けていても関係ない。
 レイを抱き締めてあげたい。大切な贈りものもちゃんと渡すんだ。ダンスの練習もたくさんしなくちゃいけない。まだまだレイとやることがたくさんあるから。こんな所で悩んでいる場合じゃなかった。

 赤子のレイを抱き上げる前に、俺はもう一度妹を──リミィの方を振り返る。

「戻るよ」
「……うん」
「リミィ。父さんと母さんによろしくな」
「お兄ちゃんもレイによろしく伝えておいてね」
「ああ、分かった」

 リミィはもう一度だけ、俺に向かって微笑んだ。まるで天使みたいに明るくて、眩しい笑顔なんだ。

「もうこんな所まで迷い込んでこないでよ? もしまたこっちに来たら、本気で引っ叩くからねっ」
「ああ……そうしてくれ」

 一瞬、沈黙が流れた。お互い寂しさと名残惜しさの気持ちが伝わってきたが、もう時間がない。
 今にも呼吸が止まってしまいそうな赤子のレイにそっと触れる。氷のように体が冷たくなってしまっていた。そっと首を支え、もう片方の手でゆっくりと小さな身体を抱き上げた。

「帰り道、気をつけてね。レイの声をよく聞いて。聞こえなくなったら迷子になって、どっちの世界にも戻れなくなることがあるから」
「ああ、大丈夫だ。俺は、何があってもレイを見失わないよ」

 迷わず俺がそう口にすると、リミィは大きく頷いてくれる。そして最後に透き通った声で言うんだ。

「お兄ちゃん、レイと幸せになってね……」

 俺が返事をしようとした瞬間、辺りはあっという間に真っ白の世界に逆戻り。
 目の前の風景もリミィの姿も消えていき、その場には俺と腕の中ですやすやと眠るレイだけが取り残された。
< 812 / 847 >

この作品をシェア

pagetop