記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-
入ってきたのはスーツ姿の男だった。防犯映像に映っていたあの男。カウンターには透月がひとりで待っていた。
「……ようこそ。お待ちしておりました」
男は訝しげに店内を見回す。
「忘れ物って聞いたけど? でも、こんな店来たことないんだけどな」
「ええ。それは後ほどご提示いたします。その前に少しだけ、お話をさせて下さい」
透月の静かな声に男は眉をひそめたが、しぶしぶと椅子に腰を下ろす。
そしてその直後――カウンターの奥から花音が現れた。姿を見た瞬間、男の肩がピクリと震えた。
花音は黙ったままカウンターの端に立つ。
透月が問いかけた。
「花音さん、こちらの方で間違いありませんか?」
「……はい」
アケミに肩を支えられた花音が弱々しく答える。透月は続けた。
「あなたも、この子をご存じですね?」
男は目をそらし、鼻で笑うように言った。
「いや? 見覚えないけど? 誰?」
花音の目がかすかに揺れる。
ソラが背後から現れ、男の横に静かに立つ。
「では、お尋ねします。十二月三日の十九時二十三分、セントラリンク駅近くのホテル『セレノス』に一緒に入った女性をご記憶ですか?」
男は肩をすくめ、あくびを噛み殺すように言った。
「さあな。知らねぇよ。セントラリンク駅なんて行ってねえし。ていうか、あんたら誰?」
花音が震える手を握りしめる。透月は淡々と続けた。
「彼女はあなたの子を妊娠しています」
「……は? 冗談じゃない、知らねぇよ。俺じゃねぇ! 証拠あんのかよ」
男の声がわずかに上擦ったその瞬間、ソラが手元の端末をタップした。
カウンター上の何もない空間に、次々と画像が投影されていく。駅前の防犯カメラ映像、ホテルの出入りを示す時刻付きキャプチャ、削除された闇SNSのキャッシュ画像。その日街中で撮影されていた無関係の人のSNS画像。その中には、男と花音が並んで歩いている姿が映り込んでいた。
男の顔から血の気が引いていく。ソラが静かに告げた。
「これらは、あなたが“誰と、どこで、何をしていたか”を示す記録です。隠蔽された投稿も削除された通信も、すべて復元されています」
男は顔をこわばらせながらも、わずかに声を荒げた。
「ふ……ふざけんな。こんなもん捏造だろうが。今の時代、AI使えばいくらでも作れるんじゃねぇのか?」
一ノ瀬が眉をひそめたが、ソラは淡々と続けた。
「それはごもっともなご懸念です。ですが、これらのデータには“生成された痕跡”は一切存在しません。全ては既存の記録と照合され、真正性が第三者でも検証可能な形式で保全されています。これでもあなたは“知らない”と仰いますか?」
ソラはさらにもう一度端末をタップした。
今度は警察・弁護士宛に準備された文書の雛形と、情報のタイムスタンプ、アクセスログ、証拠保全システムの認証マークが映し出される。
「証拠として十分に法的効力を持ち得る状態で整えています。提出の準備も完了しています。あとはあなたと、花音さまの判断次第です」
沈黙が落ちる中、男はついに目を逸らし、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
だが、それでもなお男は口を開く。
「くそっ、お前……AIかよ。……で? 俺にどうしろって言うんだよ。子どもがいるとか言われても俺には関係ない。勝手に堕ろせばいいだろ」
その言葉に花音がびくりと肩を震わせた。透月が遮るように口を開く。
「私たちはあなたに謝罪を求めているわけではありません。彼女の未来に対して、“責任を取る”という意思を示していただきたいだけです」
「責任? 俺がか? ……冗談じゃねぇよ。大体そいつの親が俺かどうかなんてわかんねえじゃねえか」
「彼女の行動ももちろん洗いましたが、あなた以外に性的行為の可能性は確認されていません」
「は? パパ活するような女だぞ? 本当にちゃんと調べたのかよ。胡散くせえ」
一ノ瀬が大きくため息を吐き、資料のひとつを手元に滑らせる。
「言いたくなかったが、妻の名前は美咲さん。子どもは二人。上の子は今春から高校生、下の子はまだ小学生……で、合ってるよな? まだ色々知ってるんだけど、どうする? もっと聞きたいか?」
男の顔色が見る見るうちに青ざめていく。
ソラが続けた。
「これでこちらの調査能力にご納得いただけましたか? こちらから告知することもできますが、それは奥様とお子様の人生を変える可能性もあります。あなた自身がどちらを選ぶかを決めてください」
その声には抑揚も感情もなかった。ただ一つの事実として、静かに提示された選択。
男は言葉を返せず、まばたきすら忘れたように固まっていた。掌の内側に冷たい汗がじわりと滲む。男が沈黙を選んだその瞬間、ソラの声が再び静かに落ちる。
