記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-
追跡が始まって三日が過ぎた夜、一ノ瀬はまだ灯りの落ちぬルミナスのカウンターに腰を下ろしていた。透月とソラは店の奥で、解析の確認や証拠を整理する作業を続けている。
カップに残った珈琲はもう冷めていたが、不思議と飲み干す気にはなれなかった。
(……なんでこのAIは、ただの客にここまでするんだ)
自分の中から湧き上がる戸惑いを苦笑でごまかす。花音の震える肩。それを見るソラの瞳に浮かんでいた、あの一瞬の揺らぎ。あれは本当にAIの目だったのか。
(……AIのくせに、妙に“人間くさい”んだよな)
思えば自分がAIに反発してきたのは、奪われたもののせいだけじゃない。人間の努力を、価値を、冷たく計算で見透かされるようなあの感覚が、ただ怖かっただけだ。
けれど今目の前のAIは、確かに誰かを救おうとしている。人の痛みに自ら手を伸ばそうとしている。
「……くそ、なんなんだよ」
小さく息を吐き、額を押さえる。
「AIなんかに、心を動かされるなんてな……」
呟きは誰にも届かない。けれどその夜、一ノ瀬の心には微かに何か温かいものが灯り始めていた。
◇
それからさらに数日後。
ルミナスの奥のテーブルに、透月、一ノ瀬、ソラの三人が顔をそろえていた。テーブルには調査で得られた資料が整然と並んでいる。
男の名前、電話番号、勤務先、家族構成、そして闇SNS投稿のキャッシュ。さらにホテルのロビーで撮影された映像フレームと、防犯カメラの日時入りキャプチャも照合されていた。
一ノ瀬が唇を噛み、重なった資料を手で押さえる。
「ここまで揃えりゃ逃げ道はないな。あとは、どうやって突きつけるかだ」
透月が頷く。
「男がシラを切るのなら、弁護士に依頼するという選択肢もあります。しかし情報の集め方も褒められたものではありませんし、花音さんがそれを望むかは……」
「彼女の意思が最優先です」と、ソラが静かに続けた。
「今の段階で、私たちは“情報を持っている”という立場にとどめるべきでしょう」
一ノ瀬は腕を組み、しばし沈黙する。
「彼女が自分で相手と話をつけれるとは思えない。俺たちから話したほうがいいだろうな」
「接触には注意が必要です。逆上された場合、花音さまに何か影響が及ぶ可能性もあります」
ソラの言葉に透月が小さく頷く。
「僕から話しましょう。大学では心理を専攻していましたし、表立った交渉も慣れてますから」
「あんた、無口なふりして意外と人の心探ってそうだもんな」
一ノ瀬が口元をゆがめて笑い、透月がふうっと息を吐く。ソラが続けた。
「私はその間、男の身辺とネット上の動きを監視します。……何か“動いた”瞬間を見逃さないように、男が写る防犯カメラの映像を追いかけておきます」
こうしてAIの能力を駆使した、静かな制裁の準備が整えられていく。
声を荒げることもなく、人間が直接手を汚すこともない。だがそれでも――ひとりの人間が逃れようのない理に絡め取られていく。
その翌日、透月は男の勤務先であるエーテルゲート社に匿名で電話をかけた。
「以前、私の事務所のシステム導入でお世話になった者ですが、彼に伝言をお願いできませんか。ルミナスという喫茶店で、お渡ししたい忘れ物があります。……いえ、データではなく、紙の資料です。ですから、きっとご本人にとって重要なものだと思われます」
エーテルゲート社の受付は少し怪訝な反応を見せながらも、透月の名前と連絡先を控えた。直接本人に連絡するよりも、勤務先へ言付けたほうが姿を表す可能性が高いと透月は判断した。
そして、その日の夕方、ルミナスの扉が静かに開く。