【番外編】孤高の弁護士と誓いの光 — 未来へ紡ぐ約束

お手本のキス

本格的な夏の訪れを告げる、夕暮れの熱気。
蝉の声が遠くに響き、アスファルトがじんわりと湿気を含んでいる。

ドアが開く音がして、隼人がスーツ姿のままリビングに現れた。

「ただいま」

「おかえりなさい。お疲れさま」

エプロン姿の紬が、キッチンから顔をのぞかせる。テーブルの上には、炊きたてのご飯と、湯気の立つ豚の生姜焼きがきちんと並べられていた。

スーツの上着を脱ぎながら、隼人がふと言う。

「……今日、保険会社のロビーで見たよ。紬と佐藤くんが、すごく……仲よさそうに話してたな」

一瞬、紬の手がピクリと止まった。
だが、すぐに動揺を押し隠して、お茶を湯呑みに注ぐ。

「それね。ちゃんと伝えたよ。佐藤くんには、私が隼人くんと付き合ってるってこと」

「……ふーん」

隼人は椅子に腰を下ろし、箸を手に取る。
どこか不満げに、しかし食欲は衰えず、豚の生姜焼きをパクッと口に運んだ。

「『知らなかった、馴れ馴れしくしてすみません』って、すごく律儀に謝ってたよ。でも、あの子の距離感って、あれが“通常運転”みたい。知ったあとも……まあ、近いのは変わってない」

「……付き合ってるってわかってんなら、まあ、いいけどな」

そう言いつつも、隼人の口元はわずかに尖っている。

紬はその表情を見て、くすっと笑った。

「ふふ。隼人くん、ほんとにわかりやすいな」

「……紬が鈍いだけだ」

ぼそっと返されて、紬はそっと微笑む。
そういう不器用なやきもちも、隼人らしくて、愛しくなる。

「……ああ、ほんと。かわいいな、隼人くん」

その一言に、隼人がぴくりと反応する。

「……バカにしてる?」

「してない。むしろ、褒めてる」

柔らかな微笑みを浮かべながら、紬がご飯をすくって口に運ぶと、隼人もほんの少しだけ頬を緩めた。

そして――
ふと、箸を置き、視線を下に落としてぽつりと漏らす。

「……今日、甘えたい」

そのひとことに、紬の手が止まった。
目を細めて、眉尻を少しだけ下げる。

「……いいよ。看病してもらったお返し、ね」

ほんのりとした笑みとともに告げると、隼人はどこかほっとしたような、照れくさそうな表情を浮かべた。

扇風機の風がカーテンを揺らす。
夏の夜が、ゆっくりと静かに、ふたりを包み込んでいく。
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