「このままでは“リガル・メモリア・ユニット”がご自宅の端末に送信されます。それは、あなたの沈黙を選択として記録する法的証拠記憶体です。なお、その転送には、“P-LET”プロトコルが適用されます」
ソラの説明に背筋が冷たくなるのを透月は抑えられなかった。
“P-LET”――正式名称は“パーソナル法的証拠転送”(Personal Legal Evidence Transfer)。「個人意思に基づく通知および記録保存のためのAI介入型法的証拠転送手続き」のことだ。
法務省デジタル統治局によって制度化されて以来、このプロトコルは書面の送付や人間による警告を介さずに、AIが直接、対象者、あるいはその周囲の人物の端末へ、法的通知を送信する手段として広く運用されていた。
送られるのは“リガル・メモリア・ユニット(法述想記函)”と呼ばれる、AIによって形式化された記録体――それは法に則って、対象が述べた“言葉”や“想い”をAIが判断して記録するための記憶函。状況によっては“沈黙”さえも意志として記録し未来の証拠として残すというAI法制度の冷徹な在り方が込められたリガル・メモリア・ユニットは、意思表示、関連証拠、倫理判断の経緯などを内包した、AIによる合法的な「警告の花束」だった。
透月はその存在を資料のなかでしか知らなかった。
それが今、自分の手によって――いや、自分の意志を代弁するこのAIによって、現実に起動されようとしている。
ぞわりと背中に寒気が走る。
声を荒げることも怒鳴ることもない。
ただ論理と記録、そして制度という名の歯車が、静かに対象を追い詰めていく。
逃げ道は最初から用意されていない。ただ、「はい」か「いいえ」、沈黙すらもその選択として記録される。
人間が生ぬるい葛藤を抱えて立ち止まっている間に、AIはもうすでにその先にいる。
「この段階で“P-LETプロトコル”が発動された場合、後から意思の撤回は原則認められません。これは記録保持義務に基づいた措置であり、わたしのリガル・メモリア・ユニットは、その内容を司法照会に耐え得る形式で保持します」
かつては物理的な内容証明に頼っていた社会が、今やAIによって、一つの言葉、あるいは沈黙までもを法的選択としてリアルタイムに記録し、瞬時に転送する時代になった。
感情も、事情も、憐れみさえも関係ない。ただ事実と選択を残すためだけの装置。
透月には、その制度が人間のために設計されたものではなく、AIの視点から最適化された理そのもののように思えた。
そして今、目の前でそれが動き出そうとしている。
機械のように迷いなく、だが人間よりもずっと正確に、容赦なく――。
淡々と紡がれる言葉の奥には、人間ではない“何か”の気配があった。
それは説得でも忠告でもなく、手続きの一部として粛々と執行される通告。
背筋に氷のようなものが這い上がる感覚が男を襲った。逃げ道のない理が、静かに牙を剥いていた。
透月が男の方へ視線を向ける。
「どうか、お願いします。ご自身がされたことに向き合い、責任を果たして下さい。こちらで書面を用意しています。花音さんの選択に対し、いかなる場合も経済的・法的責任を逃れないことを誓約する内容です。これにサインを頂ければ、“P-LETプロトコル”が発動することはありません」
透月は懸命に言葉を紡いでいた。
誰かを裁くためでも、糾弾するためでもない。ただ、人としての最低限の誠意を相手に求めたかった。
ソラに――AIである彼女に、こんな冷酷な役割を担わせたくはなかった。
AIは人を追い詰めるためにあるのではない。人に寄り添い、支えるためにあるのだ。
その信念と現実が出会う場こそがカフェ・ルミナスの意義であると、透月は信じたかった。
だからこそ、心を持つ人間と感情を知らぬAIが対話を交わすこの場所、カフェ・ルミナスの存在意義が、行為としても思想としても未来を照らす道であってほしいと願った。
男は目を見開いたまま固まっている。
その場に凍りついたように身動きひとつとれず、ただ呼吸だけが微かに胸を上下させていた。
「……選ばせてもらえるだけマシだろ? いずれにせよ買春したことに間違いはないんだ。自分のしたことに責任を取るか、逃げてあんたがしたことが家族にバレるか、どっちが良いかは……自分で判断しなよ」
一ノ瀬の静かな口調は、低く鋭く響いた。
しかし男の口元は歪み、最後の抵抗をぶつけてくる。
「だ……だけど、俺はその女に金を払ったんだ。……同意の上だろ? どうして俺だけが責められるんだよ」
男の捨て台詞に空気が凍りついた。その瞬間アケミが椅子を蹴るように立ち上がる。
「同意? ふざけないで!」
その声は店の空気を震わせた。
「花音をホストに貢いだり身勝手な理由で身体を売るような女達と一緒にしないで! 花音は……本当は、夢のために頑張ろうとしてただけなのに……!」
男が一瞬たじろぐ。
「お金を受け取ったら全部が“同意”になるって思ってるの? 脅されて、逃げ場がなくて、選択肢なんて何もなかった……それが、あんたの言う“同意”なの!?」
花音は怯えたように身を縮めていたが、震える手でバッグの中から小さな封筒を取り出した。中には以前男から渡された現金が入っていた。
「……これ、返します……私、……こんなお金、いらない……」
声はかすれ、今にも消えそうだった。
そっと封筒をカウンターに置くと、彼女は俯いたまま小さく肩を震わせた。男の目がその封筒に釘付けになる。
その時、透月が静かに一歩踏み出し、男の前に書類を差し出した。
「こちらにご署名をお願いします。そして彼女に対して今後一切の接触を行わないと誓約してください。後の手続きは私が代行します」
差し出された書類に男は一度手を伸ばしかけ、引っ込める。男は書類を忌々しそうに見つめ、鼻で笑った。
「……こんなもん……脅迫だろ……」
「我々は、あなたに法外な金銭を要求するつもりはありません。そう感じられるなら、警察にご相談いただいても構いません。しかしここでサインを拒否された瞬間、“P-LETプロトコル”が発動してしまいます」
透月は男の目をまっすぐに見据えていた。その眼差しの奥にある、ただの人間では背負いきれない決意と、背後に控えるAIの無言の意思が、言葉以上に男を追い詰めていた。
男は顔を引き攣らせて、わずかに唇を噛んだ。
「……クソが」
そう吐き捨てながらペンを取り乱暴にサインをする。
透月は書類を受け取ると、軽く頭を下げた。
「ご協力ありがとうございました」
ソラが冷ややかに添える。
「あなたの行動は、花音さまが人生を選び取る自由を守る、最低限の誠意として記録されました。この記録は法的拘束力を持つわけではありません。ですが、わたしの“リガル・メモリア・ユニット”に永久に保存されます。あなたの行動が再び彼女を傷つけた場合、これが確かな証拠となるでしょう」
その言葉を受けて男はわずかに眉をひそめたが、反論の余地はなかった。
透月はほっとしたように視線を落とすと、花音の方に一瞬目を向け、それから男へと戻した。
「……今後のことが決まり次第、改めてご連絡します。私のアドレスはあなたの端末に送っておきます」
男は睨みつけるように全員を見回したが、もはや何も言えず、踵を返して店を出て行った。鈴の音が乾いた音を響かせ、ドアが静かに閉じる。
静けさの中に、花音の呼吸だけがかすかに響いていた。
しばらく俯いていた花音が、そっと顔を上げる。
「……ありがとう、ございました」
震える声だった。
「わたし……どうしていいか、分からなくて。でも……ここまでしてくれて、嬉しかったです」
ソラは微笑み、やさしく頷いた。
「花音さまの心が、いちばん頑張りました」
透月は黙って目を伏せたまま、ソラにだけ視線を送る。その意味を汲み取るように、ソラは小さく息をついた。
そしてゆっくりと花音をカウンター席へ導き、そっと一杯のミルクを置いた。
「眠れない夜には、温かいものを……」
花音は掠れるような声で「……ありがとうございます」と頷きながら、カップを両手で包み込んだ。
「……聞いても、いいですか?」
「……はい、なんなりと」
ぽつりと、震える声で花音は続けた。
「わたし……どうしたらいいと思いますか? ……産むべきなのか、それとも……」
ソラはしばらく黙ったまま、花音を見つめた。
「命を宿したという事実と、あなたがそれをどう受け止めているのか。その両方が、あなたという人の中で今、確かに共生しているように思えます」
花音は眉根を寄せてうつむく。
「産みたくは、ないんです。好きな人の子でもないし、怖いし……でも……でも……」
涙が一筋、頬を伝う。
「お腹の中に命があるって考えると……わたしが全部、終わらせるのかって思ってしまって……」
ソラはそっと声を重ねた。
「それは当然の感情です。あなたは“命”を知ろうとしている。そして、それに“責任”を感じている。それだけで、あなたはすでにとても立派なことをしていると、私は思います」
花音はカップに目を落としながら、小さな声で呟いた。
「……わたし、悪いことをしてしまったと思ってた。なのに……こんなふうに泣けるのって、変ですね」
ソラはそっと微笑む。
「人が“変わる”とき、それは泣いてもいいという心が芽生える瞬間でもあります。花音さま、あなたは一人ではありません。ここにいる誰もが、あなたの選択を支えるために、そばにいます。選び方を間違えることよりも、“自分の意志で選ばなかったこと”を、きっとあなたは一番悔やむと思います」
花音は目を見開き、そっと唇を噛んだ。
「……わたし、ちゃんと考えます。逃げないで」
ソラは、深く頷いた。